2018年3月7日水曜日

「伝道についての講演を聴いて」

 先日東京で、礼拝後に「伝道」という講演題で信徒研修会があり、出席したことのない教会でしたが行ってみることにしました。講師はミッションスクールの学院長で、あっという間に予定の90分が過ぎるほど大変話し慣れた方でした。講演の概要をお話しできるとよいのですが、お恥ずかしいことに断片的にしか思い出せません。話しの中で印象に残ったことを箇条書き的に書きます。

1.体験によって本当にわかった人にしか伝道はできない
  学生時代に先輩のピンチヒッターで漬物売りのアルバイトをした時の話である。午前中全然売れない自分は、「漬物売りの神様」と呼ばれていた達人から「食べてみたか」と聞かれ、食べてみたらうまかった。達人からは「これで漬物が売れる」と言われ、その言葉通り午後は2つ売れた。実際に体験してうまみを知った者にしか本当の言葉は語れないのである。

2.伝道の結果は長い時間の後にわかることが多い
 初めて赴任したとき職場に通うため家を探していると話したところ、不動産屋の態度が急変した。聴けば「娘はそのミッションスクールを卒業し、家庭をもって一生懸命働いて暮らしていたのに、交通事故で亡くなり、孫は自分たちが育てている。神様がいるとしたら、どうしてこんなことがおこるのか」という訴えだった。しばらくしてまた行ったら、不動産屋は今度はにこにこして迎えてくれた。先日の件で気持ちが吹っ切れて、亡くなった娘の部屋にやっと入れるようになり、遺品を整理していたら授業で書いたと思われる「感謝」という題名の作文が出てきた。両親に宛てて、「私をミッションスクールに入れてくれてありがとう。私も娘ができたらぜひここに入れたい」ということが書かれていたとのことだった。お孫さんは入学を果たし、三人で洗礼を受けるとの知らせがあった。

3.教会で使われる用語の中には世間で通じないものがある
 教えている学生が教会に来てくれた時はうれしいものである。その時の手順を説明していて、「礼拝の後、昼食を食べながらの交わりに呼ばれると思うけど・・・」と話したら、「何を交わるんですか」と言って学生は笑い出してしまったとのこと。さらに、「その後、青年会の人に声をかけられるかもしれない」と言ったらまた笑う。「青年会」という語はもはや農協と教会にしか存在しないらしい。

4.ミッションスクールで教える教員にクリスチャンが減っている
 ミッションスクールと言うと教員の大多数がクリスチャンと思われるかも知れないが、今ではもう半分を割っている。職場では、「あらゆる会議は祈りを持って始める」という規則があるのだが、学部によってはその中に一人もクリスチャンがいない場合がある。すると、宗教主任が呼ばれて開会の祈りをするのだが、皆おしゃべりしていて誰も聴いていない。会議内容がどのようなものになるかは推して知るべしである。ミッションスクールは祈りによって立つべきである。ミッションスクールにクリスチャンの教員を送ってほしい。

5.家族への伝道は難しいが、種まきを続けることが大事
 自分は家族の中で一人だけクリスチャンとなった者である。洗礼を受ける時はさほど反対されなかったが、牧師になると言った時は家族はもちろん親戚中から反対され、日曜ごとに誰かしら説得にやって来た。30年たって母はキリスト教系の介護付き老人ホームに入り、そこで行われる日曜の礼拝に出るようになった。その礼拝に来る牧師には「息子も牧師です」と自慢したとのことで、奏楽まで買って出たというのである。その後病を得て、オルガンはひけなくなってしまったが、今度は施設の中で聖歌隊を作り、その一員として活躍中であるという。

 このように体験に基づいた証しのみならず、キリスト教教育の由々しき現状も聴くことができました。また、ドイツ留学の際気づいた、言わば「教会外のキリスト教」について、外国のキリスト教会の現実に関するお話もありました。ドイツは言わずと知れたキリスト教国ですが、普段教会に行っていると言えるのは、信徒の0.4%とのことでした。今になって考えると、この数字にはあまり記憶に自信が持てません。と言うのは、もしその数字が正しいとすれば、ドイツのキリスト教人口は5500万人ほどと言われているのですから、これでは普段教会に通っている信徒は22万人ということになってしまいます。本当でしょうか。この数は信徒数が人口の1%を越えたことがないと言われる日本のキリスト教徒の5分の1に過ぎません。そして日本のキリスト教徒は多くがほぼ「普段教会に通っている」と言っていいのですから、非常に考えさせられる実情です。仮に日本のキリスト者で普段教会に行っている者が半分程度としても、ドイツの2倍になってしまいます。私は常日頃、信徒数が人口の1%というのは至極まっとうな数字だと思っていたのですが、それが裏付けられた気がします。だからといってうれしいわけはなく、複雑な気分です。