私は年配の方のお話を聞くことが好きですが、それはやはり長い人生経験から語られる言葉には耳を傾けなければならないと思うものがあり、考えさせられるからです。また、年下の方でもそのお話を聞いて「若いのにエライ」と思う人々は、その人自身の独自の考えと言うより周囲に立派な大人がいるのだろうと思わされることが多いです。人生の良きロールモデルを見ながら自分なりの歩みを進められる人は本当に幸いだと思います。
私はこれまで学校においても職場においても、同じ年頃のクリスチャンの友人というものがいなかったのですが、何年か前にほぼ同い年の友人ができ、近頃は時々一緒にお茶をすることがあります。年代が同じだとこれまで生きてきた時代がおなじですから共通点も多く、今後の人生についての話も合うのです。その友人は、「こういうふうに歳をとりたいと思う人が世の中にはいないけど、教会にはいる」と言うのです。この言葉にあまりピンとこなかったのは、勤めていた時はそれなりに立派な年配者はいたし、退職後は世の年配者と接する機会がほぼ無いせいかもしれません。現在私が接するのは大体教会の方で、いつも快活でにこやか、素晴らしい働きをなさっている方々ばかりなので、年配者とはそういうものだと思っていたのですが、一般世間的にはそうではないのでしょう。
11月の第一日曜は逝去者記念礼拝がある日でしたので、私も帰省して福島教会に参りました。この日は11月とは思えぬようなうららかな天候に恵まれ、教会堂で礼拝をささげた後、行ける人は信夫山の教会墓地で墓前礼拝を守りました。福島教会には1893年から125年の間に180名もの先に天に召された兄弟姉妹がおり、教会員を含めご遺族が何人か出席されました。礼拝説教は「死んでも生きる」と題して、ヨハネによる福音書11章から御言葉を頂きました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 (25、26節)
この日歌った讃美歌385番「花彩る春を」の一番の歌詞はこうです。
花彩る春を この友は生きた
いのち満たす愛を 歌いつつ
悩みつまずくとき この友の歌が
私をつれもどす 主の道へ
この歌詞の如く、召された一人一人の信仰の姿勢が季節の中で私たちに語りかけ、生きている人とは別のしかたで触れてくるのを私は日々感じています。私にとってすでに召された信仰者が「生きている」ことは体感的にもその通りであり、先ほどのヨハネ福音書の言葉には深い感謝をもってアーメンと言うほかありません。