2024年5月31日金曜日

「認知症防止策」

  私は認知症について調べたことがなく(知りたくないのかもしれない)、従って唯一知っていることと言えば、アルツハイマー型は脳にアミロイドβがたまって起こる現象だということです。進行を止める薬も開発されているようですが、それを飲む適切な時期を見極めるのが難しいとも言います。先日、「これは!」と、自分なりに納得のいくいくつかの防止方法を見つけました。

①散歩を中心とした運動をする

 アミロイドβは体に取り込んだ余分な栄養が変化したものらしいので、大事なのは体を動かしてそれを消費すること、また昨今よく言われる「腹七分目」は正しく、つまり食べすぎに注意が肝要と言うことです。ラジオ体操や「その場足踏み」でもよいが、景色が変わる道を、匂いや音に注意して風を感じながら歩くのが一番よい。これは納得です。暑くなってきたこともあり、最近は早朝バスが動き始める前に駅まで歩くことも増え、安全で気持ち良い朝の外出になるよう試みています。

②気がふさいだ時は無心になれる作業をする

 認知症が進むと、その一症状として鬱っぽくなることがあります。そのまま落ち込んでしまうと元に戻すのが大変なので、重くならないうちに軽い作業をします。作業内容は、本人がともかくもとっかかれるものなら何でもよいようで、塗り絵、積み木遊び、写経、音読、音楽鑑賞といったものから、掃除、料理、家事など体を動かすものまで多種多様です。私の場合は帰省した時の草むしりかな。無心でやっているうちに頭の中が空になり、それなりに成果も見えるので沈みがちな気持ちがリセットされます。

③イベントの予定を入れる

 気持ちが上向いてきたら、なるべく毎日イベントを入れるように心掛けます。これはごく小さなことでよく、できれば自分で計画して無理のない範囲でやり遂げることを目指します。もちろん誰かが立ててくれた予定を一緒にこなすのもありで、これだと体を動かすことと組み合わせるのも楽にできます。私の場合、朝の外出は乗り物も適宜使いながら毎日違ったルートを組み立て、実行するのを楽しんでいます。2~3時間で気持ちよく疲れて帰宅でき、それでもまだ朝9時前(ほぼ一日の始まりと言ってよい時刻)なので、残りの時間を有効に使えます。毎日何かしら必要になる食材や雑貨をこれまた「一筆書きルート」で買い物に行くのも小さな脳トレかもしれません。イベントと言ってよいかどうか分かりませんが、日曜は教会の礼拝に行くし、毎月の帰省や定期的な通院もあります。

 「なあんだ、私、認知症防止対策、無意識にやってたんじゃない」と思いましたが、私の欠点は良いと思ったことをついついやり過ぎてしまうこと。そのため、どっと疲れが出て一日寝たきりとか、エアポケットに入ったみたいに何もせずボーっと過ごしたりということが時折起きます。持病もあるのでこれはこれで必要な時間なのでしょう。それにしても、頑張ってる割に物忘れが治らないと思うのは気のせいでしょうか。認知症防止策を続けることによってこれ以上進まないようならいいんですけど。


2024年5月25日土曜日

「街の修理屋さん」

  いつも履いている靴のかかとがかなりすり減ってきたので、一昨日の外出は別な靴ででかけたのですが、途中で歩きにくさが募って予定を果たせずに帰宅しました。「やはりあの靴を修理に出さなければ」と堅く決心し、リペア店を探しました。以前利用していた修理屋のおじいさんのお店がいつのまにか消えていたためそのままになっていたのですが、そういう訳にもいかなくなりました。“mottainai”は日本の暮らしに染みついた麗しい心性なのに、もう修理などという時代遅れのサービスをしてくれる所はないのかとネットで調べたところ、近くのモールに入っていることが分かり、開店と同時にさっそく入店、修理屋さんに向かいました。

 一番乗りで用件を述べると、「お急ぎですね」とその場ですぐ見てくれましたが、「結構値が張る」との診断。しかし、新しい靴を一足買えるほど高くはなく、またこれほど自分の足に合った靴には今後出会えそうにないので、即座に修理をお願いしました。この修理屋さんはとても若そうなのですが、途中別の依頼をしてくるお客をさばきながら、手慣れた仕草でサクサクと修理を進めていきます。

 その間お店を見回してふと、「さすがに傘は扱ってないですよね」と聞いてみると、「やってますが、修理できるものとできないものがあります」との返事。「これなんですが・・・」と、愛用の傘を見てもらいました。強風で傘骨が曲がってしまったものの、折れてはいないので捨てられずに使い続けていたものでした。リペアラー(リペアマンの「政治的に正しい」呼び名)は一目見て料金を述べたので、これも即決で直してもらうことにしました。鉄の骨なら直せるそうで、「あ~あ、こんなことならもっと早く来ればよかったなあ」とつくづく思いました。

 今回の修理品はどちらも私にとっては非常な優れもので、言ってみれば「余品をもって代えがたい」愛用品です。まだ寿命を迎えておらず、ほんの少し修理の手を加えれば今まで通り使えるものです。捨てずに済んでよかった、また必ずお世話になるだろうなと思いつつ、本当に気分よくお店を後にしました。願うことはただ一つ、こういうリペアのできる店は何としても生き残ってほしい、経済合理性はないかもしれないけれど、資源合理性はきっとあるはずです。


2024年5月19日日曜日

「三つの日本語訳聖書」

  聖書協会共同訳聖書をいただき、少しずつ読むようになってすぐ、「おっ、これはいいかも」と思いました。ここしばらくずっと1989年版の新共同訳を読んできましたが、1954年版の口語訳聖書で育った私にはなじめない箇所が多く、「果たしてこの訳はどうなのか」と思ったり、訳文が口語訳に比べその厚みにおいて何だかがっかりすることがしばしばあったのです。ところが聖書協会共同訳ではその思いが解消され、懐かしい感覚を覚えました。

 まず詩編23編の冒頭ですが、説明の語句を除いて、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳の順に見てみますと、

主はわたしの牧者であって、/わたしには乏しいことがない。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。

となっていて、聖書協会共同訳はほぼ口語訳に戻っており、主がただの羊飼いではなく「私の」羊飼いであること、また「欠ける」という半ば客観的指標を思わせる語ではなく、「乏しい」という主観的な程度を表す表現になっていることが好ましく思えます。

 また、箴言17章17節は

友はいずれの時にも愛する、/兄弟はなやみの時のために生れる。

どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。

友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。

となっており、意味合いが元に戻って心底ほっとしました。新共同訳を読んだ時、おそらくそう訳せる十分な根拠があるのだろうとは思いながらも、「そんな抽象的、思索的なことを言っているはずがない」とかなり強い疑問を感じていたからです。これも基本的に口語訳に回帰してとてもなじみ深く思います。

よく取り沙汰されるヨハネによる福音書1章5節は

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

であり、これもほぼ口語訳、それをさらに簡潔にした訳ですっきりしました。新共同訳の「暗闇は光を理解しなかった」もそれはそれで味わいのある訳ですが、一般的な日本語とは言えないでしょう。

 しかし次のような場合はどうでしょう。例えば、詩篇46篇10節(11節)

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、/全地にあがめられる」。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」

「静まれ、私こそが神であると知れ。/国々に崇められ、全地において崇められる。」

これも口語訳に回帰していますが、新共同訳はやや意訳なのかも知れないと思いつつ、なぜか捨てがたい訳です。「静まれ」を用いる訳なら、何と言っても文語訳の、「汝等しづまりて我の神たるをしれ、われはもろもろの国のうちに崇められ全地にあがめらるべし」の右に出る訳はないでしょう。

 また、詩編102編18節(19節)

きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。そうすれば新しく造られる民は、/主をほめたたえるでしょう。

後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

このことは後の世代のために書き記されるべきです。/新たに創造される民は主を賛美するでしょう。

についても、新共同訳は日本語の文意は他の二つと異なっていますが、こう訳すことも可能だとすれば、きっぱり言い切っていて、口語訳、聖書協会共同訳のぼんやりした印象とは一線を画しています。

 他には、文学的言葉遣いに帰すことのできる訳文の違いが多いようです。こうなってくると、それぞれの訳の受けとめは、慣れや好みの問題と言えるのではないでしょうか。説明の語句を除いた詩編19編冒頭と伝道の書(コヘレトの言葉)3章11節を見てみます。

詩編19編冒頭

 口語訳:もろもろの天は神の栄光をあらわし、/大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、/この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、/その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、/その言葉は世界のはてにまで及ぶ。

 新共同訳:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。

 聖書協会共同訳:天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる。昼は昼に言葉を伝え/夜は夜に知識を送る。語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない。その声は全地に/その言葉は世界の果てにまで及んだ。

伝道の書(コへレトの言葉)3章11節

 口語訳:神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 新共同訳:神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 聖書協会共同訳:神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。

 聖書の日本語訳は、その時代の学問の進展や日本語及び社会の変化に合わせ、そしてもちろん神学上必要な学究的検討を経て改変されているものでしょう。ただ少し比較しただけでも、今回の訳は、新共同訳の見直しと口語訳の文学性への立ち返りを意識していることは確かだと思います。もう一つだけ例証を加えます。

詩編23編2節

 口語訳:主はわたしを緑の牧場に伏させ、/いこいのみぎわに伴われる。 

 新共同訳:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 

 聖書協会共同訳:主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。

 「あ、あれはどうかな」と思ってすぐに確かめたのは、ヨハネによる福音書1章1節です。これはどの訳でも同じ文言で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」となっています。「言」を「ことば」と読ませるのも同じで、これは他に訳しようがないのだろうなと感じ入りました。翻訳というのは一つの言語から別の言語へと、ほとんど全人格をかけてなされる模索の結果生み出される表現に違いなく、一つ一つの語の選択に訳者の熱を感じながら今後も読み比べてみたいと思いました。


2024年5月13日月曜日

「医療の力」

  通院の翌日は時間をかけて、いただいてきたデータを整理し、自分なりの分析をすることにしています。十年以上通った大学病院から別の大学病院に転院したのは今年の一月、初診の診察では時間が遅くなっていたこともあり、問診と血液検査の指示を受けて終了でした。「今後使いたい」という新たな薬のお話をちらっと聞きましたが、まだ診断を下すデータがないため、処方薬は取り敢えずそれまでのものを引き続き飲むようにとのことでした。2回目の二月の通院は、前回時間的に遅くなってできなかったX線検査をし、異常がないことを確かめた後、診察となりました。問診しながら処方薬の微調整をし、希望通りお薬を二つ削ってもらいました。また、私にとっての新たな薬の処方について具体的な提案があり、これは網膜に影響を及ぼす可能性があるため、私の通院する眼科への問い合わせをしてくださるとのお話でした。

 三月の3回目の通院では、新たな薬を試す前に必要な心電図の検査をしてから診察になりました。眼科から「問い合わせのあった薬を処方して構わない」との返信があり、心電図も問題ないということで、この日から新たな薬が処方されました。持病に対して効果があるかどうか、いよいよ試してみることになったのです。担当医は「この薬が効くと思うんだよね」とおっしゃっていたので、私の期待も高まりました。

 新たな薬が処方されて7週間目、4回目の通院がありました。担当医が血液検査のデータをプリントアウトし、何やら書き込みながらサクサクと説明していきます。その場では全てを理解できないながら、「どうも結果はよかったらしい」ということは分かりました。おかげで従来からのお薬を少し減薬することができ、とてもうれしく思いました。「これからの季節、紫外線に気を付けてください」との指示を受けて、診察終了です。私はずっと夏でも長袖、冬でも日傘の生活をしてきましたので、言われずともそんな事は訳ありません。減薬できたことでちょっとスキップしたいくらいの気持ちで帰宅しました。

 通院日は疲れてすぐ休みましたが、翌日検査データの詳細を分析しました。免疫系の病の治療は、炎症として現れる生体反応を調べ、また徐々に低下していく腎機能の状態や長期にわたる薬の服用で生じる体調の変化について継続的に留意することになります。私の場合、注視している数値は、腎機能に関わる尿素窒素UN、クレアチニン、尿酸値UAの数値と、異物の侵入に対する生体反応に関わる白血球数WBC、総リンパ球数、補体C3の数値等です。尿素窒素は腎機能に関わる値で、不調になると高値を示し、クレアチニンの数値の高さは老廃物の処理が不十分であることを示します。白血球の増加は細菌やウイルス等と闘っている生体反応を表し、総リンパ球(白血球数とリンパ球%から算出)の減少は感染症や自己免疫疾患のリスクの増加を示します。また、補体(或る種の血漿蛋白)は異物の侵入による抗原抗体反応で低下します。すなわち、望ましい状態は尿素窒素、クレアチニン、尿酸値の低下であり、総リンパ球と補体は上昇が望まれます。今回の結果は以下のようでした。

1.尿素窒素UNは1年前の高値から改善傾向でしたが、基準値より少し高かった前回より下がり、ついに基準値内になった。

2.クレアチニンはまだ基準値を超えているものの、前回より改善した。

3.尿酸UAは長らく基準値を超えていたが、ついに基準値内になり、ここ2年半で最低値であった。

4.白血球WBCおよびリンパLYMPHOの値は改善したが、総リンパ数はまだ依然として低い。

5. 補体C3は、残念ながら基準値より少し低下した。

 この他に、感染症や膠原病ほか様々な病で体内での炎症が強まると上昇する「赤血球沈降速度:赤沈」という値が劇的に低下していたこと、また「尿蛋白/クレアチニン比」(一日の総蛋白排泄量を導き出すための計算式)の値も大幅に減少していたことなどを確認しました。総合的に見て、これは新たな薬が非常によく効いたことを物語っています。前回のデータの一覧表とざっと比べただけでも、この7週間の間に、10個あった「H(基準値を外れた高値)」が5個になり、依然として基準値を外れているものも良い方向に改善しており、2個だった「L(基準値を外れた低値)」は3個になったものの、これはギリギリ基準値を外れてしまったものであり、あまり心配する必要はないという結果でした。う~ん、これはすごい。私自身、食事、運動、休息に最大限留意しながら過ごしているのは確かですが、現在もたらされた身体状況は明らかに新たに処方されたお薬の効果でしょう。これまで一方が改善すると他方が悪化するという形で、はかばかしい改善がなかった体調が7週間で明らかに変わりつつあります。努力が報われたようで、「また頑張ろう」という気になります。医療の力をまざまざと知らされた思いで、思い切って病院を変えて大正解でした。加齢による通院のしにくさから敢行した転院でしたが、これだけ結果が変わってくるのですから、やはり自分に合った病院を探すのは大事だなと痛感しました。ただこういったことは、タイミングというかご縁というか、たまたま見つかったものであって、何か合理的な理由で探し当てられるものでもない気がします。神様に感謝です。


2024年5月6日月曜日

「消えゆく日本の電化製品」

 この頃中古の家電を購入することが多くなりました。家電の買い替えといえば十年ぶり、十五年ぶり、あるいは二十年ぶりということもざらですから、普通は現在の製品の方が目覚ましく進化しており、圧倒的に優秀です。しかし、個人にとって分野によってはそうとも言えない、昔の製品がよかったということもあり得ます。私はずっと同じシリーズのノートパソコンを使い続けており、自宅に3台、実家に1台所有し、大変快適に使用しています。これなどは、その製品を知り尽くし、必要十分の機能やサイズ・重量といった総合的な観点からその製品に満足し、使い勝手が良いからにほかなりません。一台が不調でも、別のものが用をなしてくれるので、安心して対処できます。この製品は現在は生産されていないので、おのずと中古品を購入して備えることになります。

 最近2台続けて同じラジオを中古で購入しました。中古状態が「非常に良い」との商品説明の通り、ほぼ新品に近い状態のものを手に入れることができました。この製品の優れたところは、AM・FMラジオとTV音声が聞けることで、地域指定のプリセット編集で手間なく自動的にその地域のクリアな音声設定ができるのです。ポケットサイズではなく、手のひらよりは大きいが家に置くのに丁度よいサイズの家庭用ラジオです。とても良い製品だったので、続けて実家用に2台目を買いました。地方ではラジオに雑音はつきものという印象があったのですが、これなら都道府県別の地域設定があるので手間なくチューニングできます。日本の家庭用に特化した最適のラジオです。

 視力的にテレビは私には必要がなくなり、そうでなくてもテレビのコンテンツが劣化の一途をたどる昨今、こんな製品はますます求められるはずなのに、生産終了とは残念でなりません。2台目を続けて買ったのは、この製品が生産終了である以上、中古でしか手に入れることができない製品であり、従って価格はどんどん上昇していくに違いないからです。事実、同じ新品に近い製品ながら、2台目は三千円ほど高い価格でした。

 こういったものは他にも数多くあるはずで、良い製品なのにそれらが中古でしか手に入らないことに愕然とします。日本の企業に、こういった真に優れた製品を作る余裕がなくなっているのは、本当に残念で深刻な問題です。生成AIによるレシピと連動した冷蔵庫とか調理器具とかの話を聞くたび、「自分には縁がないな」と思う人は私だけでしょうか。家電とは人の生活を楽にしてくれる道具ですが、年を取った今、私にとっては「自分の頭で考えて便利なものはちゃんと使わせていただくが、振り回されたくはない。昔ながらの仕方でやっていくから巻き込まないでほしい」というのが本音です。世界を制するようなイノベーションを起こせるごく一握りの企業しか生き残っていけないような世の中は何か間違っています。