近年ノーベル賞受賞者発表の時期になると、「今年もいるかな」と少しわくわくする気持ちが心をかすめるのですが、毎年のように日本人がノーベル賞を受賞していることが巷でひそかなトピックになっていることを最近知りました。私も世界のトップ10くらいには入っているかと思っていたのですが、それどころではないようなのです。それぞれの受賞者の人数のカウントは出生地や研究実績のある国のこともあれば現在の国籍だったりと多少ずれがあるようですが、或る資料によると、今までのところアメリカ合衆国が全体のほぼ半分という圧倒的多さを誇り、次いでイギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、スイスと来て日本は7位です。ちなみにロシア、オランダ、イタリアまでがトップテンに入っています。すぐ気づくのは、アメリカには日本には一人もいない経済学賞の受賞者が多く、またフランスには文学賞が、スイスには平和賞が、スウェーデンにはそのどちらもがそこそこに多いということです。
これらの賞ももちろん大変な賞ですが、理科系というか自然科学分野のみの比較を行っている資料もあります。文科系の人間が見ると、「本当に頭のいい人」とも言えるハードウェア―のスペック比較のようであまりいい気はしませんが、これはこれで一つの資料です。 それによると、アメリカの圧倒的な強さは変わりませんが、イギリス、ドイツ、フランスに次いで日本が5位です。もう少し年代を区切って見ると、日本には戦前の受賞者がいないのに対してドイツとフランスは戦前(すなわち70年以上前)の受賞者が多く、戦後に限って言うなら日本はフランスを抜いて4位になります。ところが話はここで終らず、21世紀に入ってからの比較をしている資料もあるのです。あまりスパンが短いので意味のある比較かどうか疑問ですが、単純に2001年~2017年で言うと、1位アメリカ(66人)、2位日本(16人)、3位イギリス(11人)、4位フランス(7人)、5位ドイツ(6人)という驚くべき結果になっています。なお、経済学賞まで含めたこの期間のランキングを出している英国の教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」では、日本は3位に格付けされていますが、私はこの資料を信頼性の点で却下します。理由は中国が10位に格付けされているので「そんな人いたっけ?」と調べてみたら、なんと2009年に物理学賞を受賞した英、米国籍のチャールズ・カオ氏が上海生まれという理由で、また2010年に化学賞を受賞した日本の根岸英一氏が満州国生まれという理由で中国にカウントされており、「いくらなんでもそれはないでしょう」と思ったからです。疑念の目で見ると、この英国教育誌での格付けを決める得点は、「受賞者が1人なら1点だが、2人で共同受賞した場合は各0・5点、4人なら各0・25点とする」という不可解な採点方法を採用しており、これは純粋な受賞者数で英国を上回る日本を3位に格付けするためにとった強引なやり方にも思えてきます。
目ぼしい国の中にアジアでは日本以外の国が出てこないのですが、そのことで日本人の優秀さを誇りたいのでもなければ、近隣諸国を蔑視しているのでもありません。ただ日本は恵まれていたのだということは確信を持って言えます。すなわち19世紀の内乱ともいえる明治維新前後の混乱の時代、また20世紀の悲惨な戦争の時代を別にすれば、日本は徳川の治世よりざっと400年の平和な時代があったことです。安心して好きなことをできる環境、「何だかよくわからないけど、これを追っていくととてつもなく面白いことになりそう」といった事柄に没頭できるのは太平の世でなければあり得ないことです。子供の頃、楽しみにしていた土曜夕方のテレビドラマに平賀源内を描いた「天下御免」と田中久重を描いた「からくり儀右衛門」というのがあり、この番組は同世代の人なら必ず話が盛り上がるほどよく知られたものです。こういう「かなり変わっているが面白いことを考えており、放っておくととんでもない達成をしてしまう人たち」という一つの類型が、細々とではあるが脈々とそれなりに典型的な系譜としての地歩を保っているのが日本という国です。これは千年前の物語でも母国語で読める豊穣な文字文化、特に外的と争う必要のなかった江戸時代の太平の中で、生まれ発展した出版文化が庶民にまで行き渡っていた成熟した社会を抜きには語れません。それは少数の階層上位者がラテン語を通して知のネットワークを形成していた中世~近代ヨーロッパの学究の在り方とは全く別物なのは明らかです。オクスフォード出の才女ジェーン・オースティンが『高慢と偏見』や『エマ』を書いていた頃、日本では十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に庶民が手を打って笑い転げていたのですから。十返舎一九は作品執筆による収入だけで生活した、日本初の職業作家ともいわれており、職業的著述業の成立を可能にする規模の出版市場がこの頃生まれたというのは世界中で日本だけだったでしょう。
ヨーロッパにとっての問題は、国民国家となりラテン語文化圏が消滅した後の知的レベルの構造です。階層化された社会であることは間違いなく、かつ西欧の主だった国々はどこも移民社会であることを踏まえると、特にその国の言語(フランス語なりドイツ語なり)を自在に扱えない国民の割合が増えてくると、ノーベル賞級の知的ブレークスルーを起こし得る要件も減っていかざるを得ないでしょう。さらに、金もうけ至上主義に席巻された後の世界では、「金になりそうもないことはしない」という価値観が骨の髄まで染み込んだ人が多いのも、大きな問題要因だろうと思います。日本でノーベル経済学賞受賞者が出ないのは、経済に関心のある人は皆、実際のビジネスの場に出て行ってしまうからかもしれません。
アジアの場合は、国土の蹂躙やその後の混乱及び困難な歴史に日本も取り返しのつかない仕方で加担してきたのですから、これはもう心から詫びるしかありません。そのうえであえて言うなら、近隣主要国において取れていておかしくない自然科学系のノーベル賞がまだ取れていないことには政治体制の在り方の違い以外にも理由はあるようにおもいます。それは民衆文化の違いです。1つには、日本では真にオリジナルなものに対して敬意を払い万雷の拍手を惜しみませんが、達成の果実を素早くコピーするのが賢い振る舞いとされる社会ではオリジナルなものが生まれ育つはずがないということです。他人の努力の結晶をパクることは一時的には得をしたような気がするかもしれませんが、長い目で見れば自分を毀損する大損と言える行為です。
そして2つ目は、自分をその未熟さを含めてどれだけクールに客観視できるか、自分が今いる場所をマッピングできるかに関わる問題です。毎年話題になる村上春樹のノーベル文学賞受賞漏れも、日本では「残念だな」と思うもののそれだけの話ですが、いまだ無冠の隣国では「我が国が受賞できないのはロビー活動が足りないからだ」という、日本人には思い浮かびもしない憶測が流れるのです。このような方向に考え始めると、単に膨大な時間とエネルギーを無駄にするだけでなく、以前ノーベル賞に絡んで起きた論文捏造事件のような空気圧を生み、ますます研究者を追い詰めてしまいます。こちらの国は漢字文化を捨ててインテリの言葉としては英語へとシフトしましたが、わずか一、二世代前の文献さえ読めない状況は、自国の知的アーカイブにアクセスできないことを意味し、これはまさに自国文化の根源を喪失しつつある深刻な事態であり、他国のことながら本当にもったいない、惜しいことだと思います。
とはいえ、日本も30年かけて文科省の愚策が完遂されつつある状況なので、もうノーベル賞受賞者が出ないという現実がいつ訪れても私は驚きません。学問に関して私が願うことは、「干渉しないで好きなことをやりたいようにやらせてみるしかないでしょう」ということです。高等教育の場ではもうそんな環境はどこにもないのでしょうか。少なくとも、「結果が何ものになるかわからないが、なんとか食べていければいいからこれを研究したい」という人たちに、呼吸ができる場を与えてあげてほしいと切に願います。