朝、目覚めると着替えをしながら今日の予定を思い浮かべます。昨年の懸案だった転院問題が順調に進み、最近は地震と気候変動以外の心配材料が何もないことは本当に感謝です。首都圏の地震は必ず来ると思っていますし、戦争あるいは政治・経済的理由よりはるかに多くの難民を生じさせているという気候変動は途轍もなく大きな問題ですが、自分にできる身の回りの努力の他はできることがありません。心配しても仕方ないのです。せめて今は暑さで動けなくなる夏が来る前にできるだけ運動(主にウォーキングを兼ねた都営交通の旅)をしています。午前中に戻れるくらいの短い外出でも、続けていると元気が出て、体力がついてくる気がします。
先日は築地を覗いて見ましたが、市場が豊洲に移ったと言っても、まだまだ多くの人で混雑して活気がありました。特に場外市場で大勢の外国人観光客が、朝食と思われるうどんを立ち食いスタイルで美味しそうにすすっていたのは、これまで見たことの無い風景で、「おっ」と目を引きました。店先は掘っ立て小屋的様相ですが、こういう飾らないアジア的雑踏も旅の妙味となることでしょう。
人々の日常の暮らしを見るのは楽しみでもあり、そこにいる見ず知らずの人からエネルギーをお裾分けしてもらって、よい一日のスタートとなります。往復してくるだけでも相当な運動量ですから、帰ったらもちろんコーヒーを淹れて一休みし、汗をかいていれば湯に浸かります。ああ、何という贅沢でしょう。残りの時間は家でのルーティンワーク、読書や家事、日常生活のメンテナンスなど、その時その時でやるべきことを片付けます。何もないようでも放っておくとどんどん溜まってしまう仕事はあるもので、嫌になる前に手を付けるのがコツです。
若い頃から気になっていたモラリストの言葉は今になってなおさら身に沁みます。無理せず、飾らず、肩肘張らず、一日を自分の裁量で決めたとおりに動かせる幸いを与えられているのは歳を重ねたご褒美でしょうか。
「旅のように生きていこうじゃないか。・・・一日一日をしっかり無理なく過ごそう。・・・・私は一日の終わりが旅の終わりになるように心がけている。私は私の足で歩いているから、どんな一日であっても私は満足する。人生というのは一日一日の連続なのだ。・・・」
あ~分かる、その感覚。旅好きだったモンテーニュのこの言葉に心から賛同です。彼はまた、「中庸とは無理をしないことだ」、「極端は私の主義の敵なのである」とも言っていたはず。ああ、いいなあ。でもモンテーニュは死についても省察していましたっけ。 「糸はどこで切れようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ」と。それがいつになるか誰も分かりませんが、いつ来てもいいように一日一日を生きて、備えておかねばなりません。