2018年3月21日水曜日

「生産性崇拝と創造主」

 子供の頃、私にとって特に旧約聖書について不思議だったことは神と民との関係性でした。旧約聖書では神を信じる民は困ったことがあるとそのたびに神に助けを求め、それがかなえられると神への礼拝の心を忘れて堕落していくということが何度も繰り返されるのですが、なぜ神がこんなにもダメな人間を造ったのか、何故神はもう少しちゃんと言うことを聞く人間を造らなかったのか、不思議で仕方ありませんでした。今なら、自分が「神の全能性」という概念を取り違えていたとわかるのですが、当時の考えを押し進めるなら、即ち人間の自由意志を制限する方向に向かわざるを得ないのは明らかでしょう。

 しかし、人間に完全な自由意志を与えることこそが、天地の全てを支配する一神教の神の特質ではないかと思うようになったのは、保科隆著『神が遣わされたのです』を読んで多くの示唆を得たことによります。保科牧師はその本の「回顧七十年」の中で、日本の風土のど真ん中で伝道してきた者として、日本思想史学者・石田一良の言葉を引きながら、神道について次のように書いています。

 日本の神道の本質について石田一良は、それを次々と衣装を着替える着せ替え人形にたとえる。つまり、どのような衣装を着ても本体の人形は変わらないように、神道の本質は変わらないと考える。これは、神道が強い復元力を持っていることを現している。つまり、外来のどのような宗教や思想から影響を受けても、強力に元に戻っていく力が神道には備わっている。それは何かといえば、石田は一つは生産力の崇拝と今ひとつは生産力崇拝の封鎖性であるという。生産力の崇拝という点では、日本神話に見られる「高皇産霊命」(タカミムスビノミコト)などの「むすび」の神の考えがある。「むすび」の神は生産力の神格化である。その封鎖性は何かよくわからないが、これについて石田は日本の神は一定の空間的な固定性をもっていて、その領域の外に力は及ばないという。例えば「オオクニタマ」神社に祭られるクニタマの神は、その国に住む者たちにのみに恵みを与えるものと考えられている。だから地域の封鎖性があるという。サイの神などと言うのは、そこまでが空間的限界ということだろう。そこに日本の神道の考え方の特質が示されると石田は言う。

 これはおそらく世界のどこにもある地域的な神々崇拝の現状であり、私たちはそのような精神風土の中で、キリスト者であってもさほど違和感なく過ごしています。これはまたカナン的状況でもあり、イスラエルの民もおそらくこのような風土の中で適当に折り合っていたに違いないのです。

 しかし、ここに人間の確固たる自由意志というものはありません。自分の住む地域が豊饒であることを願い生産力崇拝をするなら、その時々で必要な神々と交渉し、ギブ・アンド・テイクでやり取りしながら目的を果たせばよいだけです。地域の神々に五穀豊穣を願えばそれがかない、とりあえずその地域が豊かな生産性に恵まれれば満足でしょう。

 ところが、古代イスラエルの民は、神が人間というものを造った時、敢えて何でも言うことをきく人間を造らなかったと考えたのです。言われてみればあたりまえです。神が自ら操り人形のような作品を作って喜ぶはずがない。人間でさえその程度の作品では満足しない。江戸時代のからくり人形が人気を博したのはまさにそれが「意志をもっている」かのような動きをしたからです。神が自由意思をもつ人間を創造したとイスラエルの民が考えた時、創造主と被造物という人類史上初めての概念が生まれたと言うことができるでしょう。人間はこの時初めて、「創造主が、神である自分を礼拝する(あるいはしない)自由を持った被造物を造った」という途方もない考えを手にしたのです。そして人間は自分がまさに被造物であると考えることによって、人類史上初めて「創造主の神」という概念を手に入れたのです。

 これは確かに、悪霊が地域に侵入するのを防ぎ、村人や通行人を災難から守るために祭られる「さえの神」とは全く別の概念です。万物を創造した神というものは、そのあり方からして一神教にならざるを得ず、その論理的結果として世界宗教にならざるを得ない・・・ということ全部がすとんと胸に落ちました。神は敢えて自由意志を持った人間を造り、敢えてその人間に自分を礼拝できるほどの高い精神性を求めたのです。そしてさらに、知ってか知らずか神をないがしろにしたり神に反抗したりしてしまった人間に、そのことを悔い改めるという自由さえ神は与えたのだということです。子供の頃、何度も罪を犯してはそのたび悔い改める人間を「駄目な人だな」とお思っていたのですが、そうではなかったのです。それは人間の自由意志の極限の表出でした。今なお、神がそのような至高性を人間に求めていることは間違いなく、だからこそソドムの滅亡をなんとか止めようと神と交渉したアブラハムを神は高く評価したのです。ごくわずかな人数の正しい人のゆえに、大多数が罪に染まった町ソドムを赦してほしいとのアブラハムの提案は、この世の常識からすれば全く馬鹿げたことです。しかしその時こそ、ひそかに神は「それでこそ私が選んだアブラハムだ」と、心の中で快哉を叫んだに違いありません。そのような言動こそが、「人間を造った甲斐があった」と神に思わせるものなのではありますまいか。