2019年11月30日土曜日

「紅春 147」

クリスマスまで間があるので11月末に一度帰省することにしたのは、りくのことが気になったからです。例の事件以後、普通の暮らしができているか、老化は進んでいないかが心配になって様子見に帰ったのですが、りくは結構元気そうで、兄の話ではそれ以後の粗相はないそうです。帰るなり、「散歩、散歩」とねだられ、もうりくの言いなりです。

 朝は4時半ころからやって来るので「まだ早いよ。真っ暗だよ」と言って帰しますが、りくも心得たもので「二度、三度と行かないとだめだな」と思っているのです。5時前後に「おはよう」とやって来る満面の笑顔を見ると、「そんなにうれしいのか」と起きないわけにはいかなくなります。朝、下の橋まで往復2キロくらいしても9時にはまた散歩をせがまれます。「じゃ、セブンに付き合って。コーヒー粉と洗剤会に行くから」と言うと、もう待ちきれない様子です。いつもの土手を行き、勝手知ったるお店の裏手、桃畑の手前につないでおくと、静かに待っています。これも往復約2キロ。

 散歩以外の時間はたいてい寝ていますが、夕方になるとむっくり起きて必ず「散歩に連れてって」とやってきます。トイレを済ませるのに往復で1キロほど歩きます今日は橋を渡り切ったあたりで、自転車を引いてきたおじさんに「かわいい犬ですね。何歳ですか」と聞かれ、「13歳です」と答えると、「えー、若く見える」とのお返事。人間も同じでしょうが、りくは普段ほとんど寝ているのが健康維持に役立っているのでしょう。散歩のときは足腰がしっかりしておりぐいぐい引いていきます。階段のところで膝痛の私が遅れると、「ん、姉ちゃん大丈夫?」と振り向くので、ありがたいけどちょっと情けない気持ちにさせられます。


2019年11月27日水曜日

「KKバス乗り換えゲーム」

 先日自宅からとある大江戸線の駅まで行く必要があり、私は、私鉄・JR・東京メトロ・都営地下鉄・都バスを組み合わせての最適経路を考えていました。「都バスで主要駅まで出て、私鉄に乗り、あと1キロほど徒歩というのが、その時の体調を含めて最適解だな」と、ほぼ決めかけたその時です。ふと、「徒歩の部分に当たる交通手段は何かあるかな」と調べたら、ほとんど未知のKKバスが浮上しました。しかし驚いたのは、そのバスが結んでいるルートです。一方の端は「住みやすい街ランキング」でいつも上位にくるあのJR駅ではありませんか。頭がぼおっとしたのは、その駅に向かうKKバスが家の前を通ることを思い出したからです。つまり、家からKKバスの乗り換え1回だけで目的地に着けることがわかったのです。KKバスは都心とは逆方向に行くバスという先入観があり、利用できる交通手段の範疇になかったので、思いつきもしませんでした。私は想定外の事態に対応するのが苦手ですが、この場合どう考えても最も便利で早い最適な経路なので、即決です。さらに調べたら、十円玉のへりで番号を削り取るタイプの、いつの時代のものですかと思えるような一日券があることがわかりました。都バスのようなICカードではなく運転手さんから買えますが、ホームページの案内には「売り切れの場合があります」といった趣旨のことが書いてあり、なんだかハラハラします。

 今週の通院に際してKKバスを利用してみようと思い立ち、事前に乗り換え時間や乗り場を確認して乗ったのですが、乗り換え用として胸の内ポケットを探ったらない! そういえばさっき何かがスルリと落ちた気がする…。入れたつもりでポケットに入らなかったのだと認めざるを得ず、時間はあるので予定していた乗り換えのバスを見送り、降りたところまで少し戻ってみることにしました。すると降車ロータリーの水たまりのそばに、若干濡れた状態でしたが、一日券が落ちていました。開いてみると、削り取られた日付の状態は忘れもしない自分の作業の跡が認められました。これが見つかったのは奇跡的です。私もしぶとい。病院に着く前にぐったり疲れたものの、十分間に合って1コイン(500円)で往復できました。KKバスの良いところは病院までバスが乗り入れていることで、帰りに用事がなければ雨や猛暑の時などは本当に便利ですから、選択肢が増えて、これはうれしい。何でもやってみるものですね。


2019年11月21日木曜日

「年金ランティエ」

 明治時代の小説に今の人々が違和感を感じることの一つは、学問も修め、結構な年齢になっているのに働いていない、いわゆる高等遊民の存在ではないでしょうか。そしてとっくに隠居している裕福な父親が、息子に生活費を与えつつ結婚を執拗に迫るという家族のあり方に、「うーむ、これでよいのだろうか」と不可解な感覚を抱くのです。こういった違和感は端的に明治の或る時期と現在との社会的、経済的変容の何たるかを教えてくれます。大学を出た青年は当時はエリートであり、世間体もあって学歴にふさわしい処遇が期待できる職業に就く以外に道はなく、一方、家長である父親は家の存続を至上命題として、息子には何としても跡継ぎを残してもらわねばなりません。不幸にして夫婦に子どもがない場合、養子縁組をするという話もよく出てきます。そして明治の或る時期にこういった高等遊民という生活形態のあり方が可能だったのは、今からは想像できないほどの金利の高さがあるでしょう。詳細は知りませんが、例えば金利が7.2%なら10年で預金が倍になるのですから、金利が6%くらいでもそれなりの資産のある人は利息だけで見苦しくない暮らしができたことでしょう。しかし、高金利も長期間は続かず、やがて高等遊民も消えてゆきます。

 もう一つ今の人が明治の暮らしに抱く違和感は、家族。親族の人間関係の親密さでしょう。親族間の行事関係の付き合いは、今よりずっと濃く、また、お金の工面はまずもって親族間で行われていたのです。当然、借金を申し入れる側は相手を納得させられるようなもっともな理由がなくてはならず、またその過程で個人的な事情も親族の知るところとなります。やがて、子どもが様々な理由で都会に出て行き、将来的に老親と同居できず、かつて存在した家族の絆が薄れていくことは時代の趨勢でした。そしておそらく、まるで糸の切れた凧のような根無し草の不安に負けず劣らず、その身軽さや自由を、多くの人が快適に感じたことは間違いないだろうと思います。でなければ、現在まさしく表出しているように、核家族さえ崩壊寸前というところまで家族が解体することはなかったでしょう。明治期になくて今は存在している金融システムの一つはサラ金であり、これは極論すれば、自分勝手な理由でお金を借りたいという人々の欲求を満たす金融上の要請により出現したのです。それゆえ、現代における明治期の小説の読者は、登場人物が直面するお金の工面をめぐる親族間の煩わしさにうんざりしてしまいます。

 また、明治期にはなかった経済にかかわる社会システムの一つは、もちろん年金制度です。これは明治期どころか戦後大分経って整えられた制度ですから、今危機的状況が懸念されてはいるものの、明治の人から見れば夢のような制度であると断言してよいでしょう。明治期の小説によれば、家族のいない使用人は奉公先の家で一生を終えていたのですし、それこそ女性は結婚する以外に生きていく道はなかったことが分かります。

 現代社会においては、働き方は人によって千差万別です。定年まで働き、その後は年金暮らし(余裕のある世代なら海外旅行を好む)という少し前までの王道を行く方々は、明治の人には夢想だにできない年金ランティエと呼んでよいでしょう。また、仕事をセーブしつつ、働く楽しみを一生手放さない人も相当いるでしょう。かつて株のトレーダーは消耗がひどく三十代でリタイアという話をよく聞きましたが、その頃はあとの人生をどう過ごしているのか不思議で仕方ありませんでした。果たしてこういう人がデイ・トレーディング以上にのめり込めることを見つけられるかどうか分かりませんが、これは適宜資産を運用しながら、余生は好きなことをして過ごすという選択だったのかもしれません。そして、その中間に、年金給付資格(かつては25年の払い込みが必要でした)を得たのち、早期退職して残りの人生を送るという方も結構いるでしょう。健康上の理由で定年を待たずに退職する人もいます。この方々は公的年金の開始まで、何らかのたずきの目途が立っており、しかもまだやりたいことやそのためのエネルギーがある世代のはずですから、贅沢はできないものの質素な年金ランティエ予備軍と言えるのではないでしょうか。元気いっぱいの方々はアウトドア系・インドア系を問わず、具体的な好みの方向性、仲間やネットワークの有無、個人的な工夫等によって、相当楽しい老後が送れるでしょうし、読書が趣味などという人はもはやほぼお金をかけずに時間だけはたっぷりある至福の暮らしが待っています。何を幸福と感じるかにもよりますが、現在はこのように社会制度が整えられていることは確かです。年金制度は明治人が望んでも届かなかった優れた社会制度です。他に方法があれば別ですが、ここはよくよく考える思慮深さが必要でしょう。知恵を出し合い、我慢し合って制度を手直ししながら、維持していくほかないのではないでしょうか。


2019年11月14日木曜日

「影山君のこと」

 夜更けに中学の友人からメールが来ました。訃報でした。懐かしい何人もの同級生の手を経て、運ばれたメールであることがわかりました。その夜、彼を知る人は皆悲しくて、眠れぬ夜を送ったのです。私は麗ちゃん探しでとてもお世話になったし、元気なものと思ってばかりいたので信じられない気持ちでした。こういうことはできる限り知らせておいた方がいいと思い、同級生に知らせました。一人は中学・高校のクラスメートで、年賀状とメールでのやりとりはあったものの、お会いするのは何十年かぶりで、元気な姿を嬉しく思いました。麗ちゃん探しで決定的情報をくれたK君は、アドレスが変わったらしくメールが戻ってきましたが、影山君とは縁の深い人だったので他からの連絡を願いました。もう一人は年賀状のやり取りはあるもののメールアドレスを知らなかったので、葬儀には間に合わないと思いましたが、何しろクラスメートのことなので、メールをプリントアウトして封書で送りました。

 影山君は中学で出会った人でしたが、中には小学校、あまっさえ幼稚園からの付き合いという友人も多く、通夜に参列した東京組に訊いたところでは、近しい福島の同窓生が取りまとめて同窓会名で供花を出し、告別式にも参列とのことでした。思うに影山君はいろいろな人の結節点にいる存在でした。追悼とは、その人のことを思い巡らせて様々なことを想起することだと思うので、いくつか思い出したことを書いてみます。

 中学時代はよく席が隣りでした。出席番号順で並ぶときはアイウエオ順的にそうなるのですが、くじ引きだった時もなぜか隣り合わせのことが多く、お互い「えっ、また…」という感じでした。でもそのせいで、当時男子とはほとんど口をきいたことがない私が最もよくしゃべった相手ではないかと思います。話すと何気にとても面白い人でした。消しゴムの貸し借りもしていたなあ。強烈に覚えているのは、卒業間近のころ秘密裏に企画されたお別れ会が先生にバレて一人一人尋問を受けた時、影山君が知らぬ存ぜぬで通したという話です。十五歳でこの対応ができるのはすごいと思うと同時に、「えっ、しゃべっちゃったの私だけ?」という顔面蒼白の事態でもありました。途方もないエネルギーを持て余し、しばしばとんでもない方向に暴走していた中学の頃を思うと、「先生、ごめんなさい」というほかありません。

 最近では、といっても2016年の同窓会で会った時、麗ちゃん探しで行き詰っていた私は影山君と同じ部活でその後麗ちゃんとつながりのあったK君にもう一度詳細を聞いてもらうことで、最終的に葬儀をした教会もわかり、そこからご家族にも辿り着けました。五月だったか六月だったか、影山君に「麗ちゃん見つかったよ」というメールを送ってこのことは一段落しましたが、「探してもらえて、作田は幸せだな」と言ってくれてとてもうれしかったのを思い出します。やり取りの中で、麗ちゃんのことを書いたブログを読んでくれて、ついでに「文学部に行く意味」というタイトルの文に「私も文学部だったので、興味深く読みました」とのコメントをくれました。やり取りのメールの発信時刻が真夜中と言うことも多く、忙しい中で様々な対応をしてくれたこと、申し訳なく、また感謝です。

 こうして思い出してみると、あらためて思いやりのある人でした。だからこそ、多くの人がその死を悼んでいるのです。それにしても早すぎる。いい人ってどうして早く亡くなるのでしょうと思わずにおれません。ご冥福とご家族への御慰めを祈ります。



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2019年11月7日木曜日

「明治イヤーズ一段落」

 宗教改革五百年が終わり、2018年の秋に『中渋谷教会百年史』をいただいたのがきっかけで、私の関心は明治時代に向かっていったように思います。その頃ふと、自分の生年から百年遡るともう江戸時代になる…と分かって、「本当かな」と数え直し、ショックで呆然としたのを覚えています。百年と言えば、或る意味つい最近のことではありませんか。ちょうどその頃、中学の同級生から明治関係の御著書が届き、私にとって大変良い取っ掛かりとなりました。データ化された著作物を音声ソフトで読んでいる私のようなものにとって、著作権が切れてパブリック・ドメインに置かれている明治期の著作物は願ってもない宝の山です。その蔵書の冊数は到底生きている間に読み切れるものではありません。良質の書物が読み放題という本当にありがたい恩恵に浴する幸いに感謝です。人類の英知の一端に触れて感嘆しながら、この1年半ほどを過ごしました。2019年は明治本を立て続けに読むうち、なんだかお話が思い浮かんで短編を書きましたが、まだブログには載せられず塩漬け状態です。

 少し前に、前述の同級生からもう一冊著書をいただきました。通院のついでに道草をして調べてみましたが、発売前に送ってくれたものなのでまだ大学の総合図書館にも入っていませんでした。こういうのはすごくうれしい。その書は、私がかろうじて名前だけは聞いたことのある明治の言論人、三宅雪嶺についての研究書で、推測ですが、日本でもその専門家は十指に満たないのではないでしょうか。専門家の中には時々インサイダーにしかわからない書き方をする人もいますが、この本は日本史に登場する人物についての叢書の一巻であり、私のような一般人がわかるように書かれた包括的な著述の本です。長年の丹念な研究の成果が丁寧過ぎるほどリーダー・フレンドリーな構成で書かれており、信頼できる良書です。送り主はその昔から博士と呼ばれ、いい加減なことのできない理論派でしたから、彼にふさわしい本当に良い仕事をされました。同級生が何十年も前と変わっていないというのは誠にうれしいことです。
 ちゃんと読んでお礼状を書こうと思いましたが、研究者の書いたものに対して何かを言うほどの見識が私にあるわけがありません。そのため、いつものように、思い付きで本筋とは無関係のへんてこ話でお茶を濁すことにしました。

 私が三宅雪嶺という人物について興味を引かれたのは、彼が自分の思考を口述筆記させたという点です。口述というと太宰治のいくつかの作品が思い浮かび、確か『如是我聞』は後にその草稿が見つかって話題になりました。なぜなら、その草稿は太宰が自分で書いたものを暗記して「蚕が糸を吐くように口述し」、記者に筆記させたという事実を暴露することになったからです。淀みなく流れる自分の声を聴きながら、太宰は深い愉悦のうちに自らの天才性を一粒で三度味わったことでしょう。

 三宅雪嶺の場合は、原稿そのものを書く様態が主に口述筆記だったようなので、太宰のケースとは違います。雪嶺が稗田阿礼に匹敵するほどの博覧強記であったという可能性はありますが、決定的に違うのは文字を書ける人だったということです。ところが雪嶺は、洋行の際に顕著だったように、傍らに筆記者がいないと「何も書くことがない」という人でした。彼が筆記者無しに自分に到来するものを口述できなかったと聞いて思い当たるのは、雪嶺が訥弁で知られていたという事実です。私の知る限り、発話に支障がある場合、その人は自分が自分であることに違和感を感じたり苦しんだりしている場合が多い。だから、このような人の多くは、他人に憑依する(風邪で声が変わる、落語の高座に上がる、芝居に出る)ような場合には普通に発話できます。この仮説によれば、雪嶺は口述筆記によれば口ごもらずに話せたと想定できます。一般的に感情が大きく揺れる時など、今の自分と1時間前の自分が別人だと感じることは誰にでもある現象ですが、問題はその度合いです。コギト(とりあえず「私が私であるという確信」と言っておきます)の強弱には個人差があると仮定せざるを得ないと私は思っています。自筆の原稿ではなく署名もないことから生じる問題は、それが本当に本人のものなのかどうかですが、御本を読む限りそういう問題はよく起きたようです。筆跡鑑定もできず署名もないなら、テキストの内容や書かれた状況ほか周辺的な証拠によって、雪嶺のものであるかどうかが判断されることになります。また、雪嶺が入稿直前の原稿に手を入れて修正するので、版下作業の関係者が困惑するという逸話も紹介されていました。思うに、コギトをものともしないタイプの人が原稿への署名に無頓着なのも、校正で原稿を修正することに心的負担を感じないのも当然でしょう。だってその原稿は名実ともに「自分が書いたもの」ではないのですから。

 そして直感ですが、この「私が私であること」への確信は、時間の観念と何らかの関係があるのではないかという気がするのです。自分が音声主体の生活になってわかったのは、「聴く」「話す」行為においてはその行為が続く間、時間を飛び越えられないということです。今はデジタル機器があるのでできますが、本来はできない。音声が続く限りは、それがどれほど長時間続こうが常に「今」であり、その意味で時は止まっているのです。活字を扱う「読む」「書く」の場合は全く異なり、任意の箇所から始めたり終えたりすることができます。時間をフライングできるのです。つまり人間が文字を発明し、文字に書き残すことで手に入れたのは時間意識だったということです。私は今まで「文字とともに歴史が始まった」という言葉の意味を本質においてわかっていませんでした。古の詩人の多くが盲た人であったのはこれと関係があるはずですし、文字を手に入れた人間は「未来に備える」ということを自覚的に行えるようになっただろうと思います。

 書き物をする様態として口述筆記を考えた時、自分にはとてもできないなと思います。自分で書かないと気が済まないのです。私のコギトは結構強固なのでしょう。それでも書く時にどこからか自分ではない声が聞こえてくるという感じはちょっとだけ分かる・・・このあたりのことが「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。この読書から私が得た仮説は「著述の様態はコギトの強弱で決まる」です。どうでしょう。「あなた、いったい何の本を読んだの?」って言われそうですけど。


2019年11月4日月曜日

「幸せな挫折」

 新聞の若い読者からの投稿で、かいつまんで書くと以下のような声があったそうです。
 「幸せになりたい。これまでは親が言う通りにすれば、幸せになれると思ってきた。よい大学に入り、よい会社に入り、人生を歩んできた。けれども、ちっとも幸せに感じない。まずいことに、私はそれ以外のレールを歩むことを知らない。幸せとは何か、どうしたら幸せになれるのか、誰か教えて欲しい。」

 なるほど悲痛な悩みで、何かの拍子に悪い宗教にはまってしまいそうな方です。二十五歳くらい(下手すると卅前後ということもあり得る)方にこんな人生相談をされても困ります。厳しいことを言わなければならないからです。

 これは30年前なら中学生の問いでしょう。しかし、こういう投書が新聞に載ることから考えるに、これが今では二十代半ばくらいの方にとって、マイナーな問いではないということです。しかも、「よい大学に入り、よい会社に入り」とあることから、この方は恐らく普通以上に裕福なご家庭の方だろうと推察されます。それは自分を不幸だとは思っていないことからもわかります。このような若者の隆盛は、「子どもに失敗させたくない」という親心から生じています。親も学校も先回りして、子どもが失敗するのを回避するような選択をさせ続けてきた結果なのです。学校も親御さんに選ばれるためには、いかに面倒見の良い学校であるかを示す必要があり、そうしないとあっという間に生き残り競争からとうたされてしまうという現状があるのです。

 投書をされた方が言っているのは「私は自分の人生を生きたことがない」ということです。「不戦敗の損得勘定」で書いたワールドカップバレーのように、この方は、或る意味、アメリカ戦を欠場させられた選手と同じなのです。試合に出ていないのですから、勝ちも負けもない。しかしこれからさきの人生においては、12か国参加の総当たり戦、即ち11戦連戦の戦いに出続けなければならないのです。失敗や敗北が必ずある長丁場です。

 投書主のような若い方が続生するのは、おそらく今の方々が失敗を極端に恐れるからではないでしょうか。「ワタシ、失敗しないので」という決め台詞のドラマがありますが、「失敗したくない」というのが今の若者の切なる願いです。しかし、失敗から学ぶということこそが人が成長するということであり、人生においてはそれ以外の方法で成長し成熟するということは本来あり得ないでしょう。失敗や挫折の経験がなければ、人は幼児にとどまらざるを得ません。そう思って投書を読み返すと、これはまさしく幼児の物言いです。残念ですが、「ちゃんとした大人になりたい。でも失敗したくない」などという虫のいい考えは通りません。二十五歳はもう決して若くない。やりたいことをやって失敗しながら学び、悔いのない人生を送るしかないのではないですか。何? やりたいことがわからない? その質問にはさすがにお手上げです。