2017年1月29日日曜日

「紅春 99」

冬の散歩コースは気象状況によって変わります。だいたいりく任せです。雪が降ると、勝手口を出て土手へ上がる最短コースをとらず、りくは迂回する形で人や自転車の通れる道の方へぐいぐい引いていきます。雪があるのは同じなのですが、どうもりくは家の物置の屋根から積もった雪が落下する可能性を見ているようなのです。本当に利口な犬です。小道に出てから雪の降り具合や吾妻おろしの厳しさを見て危険と判断した時は(判断するのはりくで、私ではありません)、土手へは行かずに一般道へ向かいます。確かに早朝は車はほぼ通っていないので、その方がずっと安全です。普段行かない道を行くのも楽しそうです。家の中でも、太陽が出た日は障子を開け毛布等を吊るして干しますが、りくが外を見られる高さまでにとどめてもりくはすぐには来ません。上から干したものが落ちてこないか時間をかけて確かめてから、下の定位置に寝転んで日向ぼっこします。本当に用心深いのです。
 しかし一方、まったく考えなしの行動をとることもあります。雪道のできた土手の道を往復して終わろうと思っていても、途中どうしても階段を降りて河原に行きたいと言うことがあり、その通りにすると大変なことになります。「ここ、降りられないでしょ」と言っても、ずぼずぼ雪にはまりながら降りて行き、次の上り階段まで雪漕ぎです。楽しそうだからいいのですが、普段の3倍くらいエネルギーを使います。最悪なのは犬の体重は支えられるが、人の体重は支えられない固さに凍った雪の場合で、りくは楽勝、私だけが疲れるというパターンです。散歩から帰るとりくはほぼ必ず一度は「家に入らない」と言うので、雪がどんどん降っている時以外はいったんつないで外におきます。でも5分もしないうちに「もう入る」と鳴くので、見ると頭の上に白いものを頂いていて、やはり寒いのでしょう。こんな感じでりくにふりまわされていますが、かわいいのですべてオッケーです。

2017年1月24日火曜日

「冬の暮らし」

 今日も雪です。昨日は太陽は出ず、弱いながら一日雪が降りました。オリーブ油は完全に凍っています。洗濯物を乾かすためには除湿機をかけています。1キロほど離れたコンビニに行くときは散歩を兼ねてりくを連れて行きます。雪の中でも犬は元気です。

 米国の新しい大統領のことでもちきりですが、5歳児にもその論理が理解できるとてもわかりやすい人なのでニュースはどれも同じです。現状よりはましになるだろうと多くの人が選んだ人なのです。グローバル化が行くところまで行って、反対方向に振れ始めたのです。一つだけ見るべきところがあるとしたら(ご本人の企業はどうもそうではないらしいのですが)、国民経済という視点があることでしょうか。どこでも自由に世界中を飛び回り一番快適な場所にいつでも居を移せるグローバリストは別として、問題はその国にしか住めない人、あるいはその国に住むと決めている人の生活を守ることです。人件費やその他のコストがかかろうと、その国に住む人たちを食べさせていくのが国家の務めです。日本でもナショナル・ブランドのように見せかけて実はグローバリストのものである企業が、いわば国の外から国内の法律をコントロールしていることを腹立たしく思ってきた人にとっては、トランプ氏の指先から繰り出されるつぶやきで、まったく逆の効果を瞬時に生み出せることを見るのは胸がすくことでしょう。この点はよく考えてもいいと思います。いずれにしても、常日頃から水、食料、エネルギーをいかに確保しておくか、これが国家の一番大事な働きです。治安の維持、通貨の安定、それに日本の至宝たる国民健康保険の堅持もその上で効果を実感できるものなのですから。

 新大統領によって展開されるアメリカの政策の行く末はほとんど見当がつきません。各国の通貨の価値は国際情勢のバランスのもとに動いていくので、これが一番予測できないものでしょう。とても危険と思うのは、現在テルアビブにあるイスラエルのアメリカ大使館がエルサレムに移されそうだということです。これはまずい。わざわざ火種を持ち込むようなものです。これまでも何代かの大統領によって考えられ実行されずにきた懸案の事項ですが、この人は本当にやるかもしれないと思うと眩暈がします。日本の自衛隊にもすぐに関わってくる事柄のはずです。そういうわけで、ネットスーパーで注文したものが届くのをありがたく待ちながら、どういう方向に世界が進んでいくのか考えて疲れてしまいました。
 

2017年1月19日木曜日

「ソロモン神殿」  

 『列王記上』の6章にはソロモンが神殿を建築した次第が書いてありますが、今までは飛ばして読んでいました。これをよんでわかる人がどれだけいるのかなと思っていたのです。このたび丁寧に読んでみて、わかりにくい理由がわかりました。

①この時代の度量衡を知らない
 これはちょっと調べればわかることで、手間を惜しんでいただけのことです。ざっくり言って、幅9メートル、長さ26メートル、高さ13メートルくらいで、奥の至聖所は幅と同じ寸法の立方体です。意外と小さい。

②表現がわかりにくい
 これは一つには日本語訳の問題で、私が普段使っている口語訳で、「そのとびらの上のかまちと脇柱とで五辺形をなしていた」はさっぱりわからなかったのですが、新共同訳の「壁柱と門柱は五角形であった」なら明瞭にわかります。
 また実物が想像できないためのわかりにくさもあって、「(扉の)上にケルビムと、しゅろの木と、咲いた花の形を刻み」の部分は、上というのが空間的な上下の意味ではなく、単に表面という意味だと理解できるまでには、『ターヘル・アナトミア』を『解体新書』に訳出した時のような無駄な時間がかかります。

③まとめて書かれていない
 さらに、「こうしてソロモンは宮を建て終った」とか「ついに宮を飾ることをことごとく終えた」という言葉があるのに、神殿の描写はちっとも終わらず、ついに7章の王宮の説明をはさんでさらに続いていくこともわかりにくさを増している原因です。青銅の柱や「青銅の海」のことはずっとあとにでてくるのですが、これも神殿の一部のはずです。認識を新たにしたのは、神殿とは建物のみを指すのではなく、その外の庭も神殿の一部だということです。前の庭というのはおそらく神殿の南側のスペースであり、内庭というのは入口と拝殿の間のスペースではないかと思うのですが確信がもてません。また、中庭というのがどこなのか、内庭のことなのかどうかもわかりません。

 しかし、神殿についてこうも詳しく書いてあるのはいつでも造れるため以外ないでしょう。7章に王宮の描写もありましたが、神殿に比べてあっさりした記述でした。(神殿より大きいとはいえ、正室700人側室300人を収容しきれたのか疑問の広さです。) いずれにしろ王宮は特に同じものを建てる必要がないので、詳細な記述は要らないのでしょう。調べているうち、神殿の画像がたくさん見つかり、参考になりました。「青銅の海」が北東に置かれているなど明らかに間違っているものもありましたが、微妙にちがっているのはやはりわからない部分があるからでしょう。内部の様子として、燭台は中央通路をはさんで5つずつなのはよいのですが、供えのパンを載せる卓はその内側にあったり、燭台と交互に並んでいたり、数も様々だったのはその点の記述がないからです。一番の収穫は、当事者(いつの日か神殿の再建を夢見ている人たち)による3D画像があったことです。動画になっていて「ほうーっ」という感じでした。ただ一点気になったのは、入口手前の庭に置かれた祭壇から煙が出ていたことです。焼かれる動物が描かれていなかったのは描けなかったのだろうと思います。捕鯨も闘牛も駄目というご時世です。動物供犠の燔祭はとても無理でしょう。ユダヤ教は神殿喪失後、律法というかその注解のミシュナを発展させる方向に生き残りの道を見出しました。金色ドームのイスラム寺院のあるエルサレムで、神殿の再建を願って多くの人が嘆きの壁で嘆いていますが、その夢がかなわないのは案外そのあたりに理由があるのかもしれません。


2017年1月14日土曜日

「クラーナハ展」

 ずいぶん迷ったのですが、開催期間終了が迫ったクラーナハ展に行って来ました。迷ったのは第一に人ごみが苦手なこと、第二に美術館では近寄って鑑賞できない、すなわち行っても見えないこと、第三にクラーナハが特に好きというわけではないことがその理由です。ただ、これほど数多くのクラーナハの作品を実際に一つ一つ美術館を巡って見ることはできないし、世界遺産になってから国立西洋美術館に行っていないなと思い、出かけることにしました。

 開館は9時半とありましたが、それは開門の時間でした。せめて30分くらい前に開門して、庭を散策できるくらいのサービスはあってもいいのではないでしょうか。入る前に気持ちを高める意味でも有効だと思います。絵画展は想像以上に楽しめましたが、それは金曜の朝一の見学だったことが大きいでしょう。開館時間にはすでに列ができるほど人はいましたが、他の日時に比べれば少ないはずです。金曜は夜8時まで開いているので、なおさら人が分散するのです。一つ一つの絵の前に立ち止まって、一人でゆっくり見る余裕があったのが、よい印象をもてた大きな理由です。作品数は非常に多く、クラーナハ展としてはヨーロッパでも望めないほどの大規模なものだと思います。ウイーン美術史美術館からはもちろんのこと、ウフィツィやワシントン・ナショナル・ギャラリーからも来ていました。ほかにもブタペスト、トリエステ、リヨン、台湾から来ている作品もあり、美術館だけでなく、教会や財団、個人所有の作品等、様々なところから結集したようです。要するにこれは日本でしかできない展覧会だったのです。ヨーロッパ諸国も日本であれば思惑なしで貸し出せるし、なにより安心でしょう。もしかすると、日本行はむしろその絵に箔が付くくらいのことかもしれません。作品が丁寧に扱われるだけでなく、あふれるほどの敬意が示されるのですから。開門前に聞こえてきた会話からすると、訪問者はアート業界関係者もいますし、クラーナハの名前も知らなかった巣鴨マダムの友達連れもいます。皆、遠い外国から来る世界の名作を見に来るのです。とてもよいことだと思います。

 ウィーン美術史美術館は二度行ったことがあるので、来ていた作品の中にはおぼろげな記憶に残っていたものもありました。ほかにひとつだけ、「この作品ははっきり覚えている」と思えるものがあり、休憩用の腰掛に置かれた作品集で調べたら、「ああ、やっぱり」でした。フランクフルトのシュテーデル美術館にあった「ヴィーナス」だったのです。シュテーデルでの私のお目当てはフェルメールの「地理学者」だったので、この絵が前景化することはなかったのですが、やはりヘルベルトと毎年行っていたので記憶の底から浮かび上がってきたのでしょう。帰宅してから半券をふと見たら、右下の部分が少しちぎれており、もぎりの方がこんながさつなのでは困ったものだと、残念に思った以外は言うことなしの展覧会でした。


2017年1月9日月曜日

「放牧」

 某人気グループが「放牧宣言」をして、グループとしては活動休止に入ったという報道がありました。三人が牛の着ぐるみを着ていたことで、今の若者の希望とする生き方がどんなものかを垣間見ることができる気がしました。馬と違って牛は動作がゆっくりです。放牧・・・のどかな言葉です。誰かが見守ってくれていて、その目配りの中で思い思いに過ごすというのは安心で快適な状態です。実際、メンバーはそれぞれのペースで個人活動をするようですし、十年間一緒に活動してきて、できなかったことも様々あるのでしょう。もう急かされたくはない・・・これが現在、若者にかぎらず多くの人の本音であることは確かです。

 私が放牧と聞いて思い出すのは、やはり教師として勤めていた時の校外学習でしょう。職員会議で計画を説明していた或る教員が、「・・・それから、鶴岡八幡宮で生徒を放して・・・」と言った時に、みな吹き出してしまったのです。それ以上うまい表現がなかったからです。放し飼いか・・・、よいではないか。教師も生徒もゆったり過ごせる。締め付けないからお互い幸せ。「いついつまでに戻って来てね」と言っておけば、必ず戻ってくるのです。置いていかれたくないですから。 これがたぶん人にとって一番幸せな状態なのではないでしょうか。私なりに敷衍すると、安心できる神の手の中でしたいことをする、と言っても、ちょっと見たことのない花を見に行ったり、珍しい草を食んでみたりするくらいのことです。柵の中なら安全ですから。

 そう言えば、うちにも放牧されてる子がいるなあ。家中全部その子のいられる場所で、そばにいる人間に要望を言えばだいたいかなえてもらえます。一人でいたい時は和室で日向ぼっこしているし、おやつをもらった時には舐め舐めカリカリしながらカウチポテトを楽しんでいます。しつこくすれば絶対言うことをきいてくれる人間がそこにいるのです。あ~、放牧って幸せだねえ。

2017年1月3日火曜日

「バビロン捕囚がなかったら」

 旧約聖書39巻のうち17巻は預言書です。相対的にかなりの割合を占めていますが、このように語ったことが文書として残った預言者の出現はかなり時代がくだってからです。書としてまとめられるのはバビロン捕囚以降でしょう。イスラエルの民にとってバビロン捕囚はヤハウェ神の無力を思い知らされるような絶望的な出来事でしたが、最も打撃を受けた事態はエルサレム神殿が破壊されたことと移住先で礼拝場所をもてなかったことだと思われます。礼拝と言うと頭のどこかに現代的なイメージがあって、祭司が神殿で律法を教えるというような礼拝を思い浮かべがちですが、当時の礼拝がそういうものだったわけではありません。もちろんなにがしかの朗読や民江の語りかけのようなものはあったでしょうが、それ以上に受け継がれてきた最古の伝承に基を置く動物犠牲の祭儀が中心だったはずです。それを行う場所がなくなったのですから大問題で、礼拝そのものの仕方を変える必要に迫られたことでしょう。

 祭司から預言者へというケースはこの時が初めではなかったのかもしれないと思ったのは、ヨシュア記や士師記を読んだ時です。士師の時代と言えばモーセの後継者たるヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンに定着するまでのもうめちゃくちゃ野蛮な話ですから、私はこれまでほとんどまともに読んだことがありませんでした。イスラエルという民族はヤハウェ神と共にあった民ですから、神と会うため天幕「臨在の幕屋」をもち、それに伴って祭司や祭儀に関わる仕事を担う人々を擁していました。士師の時代に臨在の天幕を置いたのはシロの地であり、「イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。」(ヨシュア記18章1節) との記述があります。この臨在の天幕は、時と共に次第に立派なものになりやがて神殿になったようです。神殿と言えばソロモンのエルサレム神殿しか思いつかなかったのですが、士師時代は神殿はシロにあり、後代には荒廃しなぜか再建されることはなかったようです。そのかわりといっては何ですが、列王記上11章29節では「シロの預言者アヒヤ」との記述がありますから、神殿に奉仕していた祭司から預言者へ転身という流れがあったのかもしれないと思います。

 ですから捕囚以降に偉大な預言者が輩出し預言書が書かれていくのは理の必然とも言えます。イザヤについてはわかりませんが、そもそもエレミヤは祭司ヒルキヤの子であり、エゼキエルは祭司であると、それぞれエレミヤ書、エゼキエル書の冒頭に書いてあります。祭司職は世襲ですから、何もなければ二人とも祭司として一生を送ったはずなのです。しかし神殿がない以上、儀礼的祭祀を執り行うというかつて中心的だった職務自体がもうないのです。エゼキエルはケバル川のほとりでひとしきり泣いた後立ち上がったことでしょう。彼が冒頭で見た幻の不思議な生き物(ケルビム)は自由自在に動く神の乗り物です。神殿はなくとも神はどこにでも存在し得るという暗示です。ケバル川のほとりでの礼拝がどのようなものだったのか想像の域を出ませんが、預言者が告げる神の言葉を聴く、そして祈るという形にならざるを得ないのではないかと考えられます。こうして祭司から預言者に転じていく者が現れ、その言葉が書き記されていくという道筋が生まれたのでしょう。

 一方で父祖より受け継がれてきた伝承を最古のところまで遡って書き記し、モーセ五書や史書としてまとめあげるという作業も動き始めたのでしょう。現在おかれている悲惨な状況の意味を知るには自らを徹底的に振り返るしかなかったのです。そして罪の問題に行きついた、それがイスラエル民族のバビロン捕囚の総括です。ですから、バビロン捕囚がなかったら、今のような形での旧約聖書はなかったし、イエス・キリストの誕生の意味も理解されずに歴史の闇に沈んでしまったことだろうと思います。バビロン捕囚はユダヤ民族の歴史にとって最大の信仰的苦難でした。神は一度まったく無力のように思われましたが、千年のスパンで見ればそうではなかった。ひょっとすると今起きている様々な絶望的状況も千年後には見方が逆転するということがあるのかもしれません。