2016年12月30日金曜日

{紅春  98」

りくのトイレの問題です。私が不在の時は、兄との生活の中でリズムが一定しているため、トイレはいつも夜一回で安定しているそうです。私が来ると昼間散歩に出たり、散歩の回数が増えたりするので適当なときにりくはトイレを済ませています。 困るのはつい2時間前に散歩した時にはしなかったのに、また散歩に行きたいと真剣な表情でしつこく言ってくるときです。

「トイレ?」
と訊くと、
「ワン!」
と断固たる返事。
「さっきやってほしかったな~」と言いながら連れて行くと、かなりの確率でトイレなのです。ちゃんと教えてくれるのはエライ! 「りく、おりこうさんだねえ。」と褒めてやります。

 先日は朝の散歩中、「今日はやらないな」と思っていたら、最後のトイレの場所(りくは草原でしかやりません)を通りかかったところ、草むらにグングン入っていきました。暗くて最初わからなかったのですが、その奥にストレッチ体操をしている方がいたのでちょっとぎょっとしました。りくはその人と5メートル隔てた距離で向かい合ったまま踏ん張っています。「それでいいのか、りく・・・」と心の中で思いながら見ていましたが、無事トイレが済みました。考えようによっては、後始末をしっかりしているところもアピールできたので良かったかも知れません。


2016年12月26日月曜日

「12月25日」

 今年は本当に待ち遠しいクリスマスでした。へとへとに疲れていたからです。カレンダー上、12月25日が日曜に当たりクリスマス礼拝と重なる年は数年に一度訪れますが、今年はその年でした。日本では12月になると一年を振り返る番組が組まれ、いやがうえにもせわしない気分になりますが、教会歴はアドヴェントから始まるのですでに一年は始まっています。キリストの誕生というまばゆい光が近づいてくると、人の(他人のという意味ではありません。ほぼ自分のという意味です)心の黒々とした有様や、社会の世相と未来の見通しの暗黒の度合いがくっきりと見えてきます。終わろうとする「人の時」と、まさに始まった「神の時」は全く別々に流れています。しかし私は自分の中でそれをうまく調整することができず、それぞれの流れがぶつかりあって発生する逆流するような力のせいで疲れてしまうのだということがよくわかりました。

 しかし今、クリスマス礼拝を終えてまったくの凪のような平安を得ました。「「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます」(ルカによる福音書2章29節)というのは、まだ生まれて八日のみどりごであるイエス様に出会ったシメオンの言葉です。この人は主に出会うことを長年待ち焦がれてきた人で、霊に導かれて神殿の境内に入ってきたとき両親の腕に抱かれたイエス様に出会ったのです。シメオンにとってこれが人の時と神の時が重なる喜びの時となりました。人生の晩年であっても、まことの救い主にであうことのできた人は本当に幸いです。

2016年12月21日水曜日

「あたりまえの善意」

 子供の頃、鉄道というものは人間の善性に支えられたシステムだと思ったのを記憶しています。線路に立ち入って物を置くといったことがないことを前提にしてはじめて成り立つ公共交通だからです。しかし今、このような常識を当てにできない事態が社会のあらゆるところで起きています。不特定多数の人々を相手にする公共機関や企業、およびそれぞれの現場で対応するお仕事の方々はやりきれないことと同情してしまいます。最近コンビニのおでんを手で何度も突いていた男の話が報道されましたが、店員がその男に「やめてください」等の注意をしているようには見えませんでした。おそらく、「おでんを手で突いている客を発見した時」という事項が接客対応マニュアルになかったからでしょう。

 先日、両側が会談で中央にスロープのある歩道橋を上っていた時、あと少しというところで私の2人前のあたりにいた老婦人が体勢を崩し、スロープを2、3歩後ろに後退して倒れそうになりました。「ああっ」と思っているうち、老夫人のすぐ後ろにいた若者が彼女を支え事なきを得ました。へたすると高等部強打の上、歩道橋を下までころがって大けがになりかねないところでした。「お手柄です」と思わず声を掛けますと、その若者は「いえ、僕は何も・・・」と言って去って行きました。気持ちはあってもこのような咄嗟のときに反射的に動けないのがほとんどでしょう。そして、起こらなかった事故はそれを食い止めた人が評価されることはまずありません。このケースは本当にお手柄だと思いました。

 犬を見ていて感心するのは、習性から来る困った行動や理解できない不思議な行動をすることはあっても、決して邪悪な行動はしないことです。人間はその善性と悪性の振れ幅が大きすぎ、普段は善い人でもいったん邪悪になると底なしにそうなることもあります。この世を少しでも住みやすい社会にするには当たり前の善意をその時々で適切に表現できる人を増やすしかないように思います。

2016年12月20日火曜日

「学ばない者」

 学ばないものは愚か者です。退職後、後退戦を行うはずだったのに自分で勝手に設定した仕事やできると勘違いして引き受けた仕事でいっぱいになり、結局うまくいきませんでした。よかれと思ってしたことでも良くない結果に終われば意味がありませんし、役に立ちたいと思っての行動でも真逆の結果が出ればやらないほうがよかったことになります。ここ何年かどんどん増えていく本来しなくてよい務めが限界に達した感があり、今になってようやく一年の振り返りをする時間と状況が与えられ、はっと目が覚めました。以前も失敗をしているのに同じことを繰り返していることに気づかずにいました。「どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ」という宇多田の歌詞がありましたが、性分というのは気をつけていても暴走するもので根本から変えられることはないのでしょう。今このとき来年への道が示され、穏やかな年の瀬を迎えられることは大きな恵みです。

2016年12月12日月曜日

「荷物運搬用の鞄」

 先日バスに乗っていると、年配の方が車輪のついた小さ目の買い物用カートを持って乗り込んできました。ご自分のわきの通路に置いていたのですが、バスがゆるやかにブレーキをかけた時、カートはするすると前方に滑って二段ある階段から落ちて倒れました。あっという間の出来事でけが人等はありませんでしたが、荷物を拾っている持ち主の様子からすると、車輪がいくつか取れてしまったようでした。笑ってはいけないと思いつつも、コントでもこんなに見事に大破しないだろうと思うと笑いをこらえるのが大変でした。この手のショッピングカートを見ると逆の意味で祖母を思い出します。祖母はこのような買い物カートを持ち歩くのを嫌っていた記憶があるのです。小柄な体でさっさととても歩くのが速く、また力持ちでもあった祖母はだぶんあの老人じみた持ち物がいやだったのだと思います。それにおそらくあまり便利ではないことも知っていたのでしょう。

 鞄については一家言ある人がほとんどだと思いますが、毎月移動している私も旅行用の鞄はこれと決めているのもがあります。薄いナイロン製の大きな鞄です。荷物を一つにまとめる機能しかない、最もシンプルな鞄だと言ってよいでしょう。一度帰省に機内持ち込み用の小型トランクを試したことがありましたが使いにくかったのでそれきりです。車輪は重いわりにはうまく使える環境が少なく、アスファルトやリノリウムではない地面や床を引いて歩くのは想像以上に疲れます。段差のあるところや会談では持ち上げなくてはなりません。おそらく人が最も楽に物を運べるのは肩にかける方法なのです。背負ってもいいのですが、その場合はある程度形状が限られてきますし、見栄えもちょっと・・・という弱点があります。長すぎず短すぎずという持ち手の長さが重要ですが、そこさえぴったりならこの手の鞄は相当大きくても肩に掛けて運べますし、重くなったら肩を代えて運べばよいのでとても合理的です。逆に荷物が少ない時はへなへなと小さくなります。強度が弱くて不安なものを運ぶ時は、物品自体を緩衝剤で梱包するか箱に入れればよいだけです。今使っているものはずっと愛用しているのでだいぶくたびれてきましたが、次回購入する時も同じものがあればまた買いたい一品です。

2016年12月6日火曜日

「紅春 97」

りくが二階に上がれるようになってよいことがあります。兄への伝令の役目です。朝いつもはもう起きる時間なのに兄が起きてこないことがありますが、急な日程変更で休みということもあり得るし、私が起こしに行くようなことではありません。しかしごくまれに目覚ましをかけ忘れて大失敗ということは誰にでもあることなので、こういう時りくは役に立ちます。


 階段下まで一緒に行って、「行って来て。」と言うと、りくは階段を上り始めます。しかし自分の意思で行くわけではないので、途中の踊り場で振り返り、「やっぱり行くんですかい?」と聞いてきます。私が「行って、行って。」と両手で合図すると、りくはまたのぼり始めます。そのうち「なんだりく、起こしに来たのか。」という声がして、やがて役目を終えたりくと、少し遅れて兄が降りてきます。りくに起こされて怒る人はいないのでとても平和な朝が始まります。

2016年12月1日木曜日

「十一月が終わる」

 十一月は聖徒の日に合わせて、天に召された信徒たちを覚えて礼拝をもちました。うちは三人もお世話になっていることもあり、信夫山教会墓地での墓前礼拝からその日の召天者記念礼拝まで無事終わって、何したわけでもないのに今年の大仕事を終えた感じです。

 その間、東京の教会でお世話になっていた方が亡くなったという知らせが入り、かなり衝撃を受けました。お年とはいえとてもお元気でつい先週も言葉を交わした人でしたが、思わぬ事故に遭われたのです。しばらく気持ちがず~んと沈んでおりましたが、葬儀の様子を教えていただき、本当にこの方はやるべきことをすべて終え、また最後にご家族と大変よい時を過ごされたと知って救われました。人の死は神の手の中のもの、神の時なのです。

 またもうお一人、同じく教会でお世話になった方が亡くなりましたが、この方が入院する前たまたまお食事を隣の席でしたのは私でした。「なんだか近づいてきた気がするの。」とおっしゃっていましたが、私は事情も知らないながら「何の心配もいりません。神様がすべてよいように計らってくださいます。」と応えました。能天気な私の答えに、「まあ、あなたいいわねえ。」と応じておられましたが、こんなに早く亡くなるとは思いもせず、もっと言い方があったのではないかと後悔しました。

 年間を通して言えば私の生活は必ずしもいつも活動的なわけではありません。どよ~んと沈んで全くやる気が出ない時もあります。しかしこのところはかなりちゃきちゃきと動いています。まだやるべきことができていないからです。もう手はついているのですが完成まではまだまだです。毎日やることがあるのは本当にありがたく、朝起きたとき元気がみなぎっているのはうれしいものです。