時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。
これだけです。「行きなさい」と言われて、「言われたようにいで立った」のです。エジプトで苦しむイスラエルの民を導き出させるために、神が呼びかけた時のモーセの態度はそれとは対照的です。
モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。 (出エジプト記3章11節)
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。 (出エジプト記3章13節)
モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。 (出エジプト記4章1節)
モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。 (出エジプト記4章10節)
モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。 (出エジプト記4章13節)
これほどの違いは、単にアブラハムが家族・親族だけを連れて旅立てばよかったのに対し、モーセは大勢のイスラエルの民を連れ出さなければならなかったから、とのみ言うことはできないと思います。アブラハムは恐らく霊的に研ぎ澄まされた人だったのでしょう。神を求めるシグナルをずっと出し続けていた人なのだと思います。それを捉えた神がまたアブラハム宛てのメッセージを送った。それはおそらくアブラハムにしか聞こえない声だったのですが、彼はそのシグナルを間違いなく捉えて従ったのです。ちょうど制御不能となって宇宙をさまよっていた「はやぶさ」の微小なシグナルをジャクサの職員たちが寝ずの番で待って受信し、軌道に戻したように。
モーセには弁の立つ兄のアロンが同行者として与えられました。『民数記』6章24~26節にアロンの祝福が出てきますが、私が東京で通っている教会では、この言葉がいつも礼拝の終わりに派遣の言葉と共に発せられます。
「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」。
ここで「顔」という言葉が二度出てくることもずっと気になっていたのですが、或る時ふっとその意味がわかりました。これは、神から「ほかならぬあなたへの」祝福であり、恵みであり、平安なのだというメッセージを知らせる手がかり、符牒だったのです。アブラハムはそのしるしをすぐに捉えられたひとでした。モーセはこのメッセージが自分宛てのものかどうか自信が持てず、何度も何度も確かめたのです。それが本当に自分宛てのシグナルであれば、どうしても解読し応答しなければならないことは彼にもわかっていたからです。