2021年1月22日金曜日

「極めてまれな人権環境で生きてきました」

 若い頃は毎年のように海外へ旅行しましたが、その範囲は非常に狭く、ほぼアルプス以北のヨーロッパに限られていました。これにはそこが私にとって関心のある地域というだけでなく、あまり意識はしなかったものの、私の安全基準を完全に満たす場であることと深く関わっていました。安全の対象の主たるものは生命・身体・財産ですが、例えばドイツならどこで迷子になっても全く心配いりませんが、同じヨーロッパでも公共交通機関の車内に「注意! スリがいます」のステッカーが貼ってあったり(そして実際にいるのです)、車やバイクがビュンビュン通る中心街の大通りに信号がないといった事態に遭遇した場合、私がその地を再び来訪することはありませんでした。これらは当地に住んでいる人にとっては何でもなくかわせること(スリを撃退したり、車の間を構わず横断する)なのですが、普段そういう環境にない者にとっては至難の業です。これに類することは恐らくアジアでも同じではないでしょうか。さらに同じ理由で、私は一般人が銃を保有する国へも行こうという気になれません。

 人間が狩猟採集で生きていた時代には、安全を脅かす最たるものは野生の生物だったはずですが、その後は人間自身が最大の脅威になりました。生命・身体・財産への安全を最も直接的に破壊する戦争は世界各地に今もあり、日本でもわずか80年ほど前には行われていました。また、歴史的には奴隷は当たり前に存在し、その犠牲の上に偉大な文明が築かれてきたのです。これは貧困問題と相まって、現在の日本でも実質的な奴隷が存在すると言えないことはなく、自由の象徴といってもいいアメリカ合衆国でさえ、奴隷制を廃止してまだ二百年もたっていません。

 相手を対等な人間と認めればこそ、「人権」に配慮しなければなりませんが、そう認めなければ何ら痛痒を感じることなく相手を踏みにじることができます。これまで人種・性別等による区別を基に、それぞれの社会に都合のよい線引きが行われ、ここから外れた人には悲惨で甚大な被害が及びました。

 世界人権宣言の第一条には、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とありますが、これがアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言を踏まえた西洋由来のものであり、そうした流血の歴史がなければ現在手にすることのできなかった概念であることは明らかです。さらに、世界人権宣言では安全だけでなく、自由が保障され、かつ、尊厳と権利において平等でなければならないというのです。

 人類史において果たしてどれだけの人が上述のような環境を享受してきたでしょうか。生まれてこのかた戦争を経験したことがなく、身の危険から国を出なければならない事態がなく、食糧・水・エネルギーがまずは潤沢にあり、殺人や強姦、強盗の脅威が身近に迫ったことがない。そればかりか、思想・信条・信仰等の自由が脅かされたことがなく、職業や居住地を好きに選ぶことができ、選挙権がある・・・などという、途轍もなく幸運な人が世界にどれくらいいるでしょうか。そのすべてに当てはまる人はごく少数で、人類史が達成しえた偉大な成果を「棚からぼた餅」的にたまたま手にしているに過ぎないのです。そして、残念なことにその環境が今後も続くかどうかは、誰にもわかりません。

 上記のような恵まれた環境で過ごしていれば、旅行で行ける場所も自ずと絞られてくるというものです。人間の適応力は無限ではありません。ごくまれに、世界五大陸のどこでも無事に旅を楽しめるという人もいますが、こういう人は普段から格段に優れた人との対応力をもち、常に危険を察知して最適の行動ができる才能をもっています。時々海外で報道される邦人の事件は、そういう才能がない人が母国と同じつもりで旅するか、もしくは母国でさえしないような行動をして引き起こしている場合が多いでしょう。自分の生育環境が「箱入り」であることを自覚している人間は、海外ではそういうことに関わらないよう細心の注意を払います。私の海外旅行歴は私が極めて幸運な環境で過ごしてきたことの証なのです。