2024年4月29日月曜日

「激動の老人ホーム史」

 私が目の色を変えてウォーキングや外出に取り組むようになったのは、ラジオで介護を取り巻く施設の状況を聞いてからです。今まで在宅訪問看護を含めてほぼすべてのヘルパー派遣に応えてきた施設のホーム長が「ついにそれが不可能になった」と述べていました。理由はもちろん人手不足で、「ついに来たか」という気持ちで聴きました。今でさえそうなのですから、いよいよ自分が介護状態になっても介護してくれる人がいないという事態が実際の状況として身に迫ってきたのです。これまでは何とかなるだろうと甘く考えていた事柄ですが、どうしても医療の世話にならざるを得ない最期の最期まで、「自立して生きていかねば」と今回はっきり自覚しました。

 思えば介護の歴史はこの四十年の間目まぐるしく変わりました。私が若い頃は高齢者の看取りは家族に任されており、老人ホームに入るのは珍しいこと、よほどの」富裕者が法外な費用のかかる恒久施設に入る以外は、要介護老人のための特別養護老人ホームに入るしかなく、ここは非常に長い入所待機者がいる状態だったと記憶しています。

 家族構成や人口動態および社会の変化により、家族による高齢者の介護が時代に合わなくなり、2000年に介護保険制度が始まったことによって、介護を巡る状況は著しく変貌し始めます。 女性が社会の働き手としてこれまで以上に中心的な役割をになうようになってきたため、家族・親族の介護が社会の役目になっていったのは理の当然で、その観点から介護保険制度は大きな意味がありました。新しい事業ということで、介護福祉の希望に燃える人々がこれに取り組んだのは確かですし、或る時点まで国庫(すなわち国民の税金)からの十分な予算も組まれていました。

 施設の職員に関して言えば、理想の介護を目指してこの業界にやって来た熱意ある素晴らしい職員がいる一方、この時期がデフレの時代で厳しい就職氷河期に当たっていたこともあって、介護業界に流入する人材は必ずしもそれを望んできた人ばかりではありませんでした。その点、国が介護保険制度を一種の失業対策と考えていたという見方もあながちまとはずれではないでしょう。従って現場の人材は玉石混交であり、そのため施設と入居者の間、また施設の職員の間で様々な軋轢がありました。

  人口動態の変化により、国が高齢者介護の問題を民間のサービス業を用いた制度に落とし込む方向に舵を切ったのは、或る意味致し方のないことです。或る時期から一斉に介護事業に乗り出す企業が出現したのはそこが儲かるブルー・オーシャンに見えたからでしょう。しかし、介護付き老人ホームの在り方を民間の事業に任せたのであれば、他の業界同様、それが収益重視の方向に傾いていくのは当然のことです。介護付き老人ホームの経営が儲かる事業であったればこそ、施設はどんどん増えていったのです。しかしこの状態が続けば、介護報酬による国庫負担が際限なく増えていくわけですから、急速に膨らんでいく財政負担を抑制するため、次第に国は介護付き老人ホームの建設許可件数を絞っていきます。このあたりから、国に対する民間介護業界の、生き残りをかけてのバトルが始まり、介護を真に必要とする国民は翻弄されていくのです。

  具体的には、国は介護付き老人ホームの建築を制限する一方、住宅付き老人ホームの建築は制限しなかったので、多く企業がそちらの建築・運営に向かいました。これで介護報酬が減らせると国は考えていたようですが、民間業者の方が一枚上手で、従来通りの介護報酬を手に入れる方法を見つけました、すなわち、介護費用の限度額まで使わせてくれる居住者しか入居させない方針をとったのです。介護費用を10割全部使われてしまうと、介護付き老人ホームの増設と変わらず、財政支出は当然膨らんでいきます。そのため、次に国が打った手は、介護状態の認定を厳しくし、要介護・要支援から予防的方向へ向かって自立を目指すことを重視することでした。この時、患者と国の介護福祉費用削減の板挟みとなって苦境に立たされたのは、言わずと知れたケア・マネージャです。動けないから老人ホームにいるのに、自立は無理です。ケア・マネージャーは少しでも費用を抑えるケアプランを作るよう国からの指示を受けながら、施設長からはなるべく介護報酬が高くなるケア・プランを作るようにとの全く矛盾する命題を与えられているのです。これでは心ある人ほどどうしてよいか分からず辞めてしまうのも当然で、残っている人も、「ケア・マネになんかなりたくない」という人がほとんどになってしまいました。現場の利用者のケアに不可欠の計画部門が適切に機能しないのですから、その実施部門はさらに混乱の極みに陥ることは避けられません。

 今現在がこの状態なのだと私は理解しています。大枠が国による介護保険制度なのですから、介護報酬を操作することによって国は民間事業者をいかようにもコントロールできます。しかし、実態を知れば、これが本当に制度として成り立っているのだろうかという疑問を禁じ得ません。病気なら治ることもありますが、老年期の体調はほぼ悪くなる一方なのですから、現場を必死に支えてくれている職員の気持ちをくじいてまで、必要な介護項目を削ってどうするつもりなのかと怒りがこみ上げてきます。私は最近まで、「国民の15歳―64歳の人口が急速に減っているのだから、労働人口(就業者数)もへっているのだろう」と勘違いしていましたが、実際はコロナ禍が訪れるまでこの十年の労働人口が増えていることに気づきました。びっくりです。働く人、特に女性の就労者数は着実に増えているのです。デフレ下で賃金が上がらないなか家計を支えるために就業している場合や、人生百年時代を生きるために、やむを得ずそうしている人も多いことと推測されます。だから人手が無いわけではないのです。この介護という分野がやりがいを感じられる場所に変わるなら、なり手はいないわけではない。ただ、国の方針と施設の方針の矛盾に疲れ、また施設内の役割分担の不平等さや厳しい遂行義務に疑問を感じ、さらに施設の在り方を勘違いしている居住者とその家族による無理難題に嫌気がさし、やる気のある職員もいつしか「馬鹿馬鹿しくてやってられない」という気持ちを募らせていくのです。

 入居者に関して言うべきことがあるとすれば、自分の損得ではなく、介護保険制度の趣旨と恒常的な介護人材不足を理解して、一定程度自助努力が必要だということではないでしょうか。「できることは自分で」の気持ちで我儘放題は控え、職員の方々が少しでも気持ちよく働ける場にしなければ、老人ホーム、ひいては介護保険制度は崩壊します。「必要な介護を必要な人に」という簡単なことがどうしてできないのでしょうか。今後、介護問題が良い方向に行く気は全くしません。今回老人ホームの変遷を辿ってみて、この二十数年の激しい変化に衝撃を受け、それだけに何とか最期まで自力で過ごせるよう少しでも体を鍛えなければと、背筋がシャンとする思いです。


2024年4月22日月曜日

「三台目のパソコン」

  待ちわびていたパソコンはずっと愛用してきたノートパソコンと同じシリーズの13インチの製品です。これまで使っていたソフトをそのままインストールできるようWindows 10版の中古整備品を選択し、Officeが既に入っているのですぐ使え、価格も良心的な御値打ち品でした。届いてすぐにマウスを接続して使おうとしたら、「あれっ」、前と同じように一部の機能しか動かない。ということは、パソコンの問題ではなくてマウスの問題だったの? いや、別のマウスでも試してみて駄目だったから、パソコンを買い替えたのに・・・。あわててさらに別のマウスを装着して試してみると、ちゃんと動く。やはり先の2つのマウスが壊れていたのだということを、ここで初めて理解しました。「ああ、何やってるんだか。今までの苦労は何だったの? あの時三つ目のマウスを試してみればよかった」と悔やんでももう遅い。¬¬

 しかし、ものは考えようです。愛用してきたパソコンはキーボードが駄目になりかけており、もう一つの方は先日壊れかけて、何故直ったのか分からぬまま復帰したのですから、二つとも危うい状態と言え、三台目があったら安心です。また、時代が進めばパソコンもバージョンアップされ、今使用している通りに使える製品が手に入らないことも考えられます。というわけで、ここは前向きに、三台目の活用法を考えました。

 基本方針として次のことを決めました。①メールは使わない。(迷惑メールとの闘いは他の二つで十分。) ②検索エンジンはマイクロソフト・エッジを基本とし、グーグル・クロムはダウンロードしない。(これまでの二台はグーグルを基本にしていたため、ちょっと変えてみる。) ③主にワードとエクセルの入力用に使用し、余計なアプリは入れない。(キーボード操作に熟達することを目指す。)

  最初に行なったのは、何といっても音声ソフトのインストールで、これが無いと私はパソコンを扱えません。Windows 10のパソコンを選んだのは、この必要不可欠なソフトのインストール用DVDがWindows 10に対応したものだからです。今度のパソコンはSDカード挿入口が無い替わりに、DVDドライバー内蔵型だったので、手間なくインストール完了。次にしたのはインターネットが使えるように、アクセスポイントにルーターのパスワードを入力して接続完了。あとはプリンターを付属のDVDドライバーでインストールしました。これだけです。中古の整備品のなんと楽なこと。

  唯一頭を悩ませたのがパソコン置場。健康のためパソコン作業は立ったまま行うことにしているので、作業台候補は限られています。今現在そこにあるものを一部移動させないとパソコン置場が確保できず、狭い家なので玉突き的に他のものをどんどん動かさないといけなくなりました。パソコンのUSB挿入口が横にあるか背面にあるかの差だけでも部屋の模様替えに大きな影響を及ぼすというパズルを、試行錯誤しながら半日かかって解決しました。全てが「まあこんなものかな」と納得できる程度には納まり、ようやくパソコン受難週を脱したなと、心に晴れやかな気持ちが復活しました。


2024年4月15日月曜日

「パソコン受難週」

  先週は自宅のパソコンが次々と原因不明の異常な状態に襲われました。まず、2台あるうちよく使う方のパソコンで、マウス機能の一部が使用不可になりました。普段から音声でキーボード操作を行っているし、すぐ直せるだろうと思い、最初はさほど困らないと高をくくっていました。ところがどう頑張っても直らない。直す方法が分からないのではなく、「このボタンを押せば」あるいは「ここをオンに変えれば」直ると分かっているのに、そのボタンがあるいは切り替えが「実行ENTER」キーを押しても変化がない、というかどうも押せないようなのです。ナムロックNumLockの切り替えなども試しながらあれこれやっても変化なし。マウスが全く使えないならそれはそれで頭の切り替えができるのですが、マウスで画面をスクロールしたり、右クリックで操作を選択したりはできるので、この中途半端に「できる操作」と「できない操作」が入り混じっている状態がまさに困りもの、頭の痛い問題でした。

 そのうち、いろいろ試したのがいけなかったのか、ワード文書の表示がなぜか左半分だけになりました。こちらもツールバーから「表示」の設定を「全画面表示」に変えればいいと分かっているのにそれができない、そのアイコンが押せない状態になっているのです。シャットダウンや再起動をしてもダメ、念のため電源を切って放電までしましたが処置なし、徒労に終わりました。この間、これまであまり使ってこなかったショードカット・キーにもだいぶ精通しましたが、マウスでしかできない(あるいは私がキーボードでのコマンドを知らない)操作というのもあって、次第に疲弊してきました。初期化すれば直るのかもしれませんが、購入した時にすでに搭載されていたソフトが思い出せず、これまでの全てが消えると思うと踏み切れませんでした。

 そのうち新たな問題が発生しました。一つは3日、4日と日が経っていくうち、その間は食事を作る気にもなれず、ハッと思いついた時に睡眠を中断してその解決方法を試したりしたので、生活のリズムが乱れたこと。それでも全然改善しないので悶々としながら元気が出ない状態で過ごしました。もう一つは、それまでトラブルの解決方法はもちろんもう一つのパソコンを用いて調べていたのですが、五日目にシャットダウンしていたそのパソコンを起動した時、しばらく見ずに済んでいた既視感のある画面を見て、思わず「終わった~」と絶叫。なんと真っ暗な背景に英文が書き込まれたあの画面で、キーを押すと続々と同じ英文が繰り返し表示されました。「こちらのパソコンも壊れてしまったのか~」と呆然とし、天を仰いで嘆息しました。この状態ではこっちの方がむしろ重症。新たにパソコンを購入するにしてもパソコンがないとそれもできない。いや家電売り場に行けば帰るだろうが、ネット上で探すことができない。意気消沈して取り敢えず休息という名のふて寝を敢行。

 時間をおいて、気持ちも切り替えて念のため電源を入れると、「ん?」、何といつものWindows画面に戻っているではありませんか。狐につままれた気分でした。ここに至って、私はすぐさま通販サイトを開き、マウスに異常が起きているパソコンとほぼ同じ型の中古ノートパソコンを注文しました。ついに直すのを諦めたのです。心の霧がパァーと晴れていくようでした。そして何よりうれしかったのは二日で届くということ。普段、通販商品の配達は三日くらいかかっても当然、ドライバー不足の現在は一週間くらいは許容の範囲と思っている私ですが、この時だけは「これは例外」という気持ちでした。このパソコンだけは早く着いてほしい、これほど待ち遠しい配達は今までなかった気がします。


2024年4月10日水曜日

「2つの旧財閥系庭園」

  東京には都会の喧騒のただなかにぽっかりと静寂な場所が結構あります。それは、日本の激動の歴史の中でも破壊されずに残り、現在大切に保存されている庭園です。浜離宮恩賜庭園は徳川将軍家の出城とも言うべき見事な佇まいを見せていますし、他の藩主による庭園としては六義園(柳沢吉保)、小石川後楽園(水戸・徳川光圀)があります。また、皇族のものとしては東京都庭園美術館となっている旧朝香宮邸庭園が有名です。

 私は夏が来る前に体力アップを図ろうと、自分に活を入れつつ動き回っている折、先日は旧岩崎邸庭園に行ってきました。文京区から上野あたり一円は良く知っているはずと思っていたのに、以前池之端で「旧岩崎邸庭園はどこですか」と聞かれて、答えられなかったことを思い出したからです。探している人が辿りつけないというのも頷けるほど奥まったところにあり、恐らく一番簡単な行き方は本郷三丁目から東西に走る都バスで2つ目の湯島三丁目バス停から行く道のりでしょう。

 旧岩崎邸はジョサイア・コンドルの設計による英国ルネサンス様式の洋館(明治29(1896)年完成)で、正面玄関上のイスラム風の塔が印象的です。内部は岩崎財閥の財力が否応なく伝わる本物の装飾で満たされ、華麗でありながら実に落ち着いた雰囲気です。ただ、靴を脱いで袋に入れて持ち歩くことになるのでその点は注意です。洋館1階の西側には今年3月23日に公開開始されたばかりの書生部屋(学習室)があり、津田梅子が岩崎久彌夫妻の子供たちに英語を教えていたと言われています。また、三菱ゆかりの小岩井農場についての写真等もありました。順路の最後には、洋館に比して見劣りはしますが和館が繋がっており、坪庭や和室も見ることができました。洋館のベランダから見渡せる庭は平坦で広々としており、一面の緑と一体化できるような清々しさです。庭を一周して出口近くに独立した撞球室(ビリヤード場)があり、ここが本館から地下通路でつながっているという造りが最も私の関心を引いたところです。残念ながら実際に通ることはできませんが、このような遊び心のある仕掛けに出会うと、なんともうれしくなってきます。私の思考は勝手に暴走し、わくわくする想像が抑えがたくなります。「他にも英国のミステリに出てくるような抜け道があったりして。昔読んだ本に図書室かどこかから外に通じる館の話があったっけ。これはもう必ずや密室トリック事件が生まれる・・・。」

 さて、ジョサイア・コンドルの設計と言えば、もう一つ挙げなければならないのは旧古川庭園です。こちらは陸奥宗光の邸宅のあった土地ですが、当時の建物は現存していません。次男が古河家の養子となったため、古河家の所有となり、ジョサイア・コンドルの設計による洋館と洋風庭園が造られました。見た目は、旧岩崎邸と同じ設計者とは思えぬほど違っており、明るいクリーム色の旧岩崎邸に対し、旧古川邸は黒い石造りの重厚な造りです。東西南北の側面から見ると、それぞれ破風の造りが個性的で「これぞヨーロッパの洋館」といった風情です。十年前くらいに訪れた時に邸内を見学した覚えがありますが、今は忘却の彼方。ただここの見どころは何にも増して美しい庭園と言うべきでしょう。洋館の前にはシェーンブルン宮殿庭園ばりのミニミニ版的に刈り込まれたバラ園があり、あれは何月だったのか、あの時は好天のもと多種多様のバラが咲き誇っていましたっけ。そして洋館を背に、かつバラ園を前にして階段の上に立つと、目の前には日本庭園が広がっているという、恐らく日本でもめったにない光景を二つながら味わうことができます。ちなみに日本庭園の作庭者は京都の庭師・小川治兵衛とのこと。これがまた、心字池を配したちょうどいいサイズの素晴らしい庭園で、言うことなしです。

 見る方向や角度によって様々な表情を見せる黒い洋館と和洋双方の全く違った個性的な庭を見ていると、またしても幻想が浮かびます。いきなりそこは灰色の垂れ込めた雲の中で雪に降り込められ、周囲と交通が遮断された不穏な雰囲気の洋館となり、と来れば必ず起こる密室殺人事件…。むろんミステリの読み過ぎですが、ここは舞台設定が事件を呼び寄せると言っても言い過ぎではないような完璧な佇まいです。ただ、旧岩崎邸にしてもこの旧古川邸にしても、当時は想像すらできなかったこととして、今はそこここに高層ビルが建っており、事件が起きても必ず窓ガラスの向こうから目撃している人が存在しそうです。かくしてミステリはもう成り立たない、いやその前にまず交通が遮断されることはあり得ないか。旧古川庭園から近い電車の駅はJR京浜東北線の上中里もしくは、東京メトロ南北線西ヶ原のようですが、現地までは600mくらいは離れています。見る価値のある庭園は意図的にすぐには辿り着けないところに配置してあるのかも知れません。逆に、もっと歩きたい向きには、王子から飛鳥山公園を抜けて本郷通り沿いに歩くのもよいでしょう。それでも2キロはないはずです。


2024年4月3日水曜日

「お金と権力は人を狂わせる」

  最近日本を騒然とさせたニュースは、何と言っても大リーガー大谷翔平の専属通訳による違法賭博問題でしょう。小さな島国の国民にとって、世間様(諸外国)に対するこのような国民的不名誉を感じる不祥事はスタップ細胞事件以来のスキャンダルでした。ああ、あれから十年、面目ない気持ちでやりきれません。大谷選手の会見をそのまま事実とするならば、「何てことしてくれたんだ!」と言うほかなく、怒りと失望が日本を席巻したと言っても過言ではありません。この問題は、言語も法体系も社会通念及び諸慣習も全く違った国で生活することの危うさや困難も示してくれています。アメリカにおける疑念は「それほど巨額な送金を本人の同意なしに、または本人に知られずにできるはずがない」と言うところに根差しているようですが、これは多くの日本人にとっては「そういうこともあり得るだろうな」と理解できてしまう事柄なのです。打ち込む仕事があり多忙すぎる、お金に執着がない場合など、金銭に無頓着な人は頻繁に銀行口座をチェックしたりはしないからです。また、仕事の一環として相応のお金の出し入れは依頼していたはずですし、信頼している人に金銭処理を任せることは日本ではままあることです。アメリカ人には考えられないことでしょうが、それこそひと昔前の日本で家計を握るのは、その家が商家でもなければ、高度成長期に家事能力を極限まで発達させた一家の主婦というのが当たり前で、大黒柱たる世帯主はそのような瑣末なことから解放されていました。お金に関わることは何となく下に見られていたのです。私も若い頃は銀行口座をチェックする習慣も時間もなく、「月に一度通帳をきれいにする」と言った友人の言葉が意味不明で、それが通帳記入を行い印字するという意味だと分かっても、「へえ~」と思うだけで全く必要性が分かりませんでした。

 大谷選手の場合、その通訳の方は通常の通訳業務以外にその十倍もの様々な雑務をこなしていたということですし、すっかり信頼して仕事を一元的に任せ、普通の通訳に支払う額の十倍もの給料を支払っていたようです。多額の報酬は十分その働きに報いたいと思ってのことでしょう。ところがあろうことか、この人はギャンブル依存症で、にっちもさっちもいかなくなって大谷選手の口座から違法賭博の借金を送金してしまったのです。(まだ捜査中のことなので断言してはいけませんが。)スポーツ賭博についての取材依頼があることを大谷選手に黙っていたのはなぜか、「『二度としない』ことを条件に、大谷選手が一度だけ借金を支払ってくれた」という最初の説明を翌日には翻したのはなぜか、また、経緯の説明が大谷選手本人に対する説明に先んじてチームに対してなされたのはなぜか、仕事に支障があるわけでもないのに学歴詐称をしたのはなぜか、というようなことを考えると、あまりの人格的弱さにがっくりするしかありません。厳しいようですが、大谷選手も人を見る目が無かったのです。外国で生活するのに最も強力で不可欠の武器はやはり言語能力でしょう。間違った人物にこれを任せてしまうと、相手は自分に対し強い権力を振るうことができ、都合の良い専横を許してしまいます。あらゆる権力は腐敗するからです。

 誰かに対して全面的に力を及ぼすことができるという優越感はあまりに強烈なので、一度その力を得たら絶対に失いたくないと思うのは当然です。(その支配力が国民全体に及ぶ場合は独裁になります。)そうなると、どんな手段を用いても人は悪事の発覚を阻止し、自分の身を危うくするものは全て抹殺しようとします。これは権力を掌握した人誰にでも起こることです。世界中どこを見渡してもそうでない事例を見つけることができません。

 通訳の方はもともとギャンブル依存症という病気だったとのことですが、きっと当初は大谷選手というとんでもないジャックポット(大当たり)を引いて、人生最大のギャンブルに勝った心地だったことでしょう。我が身も浮遊したような心持ちになり、誘惑を斥けられずに借金がどんどん巨額になって歯止めがきかなくなっていったのでしょう。雇われた相手がこれほどの富裕者でなければ、全米規模どころか国際的金融犯罪容疑で捜査されることもなかったかもしれません。その意味で彼は、実は最悪のくじをひいてしまったと言えるでしょう。「お金は人を狂わす」ということ、どんなに信頼している人でも、いや信頼している人を守るためにこそ、「一人に任せずダブルチェックする」ことを、大谷選手は高い授業料を払って学んだことでしょう。全幅の信頼をおいていた人に裏切られた思いは今後じわじわと身にこたえてくることでしょうが、大谷選手は真っ直ぐな人だと思いますので、んなことで躓いてほしくない、何とかこれを乗り越えて自分の力を存分に発揮してほしいと、国民は皆願っています。