2019年2月25日月曜日

「空耳英語遊び」

 最近、電子辞書の発音機能を利用して、日本語に聞こえる英語のフレーズ遊びがはやっているそうです。が、これは今に始まったことではありません。母語とあまりに違う体系を持つ言語に出会うと、人はそれを学ぶ勉強の合間につい遊びたくなってしまうのか、あるいは、古来から、母語での新語・造語を含めて、言葉遊びは日本人の習性なのか、「はまち “How much?” 」だの、「揚げ豆腐 I get off. 」だの、とりわけ有名だが通じない「掘った芋いじんな “What time is it now?” 」だの、楽しい努力の跡がいろいろ見られます。

 秀逸と思ったのは、「字引く書なり dictionary 」で、意味まで覚えられるとは、やはり昔の方の作品はキレが違う。「かっけー! Super cool!」ですね。本当かどうかわかりませんが、昔の外交官の試験では、
“ Oh, my much match care of no sort.”
のような文に応えるという問題が出たとのこと。解答例としては、
 “Wash a car, Nick. What a tale!  Why not?”
なら合格でしょうか。
「お前待ち待ち蚊帳の外」 — 「わしゃ蚊に食われているわいな」

 先日、友人から「キリン」というお題での作品を書いて何かに応募するという話を聞いて、一つ思い出したことがありました。中学にはなっていたと思うのですが、母が子供の頃読んだという絵本か何かの話をしていて、「キリンの次郎は…」と言ったことがありました。
「キリンの名前って『じろう』って言うんでしょ?」
「キリンの名前?」
「キリンは『じらう』とか『じらふ』とか・・・」
「・・・お母さん、それ、giraffe なんじゃない?!」
「キリンって giraffe って言うの?」
辞書を引いて確認、二人で大笑いしました。「じらふ」と「giraffe」は発音が相当違いますが、昔の人はこうまでして英語を覚えようとしたのかと思うと、その遊び心はなんと健気で可憐なことでしょうか。

2019年2月19日火曜日

「紅春 134」

「四季の里でライトアップしているみたいなんだけど、りくと行く?」
「いつ?」
「今」
 1月中頃の会話です。兄が急にどこかへ行こうと言うのは、いつも写真を撮るのが目的です。最近一眼レフに凝っていて、腕を磨いているようなのですが、遠景、近景を撮るのに被写体が必要なのでしょう。以前も四季の里の裏側に出る林の中を通って、落ち葉を踏みしめながら遊歩道を歩いたことがありました。夜景となるとまた違った技術が試されるのでしょう。急いで準備して出かけましたが、暗くなってからりくを連れてのドライブは初めてです。(私が不在の時、パニック症状を起こして強制的に病院に連れていかれたことのあるりくは2度目。そんなこともあったなあ。) 

 その日のりくはよく見えないのが却って幸いしたのか、いつもより落ち着いていました。到着してみると、思っていたより暖かく、割と人出はあって、静かな夕べでした。入ろうとして、「犬は入れない」という問題発覚。すまなそうに告げるおじさんの前で、りくはその時一番してはいけないことをしようとして踏ん張っており、「ああ、すみません」とりくの落とし物を始末して園外へ出ました。代わる代わるりくの番をすることにして、イルミネーションを楽しんできました。りくにも園外からライトアップを見せましたが、まったく関心なし。知らないところに行くとりくはすぐそわそわしてしまい、「兄ちゃん遅いな。早く帰ろう」と言ってくるのです。ほどほどに切り上げ、なんだかちょっと疲れましたが、よい夜の散策でした。
*写真は遊歩道を歩いた時のもの

2019年2月15日金曜日

「危機対応の教育」

 都心で積雪が予想されながら、さほど降らずに翌朝を迎えた日のことです。その日は日曜だったのでいつものように礼拝に行くためにバスに乗りました。地面が凍っていたので予感はしたのですが、案の定、バスは普段よりゆっくり目に走っています。そのうち、「橋の上で事故があり、通行止めとなりました」とのアナウンスが入りました。通行止めとはいってもバスは橋に向かうしかない状況にあり、当座は事故車両を避けて一車線での往来になりました。橋の上では止まったりごくゆっくり進んだりを繰り返しています。いつも十分な時間を見て家を出ているので、私はさほど焦ることなく、「ここからどうやって礼拝に遅れずに行くか」を考え始めました。とりあえず電車の駅まで着ければ、あとはそう時間はかからない。電車の駅は、A駅なら山手線、B駅なら確か東京メトロを乗り継いでいけるはず・・・・。

 そんな時、バスの中に大きな声が響きました。
「運転手さん、今日、入試の子が泣いてるよ。あと10分しかないんだって。どうするの。」
 声を上げたのは三十代くらいの男性で、「学校に電話したの? 電話がない? これ使いなさい」と、中学生と思われる女の子を相手に話しをしています。今どき携帯電話を持っていない中学生に私はちょっと感動したのですが、社内もざわつきだして、恐らく本社と連絡を取ってのでしょう、運転手さんから「橋を渡り切ったところで左折し、いったんバスを止めます」とのアナウンスがありました。 その後、その女子中学生がどうしたのかはわかりませんが、私がバスを降りた時には後続のバスからも入試と思しき中学生が何人か降りてきたので、他にも同様の被害者はいたようです。

 もう一つの橋を徒歩で渡りましたが、事故の始末はそうすぐには済まないようで、後ろからくるバスはありません。ふと、その先から出るバスがあったような気がして、私はバス通りに沿って1キロほど速足で歩きました。ただ、このような日は普段とは運行状況が違っている可能性が高いと考え、さらにバス停を2つ過ごし、3つ目に近づいた頃、後ろから駆けてくる足音に抜かれたので、私も後を追って駆けました。思った通りバスが来て、なんとか間に合って乗ることができました。A駅に着いてみるといつもより40分ほど遅れていましたが、ちょうどよい乗換のバスがあって、結局何事もなく礼拝に出席できました。

 その後、バスの中でのことを思い出し、よく考えるとこれはまずいのではないかという気がしてきました。まず、おじさん(お兄さん化も)のほうですが、困っている人の助けになっているのはとてもよいのですが、事故は運転手さんの席ん人ではないのに、その発言が何故、「入試に遅れる子がいる責任の一端はあなたにある」ともとれる言葉になってしまうのかということです。誰かに責任を押し付けるというのは現代の風潮かもしれませんが、この場合のように「責任者出てこい」と言って答えられる責任者はいない事例もあるのです。さらに、このような場合に運転手さんを委縮させては、事態は良い方向に行かないことは確かでしょう。

 次に、運転手さんですが、事故のアナウンスをしたところまではよかったのですが、その後、何の方向性も示さずに結構長い時間がたったのがよくなかったと思います。「橋の上ではバスを止められないので、渡り切った左側のところで止めます。もうしばらくご辛抱ください」と言えばよかったのです。本部の指示を待つのではなく、自分の頭で考えて、「今はこうするのが一番良い状況だ」ということを、逆に本部に打診し許可をもらうという姿勢が必要だったと思います。

 一番の問題は受験生で、これは「まだ中学生なんだからしかたない」とは言えないと思います。厳しいようですが、15歳にもなって、人生の一大事に他人から声を掛けられるまでめそめそしくしくでは困ります。私なら、というか、私が中学生の頃なら、じたばたしたと思います。運転手に「今日入試なので、止まれるところで降ろしてください。行けるところまで歩きます」と言うとか、近くの人に「誰か携帯貸してください。今日入試なのですが、間に合わないので学校に連絡したいのです」と言うとか。これができたとしたら、たとえ集合時間に遅れたとしても、まったく問題ありません。そういう意味では生きる力が損なわれているのではないかと危惧するのです。私が入試の責任者なら、遅れた事情を聞いてそれが説得力のある対応と思えるなら、もう学ぶ構えはできているのですから「はい、合格」です。

 件の中学生がここまで困った状態になっても声を掛けられるまで黙っていたのは、これまで困ったことが起こると周囲が先回りして解決に動いてくれていたからだと思うのです。私が務めていた最後の十年くらいは、とにかく面倒見がいいことが求められ、生徒と保護者の要望を忖度し、用意する・・・それができるのがよい先生、それができる学校が良い学校になっていった感があります。進学等の点で生徒の望みがかなうことはうれしいことなのですが、教育が商品になっていく過程で、私は教育に対する関心を急速に失いました。退職したのは体調が仕事に耐ええぬ状態になったせいですが、教育に未練がなくなったことともきっとどこかで関係していただろうと今では思います。

 福澤諭吉は『福翁自伝』の中で自らの修業時代を懐かしげに振り返っています。確かに緒方の書生は貧乏で、粗衣粗食であり、見看みる影もない貧書生でした。しかし、福澤には「その時間こそが自分の学ぶ力を作ったのだ」という揺るぎない自信が見られます。学問と向き合うその頃の学生の様態を福澤はこう書いています。

兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却(かえ)って仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先(ゆくさき)ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左(さ)ればと云()いって只ただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最も宜(よろ)しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何(どう)したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何(どう)すれば旨い物を喰)く)い好(い)い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自(みず)から静(しずか)にして居らなければならぬと云う理屈が茲(ここ)に出て来ようと思う。

 150年前の学生の在り様をかなり露骨な言葉で述べているのに衝撃を覚えますが、もっと深刻に受け止めるべきは、それが今現在と何も変わらないということでしょう。現代は社会の移行期的混乱の中にありますが、それは明治期の社会的階級変動を伴う混乱とどっこいどっこいでしょう。学ぶことから何が得られるかはその人次第です。年を重ねた福翁の忠言に耳を傾けなければならない時ではないでしょうか。


2019年2月10日日曜日

「神の不在と信仰」

 東日本大震災の時に、津波で破壊された悲惨な光景の写真とともに、「残酷に人を殺した神は死んだ。そもそも神などいないのだ」というような記事を書いた写真家がいると聞いたことがあります。そこに、母親に抱かれた赤ん坊が涙でうるんだ目でこちらを見つめる写真があり、それに添えられた写真家の文章は、「取り繕う大人の中で赤ん坊だけが私を見つめる」というものだったそうです。大災害で無辜の人々が死んだり人間の営みのすべてが破壊されたりするのを目の当たりにすると、「神も仏もない」という言葉が人の口の端に上ります。「こんな目にあって神を信じられますか」と不躾に聞く人もいます。神を信じる者たち自身、「主よ、なぜですか。何故このようなことが起きるのですか」と、呻きながら絶え間なく口にする問いでもあります。これは答えるべき言葉が見当たらない或る意味、永遠の課題でしょう。詩編の詩人が書くように、「お前の神はどこにいる」と嘲られているのです。

 しかし、ここで黙り込んだり、涙に暮れたりしていてはいけないのではないか、と最近思うようになりました。こういう言葉を投げつける人、言葉にしないまでも心でそう考える人は、多くの場合神を信じていない、というか、心底神を信じるということをしたことのない人ではないかと思います。もちろん、何事かある時は、神様にお願いしたり、感謝したりということはあるでしょうが、それだけなら幼児の振舞いに過ぎません。この場合、「きっと神様はいる」でも「どうせ神なんかいない」でも同じことで、それはまだ信じるとか信じないとかのレベルではないのです。

 『ヨブ記』が読まれるのは、ヨブが友人たちとの心えぐられるような言葉のやり取りの中で、それでも神の不在に耐え続けたからであると私は思います。そんなヨブに神は最後に創造主として姿を現すのです。これは何を意味しているのでしょうか。おそらく、逆説的ですが、「神の不在に耐えることができるのは信仰者だけである」ということを語っているのです。

 「神を信じるとはどういうことかわからない」という人も多いことでしょう。また、「何のために神を信じるのかわからない」という人もいるでしょう。これはもちろん神を信じればいいことがあるというようなことではありません。「神様を信じると、何かいいことあるの」という形でしか問いを立てられない人に対する答えは、「何もないよ」でよいのです。問題は「信じたい」と真剣に思っている人に対して、「神を信じればすべてが益になる」という実感を語る言葉があるかどうかです。「それってただの気の持ちようじゃないの?」という疑念を越えることができるかどうかです。

 それなりに長い年月を生きてきて出会った多くのクリスチャンの中で、錬成された信仰者には共通の姿が見られるように思います。それは、自己の歩みを既に定められている神の御計画に同期するように描き見て、常に記憶された出来事の意味を書き換えているのではないかということです。神の不在と思えた時間を、自らが霊的に、また人間として成熟することによって、事後的にまぎれもない神の臨在として受け止めているのだということです。

 私は基本的に鼓腹撃壌型の人間なので、だいたいいつでも今その時が「今までで一番よいとき」と思えるし、間違いなく死ぬときには「ああ、なんと幸福な人生だったことか」と思うに違いないことを確信しています。それは今思うと、クリスチャンホームに生まれた時に神の愛を無償でいただいて、その後を曲がりなりにも信仰から離れず生きてこられたからなのだということを、ようやくわかるような歳になりました。世間的にはずっと少数者でしたし、なんだかよくわからないギフトをもらって面倒だなと思ってもいました。信仰とは「なんだかよくわからないギフト」なのだと思います。信仰とは、わからないなりにそれが与えられたことの意味と格闘しながら、一生懸命生きて自ら幸福になることによって、「あれが信仰だったのだ」と遡及的に証しするしかないものなのではないでしょうか。

2019年2月6日水曜日

「災難からの回復」

 使っているパソコンデータの保存媒体SSDがだんだん一杯になって来たので、昨年末に大容量のものにしようと思ったのが始まりでした。時間はかかったものの、自分では全部コピーし終えたと思い開けてみると「このフォルダは空です」という表示の出るフォルダが結構たくさんありました。よくわからないままコピーをし直したのが状況を悪化させたようで、コピー先のデータが無いというだけでなく、なんとコピー元のSDDが開かないという困った事態になりました。

 ランプはつくもののどうやっても開かなくなり、「終わった・・・」と思いました。まるで、津波に全てをさらわれた人のように茫然としてしまいました。ここ十年くらいの資料がなくなり、特に階層化の奥の方にあったものは、ほぼ喪失という状態だとわかりました。自分でデータを取り出すのは無理と判断し、調べてみるとこういったことを扱っている業者は「空です」と表示されたフォルダからもデータを取り出せる場合が多いとわかりました。そのような最終手段があることで一応安心し、急ぎの用事もあったのでコピー元のSSDはそのままにしました。

 次にしたことは、とりあえずコピーできたデータと、それまでにバラバラに一部バックアップしていたSSDや手元の資料を用いて復元できる部分を復元あるいは新たに創出することでした。この過程で、「ああ、ちゃんと細目にバックアップしておけばよかった」と何度悔やんだことか。先月までの教会ホームページのバックアップ及び理事会関係の資料、作成中の会報のバックアップは無事でほっとし、備忘録や家計簿等もう二度と見ることはない資料も、これがないと過去を失った気がしてできるだけ復元しました。あとは必要を感じるごとにコピーまたはバックアップデータから探し出して、その都度補いながら使っています。写真類は粗方なくなっていますが、SDカードに原版が残っているものもあるから、まあしかたない。いざとなったら業者にお願いする手もあるのだと考えつつ、1カ月以上たった今となっては、「案外、身軽になってよかったのかも。必要なものはまた作ればいいんだし・・・」という気分にまで回復しました。先日は管理組合の総会も終わり、こちらも役職を解き放たれてずいぶん身軽になりました。人間は思っていたより回復力があるんだなと知った出来事です。

2019年2月2日土曜日

「紅春 133」

 りくがうちに来た当初はりくに首輪をしていたのですが、その後すぐハーネスに切り換えました。なんとなく首にだけ負荷がかかりそうな首輪よりいいかなと思ったからです。以来ずっとハーネスなので、りくもそれがあって当たり前で、お風呂の後もハーネスをしないと外に出られないことは知っているので嫌がることはありません。


 先日、土手を歩いてコンビニに買い物に行き、帰り道のことでした。何か違和感があってよく見ると、りくの脚が両方とも同じ穴に入っています。元々緩めにしており、寝転んでいる時など片脚がスルッと抜けてしまうことがあるのです。「あらっ」と思い、急いで付け直そうとしました。普段なら、河原で脚が抜けても、りくはどこへ行くでもないので心配はないのですが、今はすぐ脇が道路でビュンビュン車が通っているのです。しかし、こっちも気が動転しているのでなかなか入らないどころかハーネスが全部抜けてしまいました。こちらの焦りがりくに伝わって次第にりくも興奮してきました。

 このまま車道に出られたら車に轢かれる・…いつも土手の散歩だけなのでりくには車の怖さがわかりません。これはいけない…私はりくを抱き上げ、ハーネスを拾ってそのまま河原へ向かって200mほど走りました。りくはもう10キロ近くあるので、抱っこしたまま走るのはとても大変で腕がしびれてきましたが、、とにかく土手の下の絶対に危なくないところまで抱いて来て、それから地面に置いてみるとおとなしくしていました。ゆっくりハーネスの2つの穴に1脚ずつ入れてようやく落ち着きました。「りく、今危ないところだったんだよ。車にぶつかったら死んじゃうんだからね」と話しましたが、全然わかってないみたいです。あっちでクンクン、こっちでクンクンをしているりくの興味に付き合いながら、のんびり家に帰る道で、「これからはハーネスと脚の位置を確かめてから散歩に出なければいけないな」と、安堵の思いとともに強く思いました。