2015年10月17日土曜日

「神を知らぬ者」

 このところ、小学校の教科書に載っていた八木重吉の詩が頭をかすめます。

うつくしいもの

わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であつても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分りさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ

 いつの頃からか、日本では偽装が当たり前になりました。食品関係の賞味期限や食材の偽装、一級建築士による耐震偽装も、その後に起きたゴーストライターや幻の万能細胞事件に比べたら、実害がないかわいいものだったといえるほどです。最近では、東京オリンピックのエンブレムの白紙撤回がありましたが、有名アートディレクターの仕事ぶりのお粗末さに驚かされた人も多かったと思います。日本ばかりではありません。フォルクスワーゲン社のエコ偽装の衝撃はさらに計り知れないものでした。日本の小さな企業であれ、ドイツの大企業であれ、人を欺いても業績をあげることが最優先されるのです。比較的品質管理が厳しい国でもこうなのですから、世界中どこでも同じなのでしょう。

普通に考えれば、「それを行うことで得るものと失うものの軽重は子供でも判断がつくのに・・・。」と誰もが思います。これはむしろ基本的に生活を背負う必要のない子供だから判断がつくのであって、日常の積み重ねの中で自己と家族の保全を図らなければならない大人にとっては簡単なことではないのです。仕事が最終的にコストの問題に還元され技術的にそれをクリアできるとなると、罪責感は薄まりその可能性を試してみたい誘惑に駆られるのでしょう。もしくは罪悪感からこれができない場合はその場を去らなければならないという究極の選択を迫られる・・・大人であれば多少なりとも身につまされる話ではないでしょうか。そして一度手を染めてしまうとあとは隠蔽するしかありません。始めはほんのちょっとだった偽装が加速度的に勢いを増していき、本人も怖いくらいになった頃には誰の眼にも明らかな不正として立ち現れてきます。そして残念なことですが、これは程度の差はあれ、こういうことは人間の歴史を通してずっと行われてきたのだろうと思わざるを得ないのです。八木重吉よりずっと前から詩篇の詩人は言っています。

詩編14編1節
指揮者によって。ダビデの詩。
神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。

これは詩編53編2節にもほぼ全く同じ言葉があります。忌むべき行いの中身は偽装ではないでしょうが、神をなきものとして暮らしていることに変わりありません。そのような局面に落ち込むことなく過ごせますようにと願うばかりです。