2016年12月21日水曜日

「あたりまえの善意」

 子供の頃、鉄道というものは人間の善性に支えられたシステムだと思ったのを記憶しています。線路に立ち入って物を置くといったことがないことを前提にしてはじめて成り立つ公共交通だからです。しかし今、このような常識を当てにできない事態が社会のあらゆるところで起きています。不特定多数の人々を相手にする公共機関や企業、およびそれぞれの現場で対応するお仕事の方々はやりきれないことと同情してしまいます。最近コンビニのおでんを手で何度も突いていた男の話が報道されましたが、店員がその男に「やめてください」等の注意をしているようには見えませんでした。おそらく、「おでんを手で突いている客を発見した時」という事項が接客対応マニュアルになかったからでしょう。

 先日、両側が会談で中央にスロープのある歩道橋を上っていた時、あと少しというところで私の2人前のあたりにいた老婦人が体勢を崩し、スロープを2、3歩後ろに後退して倒れそうになりました。「ああっ」と思っているうち、老夫人のすぐ後ろにいた若者が彼女を支え事なきを得ました。へたすると高等部強打の上、歩道橋を下までころがって大けがになりかねないところでした。「お手柄です」と思わず声を掛けますと、その若者は「いえ、僕は何も・・・」と言って去って行きました。気持ちはあってもこのような咄嗟のときに反射的に動けないのがほとんどでしょう。そして、起こらなかった事故はそれを食い止めた人が評価されることはまずありません。このケースは本当にお手柄だと思いました。

 犬を見ていて感心するのは、習性から来る困った行動や理解できない不思議な行動をすることはあっても、決して邪悪な行動はしないことです。人間はその善性と悪性の振れ幅が大きすぎ、普段は善い人でもいったん邪悪になると底なしにそうなることもあります。この世を少しでも住みやすい社会にするには当たり前の善意をその時々で適切に表現できる人を増やすしかないように思います。