昨年一番良かったことは(自分にとってではなく国にとってですが)、大学入学共通テストにおいて英語の試験の外注および国語の試験の記述式問題導入が阻止されたことです。英語に関しては言語道断の「身の程発言」は言うまでもなく、学校と業者の癒着を促すこと必然の制度です。それ以上に問題だと思うのは、英語学習への異常な執着を感じることであり、他の教科の学習に比べてあまりにも傾注するエネルギーのバランスを欠いています。国語に関しては、大学生や一般人のアルバイトによる採点頼みというあまりに杜撰な計画に「これがいやしくも国家的プロジェクトなのか」と愕然としました。
国語の記述式入試の立案内容を聞きながら、私は遠い昔に行っていた学校群時代の入学試験について思い出しました。同じ学校群の数校から採点委員が教科ごと一つころにカンヅメにされ、一定の基準に従って採点していくのです。記述式は厄介で、三検目で採点ミスが見つかることも稀ではありませんでした。採点基準はおおよそ幾つかのキーワードが適切に使ってあるか等を中心に点数がきまっているのですが、時にキーワードが一つも使用されていないながら、採点者の意表を突くような正解が必ずあるのです。
「ねえねえ、これって正解だよね?」
どれどれ、おおっ、これはすごい答えだね」
と言った会話が単調な採点作業をいくばくなりとも気の晴れるものにしてくれていました。わずか数千枚の答案の採点を専門家がやってさえそのような状態でしたから、到底アルバイトに任せられるものではありません。大学入試ともなれば、1点に何十人もひしめいていることもあるでしょう。今回のケースは、採点ミスの可能性を十分意識しながら、それをやむを得ないこととして表沙汰になるまで止める人がいなかったことが大問題なのです。この場の空気がどのようなものだったかを想像すると、末期的だと言わざるを得ません。このようなことは教育問題の一端に過ぎず、もはやあらゆる局面で制度疲労が明らかです。
そこでこれからの日本の教育が、少しでも良い方向に転換できるための方策ですが、部外者として暴論を並べさせていただくと・・・・・
1.中央集権的な教育プランの縮減
全国一律なものは最小限にし、あとはそれぞれの地域に委ね、国は「金は出すが口は出さない」姿勢を堅持する。理念としては、幕末における藩校・私塾の復活を念頭に置くことを妨げない。
2.小学校における英語教育の縮減と国語教育の充実
異常に英語に傾斜したバランスを正し、限られた教育資源の投入先を精査する。自動翻訳機の実用化も近い今となっての英語教育はもう遅い。人間の基本はまず国語であるから、小学生には国語の「読み」「書き」に徹底的に習熟させる必要がある。最後に独創性を生み出すのは国語しかない。理念としては、昔の生活綴り方教室の手法を念頭に置くことを妨げない。
3.国の主導による総合的な研究所の設立
この研究所は、研究資金は潤沢にあるが給料は低いという特徴を持つ、「貧乏でも研究さえできれば構わない」という人のための施設である。また、①短期間で結果を求めず、放置して長期間の研究を保障し、②あらゆる分野の研究員を擁し、互いの領域の交流を促進しており、さらに③研究内容に対しては、国は口は出さないが、多額の税金を思い切って投入するという特異な研究所であるため、文系・理系を問わず、マッドな方々が上機嫌で闊歩する状況を呈する。
勝手なことを書いてしまいました。でも日本の復活にはこれしかないと思います。年が明けて東京に戻るバスの中、栃木県に入ったあたりで車内放送が入りました。
「みなさま、ただいま正面に富士山が見えております」
もう何年も高速バスに乗っていますが、こんなことは初めてです。お年を召された運転手さんからのアナウンスで、すてきなお正月のサービスでした。今年は何かいいことあるかな。