『列王記上』の6章にはソロモンが神殿を建築した次第が書いてありますが、今までは飛ばして読んでいました。これをよんでわかる人がどれだけいるのかなと思っていたのです。このたび丁寧に読んでみて、わかりにくい理由がわかりました。
①この時代の度量衡を知らない
これはちょっと調べればわかることで、手間を惜しんでいただけのことです。ざっくり言って、幅9メートル、長さ26メートル、高さ13メートルくらいで、奥の至聖所は幅と同じ寸法の立方体です。意外と小さい。
②表現がわかりにくい
これは一つには日本語訳の問題で、私が普段使っている口語訳で、「そのとびらの上のかまちと脇柱とで五辺形をなしていた」はさっぱりわからなかったのですが、新共同訳の「壁柱と門柱は五角形であった」なら明瞭にわかります。
また実物が想像できないためのわかりにくさもあって、「(扉の)上にケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形を刻み」の部分は、上というのが空間的な上下の意味ではなく、単に表面という意味だと理解できるまでには、『ターヘル・アナトミア』を『解体新書』に訳出した時のような無駄な時間がかかります。
③まとめて書かれていない
さらに、「こうしてソロモンは宮を建て終った」とか「ついに宮を飾ることをことごとく終えた」という言葉があるのに、神殿の描写はちっとも終わらず、ついに7章の王宮の説明をはさんでさらに続いていくこともわかりにくさを増している原因です。青銅の柱や「青銅の海」のことはずっとあとにでてくるのですが、これも神殿の一部のはずです。認識を新たにしたのは、神殿とは建物のみを指すのではなく、その外の庭も神殿の一部だということです。前の庭というのはおそらく神殿の南側のスペースであり、内庭というのは入口と拝殿の間のスペースではないかと思うのですが確信がもてません。また、中庭というのがどこなのか、内庭のことなのかどうかもわかりません。
しかし、神殿についてこうも詳しく書いてあるのはいつでも造れるため以外ないでしょう。7章に王宮の描写もありましたが、神殿に比べてあっさりした記述でした。(神殿より大きいとはいえ、正室700人側室300人を収容しきれたのか疑問の広さです。) いずれにしろ王宮は特に同じものを建てる必要がないので、詳細な記述は要らないのでしょう。調べているうち、神殿の画像がたくさん見つかり、参考になりました。「青銅の海」が北東に置かれているなど明らかに間違っているものもありましたが、微妙にちがっているのはやはりわからない部分があるからでしょう。内部の様子として、燭台は中央通路をはさんで5つずつなのはよいのですが、供えのパンを載せる卓はその内側にあったり、燭台と交互に並んでいたり、数も様々だったのはその点の記述がないからです。一番の収穫は、当事者(いつの日か神殿の再建を夢見ている人たち)による3D画像があったことです。動画になっていて「ほうーっ」という感じでした。ただ一点気になったのは、入口手前の庭に置かれた祭壇から煙が出ていたことです。焼かれる動物が描かれていなかったのは描けなかったのだろうと思います。捕鯨も闘牛も駄目というご時世です。動物供犠の燔祭はとても無理でしょう。ユダヤ教は神殿喪失後、律法というかその注解のミシュナを発展させる方向に生き残りの道を見出しました。金色ドームのイスラム寺院のあるエルサレムで、神殿の再建を願って多くの人が嘆きの壁で嘆いていますが、その夢がかなわないのは案外そのあたりに理由があるのかもしれません。