2024年1月28日日曜日

「受洗50年を振り返って」

 昨年末に東京で通っている教会から、受洗50年のお祝いに新しい聖書をいただいた話は以前述べましたが、会報にそれに関する寄稿を求められました。これはほぼ全人生を振り返る作業に等しく、荷が重いことでしたが、こんな機会でもないとできないことなので真剣に取り組みました。結果は、自分がいかに神様のご計画の中で守られて過ごしてきたかを知らされ、厳粛な気持ちになりました。聖書の中で、イスラエルの民が約束の地カナンまで荒野放浪をする40年間は苦難の時として描かれますが、「苦難」というなら、おこがましいですが、私も(そして恐らく誰もが)それに負けない苦難を背負ってきたと思っています。それでタイトルを(生意気にも)「荒れ野の50年」とすることにしました。私の中では「荒れ野の40年」を超えてしまっているのです。以下、寄稿文です。


   荒れ野の五十年

 キリスト教と無縁の環境から信仰に入られた方に会うと、そこに紛う方なき神の御業を見て、私はいつも畏怖の念に打たれる。一方、神様は創造主だけに私の頑なさをよくご存じで、それゆえ私には身近にキリストの愛をもって強烈に接してくれる両親が与えられたのであろう。子供の頃寂しかったのは、パンとぶどう酒の配餐時に、「私も?」と目で尋ねると、母が黙って首を横に振るだけだったこと。何物も惜しまず与えてくれた両親が、それだけはどうしても与えることができなかったものを求めて私が受洗したのは、中学一年のクリスマスだった。

 日曜の用い方という点で「うちはちょっと変わってるな」と思った子供時代から、次第に周囲とすり合わせできなくなっていった十代を経て、私は自らを極力封印して学生時代を過ごすようになっていた。所属した駒場聖書研究会でも信徒はまさかの一人、そこは西洋文明を読み解く手段として聖書にアプローチする人が集う場であった。信仰のことを自然に話せる歳になった今、当時キリスト者として隠れていたつもりが、そうでもなかったらしいと知らされるのはじんわりとうれしいものである。

 社会に出てからは世の荒波に揉まれ、御言葉とこの世の接点を求めて呻きながら、主が「そばを通り過ぎようとされ」(マルコ六:四八)ても、私は長く気づかずにいた。しかし、制御不能で宇宙をさまよう満身創痍の探査機はやぶさに、「応答せよ」との信号が送られたように、神様は御顔を向け他ならぬ私だけに宛てた波長でその声を送り続けられた。体調不良による早期退職や福島教会会堂再建という疾風怒濤の日々を通して、その度にマナ(これは何だ?)としか言いようのない恵みを賜り、私はようやく神様の御許で平安の中を歩く道を与えられた。

 信仰というのは厄介な贈り物である。その扱いに困惑しながら数十年歩く中で、自分が何者でないかを知らされる過程こそが神様からの大きな恵みの贈り物だと気づかされた。若い日には飲み込めなかった聖書の箇所がすんなり胸に落ちるようになったのは、御旨のありかが皆目わからぬまま「今日の働きの全てをあなたに献げるものとして行うことができますように」と、毎朝祈るしかなかった日々と無関係ではないだろう。突き詰めれば、無意識的にせよ神様から離れようとする幾通りもの試みを、神様がお許しにならなかったと言うほかないのである。

 キリストにより新たにされた者は過去の出来事を神の定められた御計画に同期するように描き見て、記憶された出来事の意味を必ず書き換えている。信仰者は「神の不在」と思えた時間を、自らが霊的に成長することによって、紛れもない「神の臨在」として事後的に受け止めているのである。その意味で、信仰は遡及的に証しされるものである。パスカルの賭けの理論はこのように構造化されていたのかとようやく腑に落ちた。神の存在は人間には不可知で、「有」「無」のいずれに賭けても理性上は等価だが、幸福という観点から見れば、前者に賭ける方が圧倒的に有利である。何しろ、「あなたが勝てばすべてを手に入れることができ、負けた場合でも何一つ失うことはない」のだから。

 イスラエルの民の子孫が後に荒野放浪時代を大きな恵みとして想起したように、ここまで私を導いてきた主が七年を七倍する以上の年月の間、完全な慈しみをくださっていたこと、これだけが今私が手にしている確かなことである。


2024年1月22日月曜日

「転院初診日」

  先日、紹介状を持って新たな病院に行きました。転院した第一の理由は、病院が遠いのみならず非常に行きにくい場所にあったからです。今度の病院はバス乗り場が近く、一度の乗り換えで簡単に病院まで行けます。また、電車と徒歩を組みわせると他に3つのルートで通院が可能で、季節や天気・気温等を考え併せて選べるのがうれしい。

 さて当日は予約時間より1時間ほど前に病院に着き、中央案内で「紹介状のある初診」であることを告げると、いくつかに分類された診療受付の一つに行くよう指示されました。ここからの流れは一言で言って実にシステマティックであり、そうでなければこの大学病院にわんさかやって来る患者をさばけないのでしょう。まず診察券を作るための書類(名前、生年月日、性別程度)を書いて番号札を取って順番を待ち、書類を渡すと、さらに2枚くらい問診表を渡されました。いや、その前に血圧を自分で測ったんだったか。問診表はこれまでの病歴、手術歴、他の診療科の病、アレルギー関係、緊急連絡先の質問などで、ゆっくり思い出せる限り書いて提出しました。裏面の書き忘れがあり、その場で書くように言われましたが、細かい字で読めずにいると、事務の方が「書きましょうか」と言ってくれて、主に「発熱がないか、風邪やインフルエンザ、コロナの症状はないか」についての聞き取りでした。これで書類は終わりかと思ったら、さらにもう一枚問診表を渡され、こちらは身長・体重、生活習慣、体調(食欲、便通など)に関する者で、診察時に先生に渡すよう言われました。

 午後2時半の予約でしたが、紹介状持参の初診が時間通り行われると思うほど、私は病院初心者ではありません。転院者は再診者が全て終わってから一番最後だと思っていたので、3時になっても3時半になっても焦らずゆっくり待つことができました。診察が始まったのは4時過ぎ、先生は若くきびきびした方で、話に無駄がなく、しかもこちらの話をよく聞いてくれる方だったので、第一印象はとてもよかったです。

 最初に「血圧高いですね」とおっしゃるので、「血圧も脈拍も家で測る時より20くらい高いです」と言ったら、家では高くないならあまり気にする必要はないとのこと。それから聞かれるままに受け答えし、また自分の症状に関して言うべきことを述べました。これまでの治療経過は記憶の限りお話ししましたが、まだこの病院では検査は一つもしていないので、今日は聞き取りというところなのでしょう。目の状態についても聞き取りがあったので、こちらもかいつまんで経緯をお話ししました。それから、「その胸にしてるのは…」と聞かれ、「単眼鏡です。電光掲示板が見えないので」とお答えすると、「お名前で呼んだ方がいいですか」と質問されましたが、「いえ、大丈夫です」と答えました。最初からこれほど気が付いて気配りができる医師は珍しい気がしました。お薬については、どうも私がこれまで使ってきたものとは別の薬を使いたいようで、それについては次回必要な検査をしてから、決めていこうという感じです。私も、目の方に影響がないなら一度その薬を試してみたいと思いました。

 こんな感じで診察はスムーズに進み、最後に検尿と採血をして帰ること、次回は診察前に指示された検査をするように言われました。担当医となる方は特定曜日の午後だけの診察となり、これまで午前中に診察を終えていた私の生活リズムは大きく変わりそうですが、早起きして家を6時に出るのも辛くなってきていたので、ちょうどよかったのかも知れません。この日の採血は8本で過去最多。でも5時過ぎには会計も終えて病院を後にしました。人がまばらになった時間なので会計も早くてよかったし、2週間後の再診まで今ある薬を飲むことになり、今日の薬の処方はなかったためすぐ帰れました。この日は早く帰宅したかったのでバスを待たず、タクシーで最寄り駅まで行き、一番早いルートで帰ってきました。おかげで5時40分くらいに帰宅でき、こういう利便性を考えると本当に転院してよかったと思いました。


2024年1月15日月曜日

「能登地震の痛み」

  今年は元旦以来、明るく笑える日がないように思います。ラジオの投稿を聞いていると、日本中がこのことに痛みを覚えていることが伝わってきます。殊に、地震後の環境劣化により災害関連しが止まらないことが報じられるたび、より一層やるせない苦しみが募ります。「いつまでたっても水道、電気が回復しない」、「一年で一番寒くなる時期に、灯油が足りてない」という恐ろしい状況により、低体温症をはじめ感染症の蔓延、疲労、ストレスが限界に達しています。懸命の救助、救援、復旧作業に当たっている方々には本当に頭の下がる思いですが、震度7以降も大きな地震が頻発しており、大局的に見ると、「他の土地に移れる住民は今しばらく一度休養を挟んだ方がよいのでは」との見解も間違っていないように思います。

 阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災は被害が非常に広域にわたっていたことが特徴的でしたが、まだ日本海側からのルートが機能していたため、人も物流も息をつくことができました。しかし、今回は海岸線の土地が4メートルも隆起したところがあるように、海からのルートも含めて救助に入れない孤立集落が、当初その数を把握できないほど存在したのです。ちなみに土地の隆起は通常一年に1ミリほどとのことで、今回の地震は数千年に一度の現象に当たってしまったようなものだそうです。

 新年早々、「元日になんでこんな目に遭わなきゃならんのだ」という被災者の痛切な嘆きを聞きました。その問いに答えられる人は誰もいないでしょう。その後、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災者から、仮説生活を経て復興までの体験を綴ったエールも紹介されましたが、今現在の被災地の状況では、これも聞くのはつらい言葉なのではないでしょうか。食事時の場面で、被災地の或る年配の方が、そのような支援を有難く感じながらも、「こうして食事に呼ばれてくるけど、ただそれだけで何の希望もない」と本音を吐露していらっしゃいました。その通りだろうと思います。ラジオには、「私は『前を向く』という言葉が嫌いです」という投稿もありました。心機一転頑張ろうと思うまでには時間がかかります。「とにかく一度休んでください」と大声で言いたい気持ちです。しかし地域住民の郷土愛を推し量れば、集落ごと皆一緒でなければ効果がないと思わされ、何とかならないものかと気を揉むばかりです。いずれにしても、このような折に、人の窮状につけこむ悪質な犯罪を行う者たちだけは決して許されません。


2024年1月10日水曜日

「最後の車種はSUV?」

 年明けの4日、私は「頑張って来てね」と兄にメールを送りました。何のことかと言えば、車の初売りです。昨年秋ごろから車の買い替えが帰省時の話題に上がっており、何度かお互いの希望を出し合って検討してきました。現在の車は兄が仕事用に使っていたもので、一人で乗るには小回りが利いてよかったのでしょうし、私も駅への送り迎えくらいなら別にそれでよかったのです。しかし買い換えるとなると俄然話は白熱します。兄も「たぶんこれが人生最後の車になるんだろうな」と言っており、ならば次の車に私が求めるのは、とにかくもう少し広く、後部のバックドアがあって、何かの時自転車くらいは載せられる大きさということでした。これからどんどん歳を取って行くのですから、送ってもらう機会も増えると考え、私もこの話に乗ることにし、"Put your money where your mouth is. "と言われる通り、「口も出すけど金も出す」ことにしました。

現在車の流行は、SUV即ちSport Utility Vehicle(スポーツ用多目的車)だろうと思いますが、これは兄の希望にも私の希望にも合っており、この方向で考えることにし、あとはもう軽自動車で十分というところに落ち着きました。今は軽自動車でもかなりのスペースがあり、何があるか分からないのでいざという時横になれるくらいの広さがいい、或る程度オフロードも走れるくらいの機能が欲しい、街中を走る時は低燃費のものがいい、等々意見を言い合っているうち、徐々に車種が決まっていきました。

最初意見が割れたのは購入時期で、兄は「次の9月まで車検があるから」などとぐずぐず言うのに対して、私は「遅くとも新年度になる前に買わなきゃダメ」とずっと言っていました。「何で?」と聞かれると、「相場師としての私の勘」と答えていました。もちろん株など一度も買ったことはありませんが、耐久消費財に関しては大抵いつも買い時を間違えたことはないと自負しています。

そうこうするうち、何と軽自動車大手D社による長年の偽装が発覚し、軽自動車の供給が逼迫するかもしれないとの恐れが生じたため、昨年12月の帰省時に兄と販売店に行ってみました。無論D社ではありません。すると、希望の車種について話はトントン拍子に進み、付属品も含めて見積もりを出してもらい、年明けの初売りで契約することになりました。兄はこんなに早く購入することになるとは思っていなかったようですが、車の機能や契約内容の見積もりには大満足だったらしく、私も早く決まってよかったなと思いました。

年明けの契約も無事済み、兄は車庫証明や住民票の取得で大変だったようですが、後で「全部終わった」とメールが来ました。見積もりの時は納車に3か月かかると言っていましたが、もう少し早く届くようです。私は西多摩から都心に引っ越してくる時に車を手放したので、金輪際新車の購入を検討することはないと思っていましたが、今回図らずもいろいろ口出しすることになり、車種の選定など久しぶりになかなか楽しめました。1月は無理ですが、2月の帰省時に納車されていたらいいなとワクワクしつつ、暖かくなったら一度行ってみたかった奥会津の大内宿に連れて行ってもらいたいと思っています。 

2024年1月4日木曜日

「2023年の年越しと2024年の年明け」

  クリスマスを故郷で過ごしたものの、東京の暖かさに慣れた体には寒さが身に沁み、早々に舞い戻ってきてしまいました。昨年の大晦日は日曜日、「一年を礼拝で終えるのもいいものだな」としみじみ感じながら渋谷へ行きましたが、なんとこの日は礼拝後に信仰50年の祝いの品として聖書をいただきました。事前に希望を聞かれていた通り、「聖書協会共同訳のスタンダード版、大型本」をいただいて本当にうれしく思いました。一つには一番新しい「聖書協会共同訳」をまだ持っていなかったこと、もう一つには視力の低下が進んだため「大型本」は願ってもないものだったからです。

 家に帰ってそおっと包みを解くと、真新しい聖書を手にしたのは本当に何年振りかと、何とも言えない感激が沸き上がりました。同じ聖書でも日々新しく読めるのですが、物理的に真新しい聖書と言うのはやはり格別だと知りました。しばらく前から読書と言えばもうずっとほぼ音声で、本当はもう活字は読めないのですが、わずかずつでもゆっくりでも毎日少しずつ読みたいと強く思いました。とりあえず、旧約は「詩編」を、新約は「マルコによる福音書」を読み始めました。両方ともいつ読んでも新しい発見があり、胸が熱くなる書で非常に惹かれます。

 こうしてとてもよい大晦日から元日を迎え、昼過ぎに街の様子を見に散歩を兼ねて買い物に出かけました。「穏やかな正月でよかった」と思いながら帰宅し、休憩してからパソコンに向かっていた時です。「やっぱり疲れたのかな、なんか眩暈がする」と思ったら、部屋の電灯の紐が揺れています。「あ、地震」と、ラジオをつけると能登半島で震度7という大地震が起きていました。それからはラジオに釘付け、「よりによって元日からこんな災害が・・・」と打ちのめされました。この時期の北陸の寒さを思うと、東北から帰ったばかりの身にはそれが身体の痛みとして感じられました。この日は横になったまま11時ころまで眠れず、ラジオを聞いていました。うとうとして目覚めた時、「あれっ、暖かいな」とまず思い、自分が避難所にいるわけではないことを自覚しました。東日本大震災の時も私は東京にいたので、現地の寒さや辛さの経験がないのに、何故そう思ったのか分かりません。

 1月2日には日本航空と海上保安庁の航空機の衝突という大事故も起き、正月の明るい気持ちは急速にしぼみ、箱根駅伝もどこかうわの空で聞きました。それでも1月3日は、あまり気乗りしなかったものの、今年新たに通うことになる病院の場所の下見に行ってきました。地図音痴の私はこういう手順を省略すると必ず失敗するのです。

 1年の幕開けとしては稀に見る悲惨な出来事が重なりました。今年はどんな年になるのかと暗澹たる気持ちですが、浮かれ気分になる暇がなく、現実に立ち向かう心持ちになりました。様々な困難がきっとあるに違いないと覚悟しつつ、神様に依り頼んで歩むのみです。