ラジオを聞くことの効用は、自分では関心のない情報も得られることであり、これは自ら選んで行う読書ではすっぽり抜け落ちてしまう視点である。曰く、「カナダ国立公園で火災、北米で森林火災相次ぐ」、「アマゾンの森林伐採、2023年前半で約34%減少」、「アフリカ南部、アジア西部で砂漠化加速、世界で農地として使えなくなっている土地が毎年1億ヘクタール以上(日本の国土の2.6倍)」、「サウジアラビアの植物工場、使用する水の量は従来の1割未満、現在は葉物野菜のみ、今後は小麦やコメの技術開発が望まれる」、「温州ミカンが今ではいわき市でも栽培、千葉でバナナの栽培の試み、特産品になる日も?」、「ボルドーのワイナリーでしょうゆ造り、良質なぶどう栽培の先行き不安に備えて多角化」・・・
今年は物が何でも高くなり、従来の値段では同じ物が手に入れられないことが深く庶民に浸透した。とりわけ米不足はこれまでと様相を異にしていた。新米との端境期には本当に市場から消えたのである。購入予約はできてもその場で手に入る米はなかった。それを知ったのは、教会で或る人から「お米どうしてます?」と聞かれたからで、家に買い置きがあった私は翌週その一部をお裾分けし、その後はネット上で米の出荷状況を注視することになった。
田舎にならあるだろうと思った帰省先でも、スーパーの店頭に米はないという。農協の直売所に並んだものの、もたもたしているうちに後ろの人にかっさらわれてしまった。戦後のヤミ米市場もかくや、である。もっとも不埒な秩序紊乱者は1名だけで、周囲の人はあきれて見ており、殺気立った状況ではなかったが。私のように「パンも麺類もあるしな」と思える人ならよいのだが、家族、特に子供たちを食わせなければならないとなると、上記のようなことも起こるのであろう。
私は悟った。高くても手に入るうちはいい。しかし今後の農業人口を思えば、いつか食糧が無くなる日が来るかもしれないということが、リアルな現実として眼前に去来したのである。
令和の米騒動については、無論米を買い占めて値段を釣り上げるという投機的な動きはあった。こういう輩はいつもいる。コンサートのチケット等の価格高騰も同様らしいが、こういう輩から決して購入してはならない。いつまでも不正な行為を止めないからである。それとは別に、新米の価格が現在も高止まりしているところから見て、米の価格はこのまま定着するものと思われる。担い手不足などからやはり米の収穫量が減少傾向にあり、必要経費の上昇を考慮すれば正当な値段であるという結論になる。今までが安すぎたのだと言うこともでき、消費者は正当な価格を受け入れる必要がある。そのうえで政府には、需要を満たす十分な供給がなされるよう農政を牽引していただきたい。「米さえあればなんとかなる」というのは、或る程度日本の食卓の真実なのだから。
キリスト教界で唱えられる「主の祈り」は次のようなものである。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
子供の頃、母に「『日用の糧』って何?」と尋ね、「毎日のご飯よ」という答えを聞いた時の驚きを忘れない。他の箇所が何か非常に高尚なことを言っているので、特別な意味があると思っていたのである。その時受けた感じとしては「ズッコケた」が一番近い。ひもじい思いをしたことがなく、何不自由なく育った頭でっかちな子供には、この一節の重みが分かっていなかった。人間の弱い身体の養いに、主イエスが心を砕かぬはずがなかった。他の節と同様、人間が生きるのに必要不可欠なものであったと、今ならわかる。