聖書協会共同訳聖書をいただき、少しずつ読むようになってすぐ、「おっ、これはいいかも」と思いました。ここしばらくずっと1989年版の新共同訳を読んできましたが、1954年版の口語訳聖書で育った私にはなじめない箇所が多く、「果たしてこの訳はどうなのか」と思ったり、訳文が口語訳に比べその厚みにおいて何だかがっかりすることがしばしばあったのです。ところが聖書協会共同訳ではその思いが解消され、懐かしい感覚を覚えました。
まず詩編23編の冒頭ですが、説明の語句を除いて、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳の順に見てみますと、
主はわたしの牧者であって、/わたしには乏しいことがない。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。
となっていて、聖書協会共同訳はほぼ口語訳に戻っており、主がただの羊飼いではなく「私の」羊飼いであること、また「欠ける」という半ば客観的指標を思わせる語ではなく、「乏しい」という主観的な程度を表す表現になっていることが好ましく思えます。
また、箴言17章17節は
友はいずれの時にも愛する、/兄弟はなやみの時のために生れる。
どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。
友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。
となっており、意味合いが元に戻って心底ほっとしました。新共同訳を読んだ時、おそらくそう訳せる十分な根拠があるのだろうとは思いながらも、「そんな抽象的、思索的なことを言っているはずがない」とかなり強い疑問を感じていたからです。これも基本的に口語訳に回帰してとてもなじみ深く思います。
よく取り沙汰されるヨハネによる福音書1章5節は
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
であり、これもほぼ口語訳、それをさらに簡潔にした訳ですっきりしました。新共同訳の「暗闇は光を理解しなかった」もそれはそれで味わいのある訳ですが、一般的な日本語とは言えないでしょう。
しかし次のような場合はどうでしょう。例えば、詩篇46篇10節(11節)
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、/全地にあがめられる」。
「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」
これも口語訳に回帰していますが、新共同訳はやや意訳なのかも知れないと思いつつ、なぜか捨てがたい訳です。「静まれ」を用いる訳なら、何と言っても文語訳の、「汝等しづまりて我の神たるをしれ、われはもろもろの国のうちに崇められ全地にあがめらるべし」の右に出る訳はないでしょう。
また、詩編102編18節(19節)
きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。そうすれば新しく造られる民は、/主をほめたたえるでしょう。
後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
このことは後の世代のために書き記されるべきです。/新たに創造される民は主を賛美するでしょう。
についても、新共同訳は日本語の文意は他の二つと異なっていますが、こう訳すことも可能だとすれば、きっぱり言い切っていて、口語訳、聖書協会共同訳のぼんやりした印象とは一線を画しています。
他には、文学的言葉遣いに帰すことのできる訳文の違いが多いようです。こうなってくると、それぞれの訳の受けとめは、慣れや好みの問題と言えるのではないでしょうか。説明の語句を除いた詩編19編冒頭と伝道の書(コヘレトの言葉)3章11節を見てみます。
詩編19編冒頭
口語訳:もろもろの天は神の栄光をあらわし、/大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、/この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、/その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、/その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
新共同訳:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。
聖書協会共同訳:天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない。その声は全地に/その言葉は世界の果てにまで及んだ。
伝道の書(コへレトの言葉)3章11節
口語訳:神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
新共同訳:神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
聖書協会共同訳:神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
聖書の日本語訳は、その時代の学問の進展や日本語及び社会の変化に合わせ、そしてもちろん神学上必要な学究的検討を経て改変されているものでしょう。ただ少し比較しただけでも、今回の訳は、新共同訳の見直しと口語訳の文学性への立ち返りを意識していることは確かだと思います。もう一つだけ例証を加えます。
詩編23編2節
口語訳:主はわたしを緑の牧場に伏させ、/いこいのみぎわに伴われる。
新共同訳:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
聖書協会共同訳:主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。
「あ、あれはどうかな」と思ってすぐに確かめたのは、ヨハネによる福音書1章1節です。これはどの訳でも同じ文言で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」となっています。「言」を「ことば」と読ませるのも同じで、これは他に訳しようがないのだろうなと感じ入りました。翻訳というのは一つの言語から別の言語へと、ほとんど全人格をかけてなされる模索の結果生み出される表現に違いなく、一つ一つの語の選択に訳者の熱を感じながら今後も読み比べてみたいと思いました。