2018年11月29日木曜日

「紅春 130」

りくは命令されて「お座り」をすることはありません。「お手」も「伏せ」もコマンドさえ知りません。それらは皆、犬にさせる芸だからです。ご飯の時くらいはお座りをさせようとしたこともあったのですが、「なぜお座りという芸をしなければならないんですか」と言われ、「まあそんなこと言わずに、ご飯あげるから」となだめてお座りさせようとしたら、「姉ちゃんは飼い主なんだから、ご飯をくれるのは当たり前でしょ」と言い返されて、その通りなのでぐうの音も出ませんでした。

 りくがお座りをするのはお願い事がある時です。散歩に連れて行ってほしいときはいつまででもお座りの姿勢を崩しませんし、お肉のトッピングでおいしかった時もやはりお座りをし、わかりやすい仕方で「今のもう一杯!」と知らせてきます。人にお願いするときは礼を尽くさなければならないことは、教えなくてもわかっていて自分からちゃんとするのです。

 困るのは、事情を知らない方、宅配の人や散歩中に会った見知らぬ人が、時々りくに「お座り!」や「お手!」のコマンドを出す時です。「あ、教えてないので」と説明しますが、どうも「こんな基本的なことも教えてないのか」と驚かれるようで、りくがバカ犬のように思われるのはつらいです。「あなたは家族に『お座り』をさせるんですか」と言いたいのをぐっとこらえて、その場を耐えています。りくは人間並みに賢いのです。

2018年11月23日金曜日

「ノーベル賞に通じる道」

 近年ノーベル賞受賞者発表の時期になると、「今年もいるかな」と少しわくわくする気持ちが心をかすめるのですが、毎年のように日本人がノーベル賞を受賞していることが巷でひそかなトピックになっていることを最近知りました。私も世界のトップ10くらいには入っているかと思っていたのですが、それどころではないようなのです。それぞれの受賞者の人数のカウントは出生地や研究実績のある国のこともあれば現在の国籍だったりと多少ずれがあるようですが、或る資料によると、今までのところアメリカ合衆国が全体のほぼ半分という圧倒的多さを誇り、次いでイギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、スイスと来て日本は7位です。ちなみにロシア、オランダ、イタリアまでがトップテンに入っています。すぐ気づくのは、アメリカには日本には一人もいない経済学賞の受賞者が多く、またフランスには文学賞が、スイスには平和賞が、スウェーデンにはそのどちらもがそこそこに多いということです。

 これらの賞ももちろん大変な賞ですが、理科系というか自然科学分野のみの比較を行っている資料もあります。文科系の人間が見ると、「本当に頭のいい人」とも言えるハードウェア―のスペック比較のようであまりいい気はしませんが、これはこれで一つの資料です。 それによると、アメリカの圧倒的な強さは変わりませんが、イギリス、ドイツ、フランスに次いで日本が5位です。もう少し年代を区切って見ると、日本には戦前の受賞者がいないのに対してドイツとフランスは戦前(すなわち70年以上前)の受賞者が多く、戦後に限って言うなら日本はフランスを抜いて4位になります。ところが話はここで終らず、21世紀に入ってからの比較をしている資料もあるのです。あまりスパンが短いので意味のある比較かどうか疑問ですが、単純に2001年~2017年で言うと、1位アメリカ(66人)、2位日本(16人)、3位イギリス(11人)、4位フランス(7人)、5位ドイツ(6人)という驚くべき結果になっています。なお、経済学賞まで含めたこの期間のランキングを出している英国の教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」では、日本は3位に格付けされていますが、私はこの資料を信頼性の点で却下します。理由は中国が10位に格付けされているので「そんな人いたっけ?」と調べてみたら、なんと2009年に物理学賞を受賞した英、米国籍のチャールズ・カオ氏が上海生まれという理由で、また2010年に化学賞を受賞した日本の根岸英一氏が満州国生まれという理由で中国にカウントされており、「いくらなんでもそれはないでしょう」と思ったからです。疑念の目で見ると、この英国教育誌での格付けを決める得点は、「受賞者が1人なら1点だが、2人で共同受賞した場合は各0・5点、4人なら各0・25点とする」という不可解な採点方法を採用しており、これは純粋な受賞者数で英国を上回る日本を3位に格付けするためにとった強引なやり方にも思えてきます。

 目ぼしい国の中にアジアでは日本以外の国が出てこないのですが、そのことで日本人の優秀さを誇りたいのでもなければ、近隣諸国を蔑視しているのでもありません。ただ日本は恵まれていたのだということは確信を持って言えます。すなわち19世紀の内乱ともいえる明治維新前後の混乱の時代、また20世紀の悲惨な戦争の時代を別にすれば、日本は徳川の治世よりざっと400年の平和な時代があったことです。安心して好きなことをできる環境、「何だかよくわからないけど、これを追っていくととてつもなく面白いことになりそう」といった事柄に没頭できるのは太平の世でなければあり得ないことです。子供の頃、楽しみにしていた土曜夕方のテレビドラマに平賀源内を描いた「天下御免」と田中久重を描いた「からくり儀右衛門」というのがあり、この番組は同世代の人なら必ず話が盛り上がるほどよく知られたものです。こういう「かなり変わっているが面白いことを考えており、放っておくととんでもない達成をしてしまう人たち」という一つの類型が、細々とではあるが脈々とそれなりに典型的な系譜としての地歩を保っているのが日本という国です。これは千年前の物語でも母国語で読める豊穣な文字文化、特に外的と争う必要のなかった江戸時代の太平の中で、生まれ発展した出版文化が庶民にまで行き渡っていた成熟した社会を抜きには語れません。それは少数の階層上位者がラテン語を通して知のネットワークを形成していた中世~近代ヨーロッパの学究の在り方とは全く別物なのは明らかです。オクスフォード出の才女ジェーン・オースティンが『高慢と偏見』や『エマ』を書いていた頃、日本では十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に庶民が手を打って笑い転げていたのですから。十返舎一九は作品執筆による収入だけで生活した、日本初の職業作家ともいわれており、職業的著述業の成立を可能にする規模の出版市場がこの頃生まれたというのは世界中で日本だけだったでしょう。

 ヨーロッパにとっての問題は、国民国家となりラテン語文化圏が消滅した後の知的レベルの構造です。階層化された社会であることは間違いなく、かつ西欧の主だった国々はどこも移民社会であることを踏まえると、特にその国の言語(フランス語なりドイツ語なり)を自在に扱えない国民の割合が増えてくると、ノーベル賞級の知的ブレークスルーを起こし得る要件も減っていかざるを得ないでしょう。さらに、金もうけ至上主義に席巻された後の世界では、「金になりそうもないことはしない」という価値観が骨の髄まで染み込んだ人が多いのも、大きな問題要因だろうと思います。日本でノーベル経済学賞受賞者が出ないのは、経済に関心のある人は皆、実際のビジネスの場に出て行ってしまうからかもしれません。

 アジアの場合は、国土の蹂躙やその後の混乱及び困難な歴史に日本も取り返しのつかない仕方で加担してきたのですから、これはもう心から詫びるしかありません。そのうえであえて言うなら、近隣主要国において取れていておかしくない自然科学系のノーベル賞がまだ取れていないことには政治体制の在り方の違い以外にも理由はあるようにおもいます。それは民衆文化の違いです。1つには、日本では真にオリジナルなものに対して敬意を払い万雷の拍手を惜しみませんが、達成の果実を素早くコピーするのが賢い振る舞いとされる社会ではオリジナルなものが生まれ育つはずがないということです。他人の努力の結晶をパクることは一時的には得をしたような気がするかもしれませんが、長い目で見れば自分を毀損する大損と言える行為です。

 そして2つ目は、自分をその未熟さを含めてどれだけクールに客観視できるか、自分が今いる場所をマッピングできるかに関わる問題です。毎年話題になる村上春樹のノーベル文学賞受賞漏れも、日本では「残念だな」と思うもののそれだけの話ですが、いまだ無冠の隣国では「我が国が受賞できないのはロビー活動が足りないからだ」という、日本人には思い浮かびもしない憶測が流れるのです。このような方向に考え始めると、単に膨大な時間とエネルギーを無駄にするだけでなく、以前ノーベル賞に絡んで起きた論文捏造事件のような空気圧を生み、ますます研究者を追い詰めてしまいます。こちらの国は漢字文化を捨ててインテリの言葉としては英語へとシフトしましたが、わずか一、二世代前の文献さえ読めない状況は、自国の知的アーカイブにアクセスできないことを意味し、これはまさに自国文化の根源を喪失しつつある深刻な事態であり、他国のことながら本当にもったいない、惜しいことだと思います。

 とはいえ、日本も30年かけて文科省の愚策が完遂されつつある状況なので、もうノーベル賞受賞者が出ないという現実がいつ訪れても私は驚きません。学問に関して私が願うことは、「干渉しないで好きなことをやりたいようにやらせてみるしかないでしょう」ということです。高等教育の場ではもうそんな環境はどこにもないのでしょうか。少なくとも、「結果が何ものになるかわからないが、なんとか食べていければいいからこれを研究したい」という人たちに、呼吸ができる場を与えてあげてほしいと切に願います。



2018年11月18日日曜日

「炊飯器騒動」

 「なんかお米がうまく炊けなくなったな」と思ってから2日、ついに炊飯器が壊れてしまいました。スイッチが入らずどのボタンも押せないという明らかな故障で、保証書を調べてみると購入してから12年経っていることがわかりました。12年で壊れるのは早すぎると思うのですが、動かないのですから仕方ありません。

 新しい家電が帰るのはわくわくするもので、さっそく調査してみると驚くことがたくさんありました。先入観にとらわれてそれが当たり前と思っていたのですが、そもそも既存機はなんと5合炊き! どう考えても大きすぎます。次第に思い出したのは当時玄米にこだわっていて、それが炊ける炊飯器を最優先して選んだこと、何かの時にご飯をたくさん炊く必要があるかもしれないから5合くらいは必要かもと思ったことなどですが、今は金芽米にしているし、大量にご飯を炊く必要など起こりそうにない・・・。いつも1.5合を釜の底に薄くへばりついたような状態で炊いていたが、それとて冷蔵して2日くらいかけて食べていたのです。今はもう、何か特別な場合を想定してさえ3合でも多い、2合でよいと考えました。

 ところが調べてみたところ、2合炊きというのはほぼ存在せず、少量ということなら0.5~1.5合までがおいしく炊ける炊飯器(1~2人用)というのが主流だったのでびっくり仰天でした。時代はここまで来たかという感じです。これはもう(私は使ったことがないですが)昔あったお弁当用の保温ジャーくらいの大きさですから、どうも旅行先等に持ち歩いて自炊している人も多いようなのです。「炊飯器を持参する時代になったのか」としばし茫然。家で炊く場合も、触れ込みでは20分ほどで炊けるので、毎食食べきりの量を炊いて暖かいご飯を食べている人も多いとのことでした。お湯に関して起きている状況、魔法瓶は使わず必要な時に必要な文だけ沸かすというのと同じことが炊飯でも起きていたのです。

 某通販サイトではかなりお安い価格なので、とりあえず1.5合炊きを注文することにしました。「簡単な操作で、内釜はフッ素加工、一応保温できて、タイマーは12時間予約できるのがほしいな」と、レビューを読んでようやく1つ決めたのですが、注文しようとして不測の事態に気づきました。ここで注文したものはほぼ翌日届くという思い込みがあり、気に留めていなかったのが発送時期。よく見ると「発送は5日後」、ということは届くまで7日? 通販生活の便利さの陥穽にはまった感じでした。どうやって一週間米を炊かずに過ごせというのか、私の友達も「とにかくご飯さえあればなんとかなる」といっていたのに。

 選び直しはもう開き直り、評価が4を切っておりレビューにもばらつきがあるが、目を疑うような価格にもかかわらず先ほどの条件は満たしている製品を、ほとんど賭けのような気持ちで注文しました。これは翌日配送され、白米と無洗米のボタンがあったので無洗米0.5合炊いてみましたが、普通においしく炊けました。ただ予約設定が1時間おきにしかできず、4時間の予約設定でなぜか3時間40分後に炊き上がっていました。そのまま保温に切り替わっていたので問題はなかったのですが、何分間で炊けたのかチェックし忘れ、今後炊く合数を変えて調査してみないと、まだ評価は下せません。いずれにせよ、おもちゃのような大きさの製品および価格なのに、一応おいしくご飯が炊けるのですから、私のような米にこだわりのない人間にとってはありがたく、とても文句は言えません。

2018年11月12日月曜日

「こんなふうに老いたい」

 私は年配の方のお話を聞くことが好きですが、それはやはり長い人生経験から語られる言葉には耳を傾けなければならないと思うものがあり、考えさせられるからです。また、年下の方でもそのお話を聞いて「若いのにエライ」と思う人々は、その人自身の独自の考えと言うより周囲に立派な大人がいるのだろうと思わされることが多いです。人生の良きロールモデルを見ながら自分なりの歩みを進められる人は本当に幸いだと思います。

 私はこれまで学校においても職場においても、同じ年頃のクリスチャンの友人というものがいなかったのですが、何年か前にほぼ同い年の友人ができ、近頃は時々一緒にお茶をすることがあります。年代が同じだとこれまで生きてきた時代がおなじですから共通点も多く、今後の人生についての話も合うのです。その友人は、「こういうふうに歳をとりたいと思う人が世の中にはいないけど、教会にはいる」と言うのです。この言葉にあまりピンとこなかったのは、勤めていた時はそれなりに立派な年配者はいたし、退職後は世の年配者と接する機会がほぼ無いせいかもしれません。現在私が接するのは大体教会の方で、いつも快活でにこやか、素晴らしい働きをなさっている方々ばかりなので、年配者とはそういうものだと思っていたのですが、一般世間的にはそうではないのでしょう。

 11月の第一日曜は逝去者記念礼拝がある日でしたので、私も帰省して福島教会に参りました。この日は11月とは思えぬようなうららかな天候に恵まれ、教会堂で礼拝をささげた後、行ける人は信夫山の教会墓地で墓前礼拝を守りました。福島教会には1893年から125年の間に180名もの先に天に召された兄弟姉妹がおり、教会員を含めご遺族が何人か出席されました。礼拝説教は「死んでも生きる」と題して、ヨハネによる福音書11章から御言葉を頂きました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」 (25、26節)

 この日歌った讃美歌385番「花彩る春を」の一番の歌詞はこうです。

花彩る春を この友は生きた
いのち満たす愛を 歌いつつ
悩みつまずくとき この友の歌が
私をつれもどす 主の道へ

 この歌詞の如く、召された一人一人の信仰の姿勢が季節の中で私たちに語りかけ、生きている人とは別のしかたで触れてくるのを私は日々感じています。私にとってすでに召された信仰者が「生きている」ことは体感的にもその通りであり、先ほどのヨハネ福音書の言葉には深い感謝をもってアーメンと言うほかありません。

2018年11月6日火曜日

「紅春 129」

先日、町内会の秋の大掃除がありました。普段なにかとお世話になっているので、帰省した時こういった行事に参加できるのはありがたいことです。りくは春と秋の大掃除の時いつも外に出しておくので、もう慣れっこでおとなしく定位置で皆の働きぶりを監督しています。作業の合間に町内の方がりくのことで声を掛けてくれます。


「ずいぶん白くなったね。いくつになったい?」
「12歳です。もう高齢だから、まつげやひげは真っ白です。」
「来たばっかりの頃は白いところなんかなかったけど。」
「そうですか。一緒に暮らしているとそれほどとは思いませんでした。」

もちろん、柴犬は裏白といってお腹側は子供の頃から白いのですが、お腹なんて見せるのはまあ飼い主に対してくらいですから、他の方がそのことを知らないのは当然です。ただ、やはり白い部分が増えているのは確かです。手足も元は足袋や白い手袋程度だったのが、だんだん白いソックスくらいになり今ではもうハイソックスくらいの長さです。これが白タイツになっても、たとえ全身白柴みたいになってもりくはりくです。長生きしてください。

2018年11月1日木曜日

「病院のアンケート調査」

 通院している病院で、たまたまアンケート調査の日に当たりました。「面倒だな」と思いましたが、考えを変えて真面目に書くことにしました。こういう取り組みを日頃の鬱憤を晴らす機会と考える人が時々いますが、それはやってはいけないことです。主催は経営陣なのですから、この病院に雇用されている職員は戦々恐々としているはずです。細かいことをあら捜しされて低い評価がつけば、「患者様のご意見」を盾にどんな抑圧的な対応がなされるかわかりません。もちろん常識的に見てとんでもない職員がいれば別ですが、私の知る限りそんな人はいませんし、いたらアンケートに関わらず申し出ています。学校で行われている授業評価と同じで、特別問題がなければ、できるだけ寛大な目で評価し、相手を萎縮させぬようにもっていくのが得策です。人は気分よく働いているときが最もパフォーマンスが上がるからです。

 主な質問項目は、「治療について」、「医師の対応について」、「看護師の対応について」、「事務職員の対応について」、「採血時の待ち時間について」、「診療科の待ち時間について」、「病院内の環境について」等でしたが、私はこういう場合いつも「5」か「4」に評価します。本当は「5」だけでもよいのですが、それだといい加減に評価しているように思われてもこまるからです。(今回、食べたことはないけれど、「レストラン」の項目だけは「3」にしました。一見したところ普通のメニューなのに、これがべらぼうに高い。)

記入欄のところではそれぞれ次のように書きました。
①「診療科の待ち時間について」・・・「早朝、採血をして、診療時間まで待つのは長くても苦ではありません。ただ、採血順受付待ちの席取りはやめさせてほしいです。」
注:これは早朝、機械による受付を開始と同時に済ませて、すぐ採血場所に向かっても、既に二列目まで(誰もいないながら)長椅子に物を置いての席取りがあり、それが以前より明らかにエスカレートしてきたからです。
②「診療科の受付の待ち方について」・・・「順番に長椅子に座って待つという暗黙のルールがありますが、初めての方はこれを知らず並び直しになって気の毒です。」
③「採血に関して」・・・「採血は非常にうまいのですが、採血しにくい体質で申し訳ないです。今までに二度ほど採り直しになりました。何か良い方法があるでしょうか。」
④「医師・看護師・職員の対応に関して」・・・「全体として、皆さま高い意識をもって働いていらっしゃると思います。」

 最後の方に、「この病院を知人にも紹介したいですか」というような質問もありましたが、これは「4」の「まあしたい」です。治療に関して不満はないのですが、いつも満員状態、待合所の長椅子に空きがないほどなのです。これ以上増やしてどうしようというのでしょうか。しかも、電車の駅は見事にどこからも遠く、バスや車が必須です。最後の記入欄には、「一番の課題はアクセスの方法でしょうか。」と書いて投函しました。こうしてみると、自分がいかに「機会均等・公平無私であること」を尊重しているかがわかります。こういう発想は世界に誇れる「国民健康保険」という公的診療が、骨の髄まで身についている国で生活していなければ出てこないでしょう。私が言うのもなんですが、この素晴らしい制度だけは治療側も患者側も一致協力して無駄をなくし、将来にわたって維持していってほしいです。