2023年11月24日金曜日

「病の制御」

 この一カ月は自分の容量を超えたハード・スケジュールだったので、「来るかな」と思っていたら、やはり症状が出ました。或る朝、起きられなかったのです。薬を飲む関係上、「朝ごはんは食べなければ」と思ったのですが、食欲は全くなし。それ以上に椅子に5分と腰かけていられない状況で、バナナとヨーグルト、ソイジョイをほんの一口だけ食べて、あとは昏々と眠りました。枕元に水筒とみかんを持って来ておいたのは大正解で、寝たままで食べるみかんの美味しかったこと。「何時間化ごとに目覚める度に水分をとりながらまた寝る」を繰り返し、ほぼ24時間睡眠をとりました。

 次の日にかなり良くなっていたのは、今回の症状が風邪やインフルエンザではなく、普段抑え込んでいる持病が疲れのために抑え込めず顔を出したことを示しています。まず全く熱が出なかったのが大きく、ましてや骨粗鬆症剤アクトネル錠という化学物質を体に入れた時の症状とは比べようもなく楽で、ひどさ加減は十分の一ほどで済みました。卵雑炊を作って食べられるようになったら、もう治ったようなものです。ただこの日は、一回の目覚めにつき三時間は起きていられるようになりましたが、まだラジオ体操ができる状態ではありませんでした。直立二足歩行がいかにヒトの身体に負荷を掛ける姿勢であるか、これを手にしたことが人類史上いかに画期的な進歩であったことかを、身をもって体験しました。

 三日目にはほぼ平常に戻り、ラジオ体操もできましたが、そのキツかったこと。寝たきりになると一日3~5%の筋力が低下すると言われていますが、これは大変なものです。日頃の貯筋がいかに大切か思い知らされます。そのため、少しでも筋肉を鍛えようと歩いて買い物に行き、好きなものを買って帰りました。こんな時は可笑しなもので、普段食べている「健康にいいもの」は少しも食べたくなく、「食塩が多いから」とか「マーガリンやショートニングは体によくないから」と避けている食品や何やら添加物がたくさん書いてあるジャンクなものを、構わず買い物かごに放り込んでしまいます。全く食欲がないという状態を経験した身体はどんなものであれ食べたいものを拒むほどやわではないのでしょう。


2023年11月20日月曜日

「老牧師の帰還」

  11月に二週連続で帰省した理由の一つは、かつて東日本大震災により会堂の取り壊しかつ無牧となった福島教会に派遣され、会堂再建を果たして大阪に戻られた牧師先生ご夫妻が訪問されるという話を聞いたからです。先生は数年前に病を得ましたが、このたびどうしても一度福島に行かなければというお気持ちが募られたようで、娘さん二人が休暇を取ってご家族四人で車で大阪からおいでになりました。当日の朝、玄関でご到着を待っていると、先生ご一家はまずお向かいのお宅にご挨拶に行かれました。突然のご訪問ながら、向かいのお宅からは家人の驚きと歓喜の声が通りを隔てて聞こえてきました。とても親しくお付き合いされていたようで、先生ご夫妻らしいことだと改めて思いました。

 礼拝後、先生ご夫妻を囲んで懇談の時を持ちました。先生はかなりお体が弱られており、会堂再建の指揮を執っていた頃のご様子は影を潜めており、これが先生とお話しできる最後の時であろうということは皆わかっていました。先生は書き上げてきたものを静かに読まれましたが、それは生い立ちから今に至るまでの道のりを綴ったものでした。

 ご自宅が教会のすぐそばだったこと、日曜学校に通い、やがて礼拝に出るようになったこと、洗礼を受けたこと、高校の時の牧師だったF先生から「ケンちゃんは牧師になりなさい」と言われたこと、神学校に行き、夏の帰省のたびにF先生と親しく話をし、「ケンちゃんはいつか福島教会の牧師になるのですよ」と言われたこと・・・。

 しかし神学校卒業後の派遣先は関西であり、先生はそこでの宣教・牧会に専心されます。何年か後、F牧師の引退の時期になり、「福島教会に来てほしい」とF牧師から涙ながらに懇請されたのですが、すでに牧会する教会で会堂建築を抱えていたため、先生はこの依頼をお断りするほかなかったのです。しかしそのことがずっと心に引っかかっていたそうです。ちなみに私はF牧師が引退する最後の年のクリスマスに受洗したので、F牧師が洗礼を授けた最後の四人のうちの一人ということになります。

 時は何十年と流れ、先生が引退間近な頃にがんが見つかり、手術は成功して定期的に通院していましたが、一方で先生とは無関係に東日本大震災という災害が日本を襲いました。がんは再発なく五年過ぎれば寛解となります。そしてまさに五年目の診察で「もう来なくていいです」と医師に言われて帰った晩に、先生は或る知り合いの牧師から「福島教会に行ってもらえないか」という電話を受け取ったのでした。すでに75歳近くなり、病気も治って、誰もがまさしくこれから残りの人生を悠々自適に過ごせると思った瞬間のことです。「妻と一晩祈らせてほしい」と答えて、先生ご夫妻は福島行きを決めました。

 その後、多くの教会、多くの信徒、多くの一般の人々から大きな支援を受けて、福島教会は再建されました。この時、コンサートの開催などを含め、中渋谷教会からも多くのお支えをいただいたご縁で、現在私は、東京にいる時にはいつもこちらの礼拝に出させていただいています。また、私の場合、父の逝去がこの時期に当たっており、完成には間に合いませんでしたが、再建されることは決定していたので父は安らかに天に召されました。大雪の日に病床聖餐を授けていただいたことも忘れることができず、この時無牧だったらと思うと、父の葬儀をどうしていたか等、恐ろしくて今でも想像ができません。

  会堂再建が終わってしばらくして、先生ご夫妻は大阪に戻られました。そちらでも福島の状況を聞きたいという要望が多く、お話しするよう様々な場所に呼ばれて、お忙しくされていたようです。最後に先生は、昔、「ケンちゃんはいつか福島教会の牧師になるのですよ」と呪文のように掛けられたF牧師の言葉を思い出し、「神様はこういう形で自分を福島教会に呼んだのだな」と思ったとおっしゃっていました。おそらく、胸のつかえが下りた、そのことを皆に伝えたかったのでしょう。一人の信仰者の姿を知らされ、教会員一同やるせなくも有難い気持ちでいっぱいになりました。


2023年11月17日金曜日

「老老生活」

  先日の町内会のお掃除に、実は住民である兄は参加できず、その理由は、数日前に発熱して具合が悪かったからです。私が帰省した時には、病院でコロナでもインフルエンザでもないと診断されていたのでよかったものの、そこに至るまでの経緯によると、近所のクリニックには『砂の器』の主人公のように、蛇蝎のごとく追い払われたとかなり怒っていました。

 とりあえずそれは収まったのですが、日曜に「今は治ってるけど・・・」と別の体の不調を聞かされ、私は月曜朝一の診療を命じました。最初の病院(前述の拒絶された兄を診察してくれた病院)には該当科がなく、近くのクリニックに回され、CTでは異常なし。しかしもう少し大きな病院でMRIを撮るように言われ、撮ってみたら「これは入院ですね」ということになりました。

 私が帰省している時でよかったなと思ったのは、通院を強く勧めることができたこと、および入院の保証人欄に署名できたことによります。入院していれば安心で、私も自分の通院があったので東京に帰りました。別件で次の日曜に福島教会に行く用事があり、二週続けて帰省することになりました。前日土曜には行っておきたかったのですが、ぐったり疲れて寝込んでしまい、結局日曜の朝一の新幹線でまたの帰省となりました。

 兄の症状は、基本不摂生がたたってことなのと、大きな問題はとりあえず避けられたことは不幸中の幸いでした。最初一人部屋だった兄は、「検査の多い快適なホテルって感じ」などとふざけたことを言っていましたが、「自分が好きな食べ物がことごとく健康によくないものだった」と少しは反省しているようです。ずっと「早く退院したい」と言っており、結局9日間の入院で済みました。その間、私が病院を訪れたのは2回で、最初の時は教会の友人が心配して送迎してくれ、次の時は電車とバスを乗り継いで病院を往復しました。距離的にはそう遠くないのですが、交通機関は駅を基点にしてできているので、結構時間がかかります。地方の交通機関での移動は大変だなと思いました。

 退院の日はお昼頃帰宅とのことだったので、私は朝からスーパーで当面の食料や健康食品を買い込み、お昼の準備をしました。帰宅した兄は、「病院では気を遣って大変だった」と急に態度がデカくなった様子でした。とりあえず昼食をとりながら、私はこまごまと食事や運動の指示を飛ばしました。必要な打ち合わせをして、私は午後の新幹線で自宅に帰りました。翌朝兄から「昨夜は9時間寝た」とのメールがあり、「やっぱり家はいいでしょ」と返信。これに懲りて少しは健康に気を付けて過ごしてもらいたいものです。子供の頃母が、「二人しかいない兄妹なのだから助け合って生きていきなさい」と言っていたのを思い出します。


2023年11月11日土曜日

「故郷の町内会」

  11月の第一日曜日は伝統的に逝去者記念礼拝があり、私は毎年これに合わせて帰省するようにしています。今年はちょうど町内会の秋の大掃除の日でもあり、参加することができました。会長さんや主だった人たちは大変だなと思うのですが、すでにあちこちの空き地や側溝沿いの目立つ雑草は刈ってあり、私たちはそれを袋に詰めて縛ったり、刈り残した草を抜いたりするだけでよいようになっていました。それでもその量たるや90リットル袋に何十もできるほどでした。

 今回少し離れたところの側溝付近を手伝っていたら、名前を呼ばれました。聞けば昔お隣に住んでいた方とのことで、「あの頃、ほんとにお世話になったの」とおっしゃいます。こちらもお名前をお聞きし、「こちらこそ本当にお世話になりました」とご挨拶。お隣同士で母と何かとお付き合いのあった方なのだなとほっこりしました。あとで思い出したのですが、昔兄が転んだか何かで額から血が噴き出した時、母が額を手で押さえながら、「奥さ~ん、タクシー呼んで」と頼んだことがあったと聞いた記憶があるような・・・。それはこの方だったのでしょうか。

 それから家の近くの児童公園に移り、その中の草むしりと石ころ取りをししていた時、小学校に一緒に通っていた友達の妹さんと話をする機会がありました。その頃、その方はまだ赤ちゃんだったのですが、とても立派になられて地域に根を張っていらっしゃるのがよく分かりました。この公園のブランコにどれほど乗って遊んだことか、夕方暗くなるまで缶蹴りや「だるまさんがころんだ」をして遊んだことを思い出しました。あの頃はほんとに子供が多かったな。

 先ほどの方の娘さんが小学生の頃、ちょうどりくが家に来ました。りくと遊びにその子はよくやって来ました。お友達を連れてくることもあり、りくは誰とでも仲良くできる気のいい犬でしたが、やはり見知らぬ子供を相手にするのはいくらか緊張するようでした。兄によれば、「あの子はりくがなついていた唯一の子」だそうで、それもそのはず、父はその子が来た時にりくのおやつを手渡して、その子からあげてもらっていたのです。小さかったあの子も成長して今では離れたところに住んでいるとのことですが、時々帰ってきた時に、「りくちゃんもいないし、おじちゃんもいないし」と、こぼしているそうです。父やりくとの思い出が心に残っていてくれるのは、寂しい中にもうれしいものだなと、しんみりした気分になりました。いろいろな人との繋がりで人は生きているものだなと感じた秋の大掃除でした。


2023年11月6日月曜日

「バスを仕切る運転手さん」

 バスは公共交通機関、個性を発揮する場はなさそうに思えますが、これがそうでもありません。先日、10月末の日曜の渋谷は言わずと知れたハロウィンの厳戒態勢、私は委員会の冊子作りで教会を出たのが午後5時くらいになりました。いつも乗るバス停は既に警察車両で封鎖されており、「えっ、どこから乗ればいいの?」と掲示を見ると、どうやら宮下公園まで行かなければならないらしい。池袋方面から来るバスは駅の手前の宮下公園でUターンする形で戻るよう、一時的に変更されているようでした。

 宮下公園まで歩いて行くと折しも向こうから来るバスが左折していってしまい、バス停で次に来たのは早大正門行き。乗らずに待っていると、運転手さんが「池袋行き待ってるの。たぶん反対側の宮下公園バス停に泊っているから乗りなさい。保証はできないけど、〇分発だから急げば間に合うはず」とのこと。たまたま池袋行きを待っていたもう一人の方と乗り込み、どきどきしていると、バスは左折して反対側の宮下公園目指して走り、「あ、信号変わったからもう大丈夫。ほら、前のバスだよ」と言って降ろしてくれました。おかげで一つ前のバスに乗れました。「ありがとうございます。助かりました」とお礼を言って降りたことは言うまでもありません。考えてみると、また十数分で次の池袋行きは来るのですから、早大行きのバスの運転手さんはバス停をそのまま通り過ぎることもできたはずです。恐らくその日が特別なルートの日になったので、気を利かせてサービスしてくれたのでしょう。有難いことです。

 もう一つ、最近渋谷―池袋館で体験したことですが、どこのバス停だったか、高齢の男性二人が乗り込んでくるなり口喧嘩を始めました。前からもめていたのか、乗る時に出合い頭に揉めたのか経緯は分かりませんが、「何を~」、「何だと~」と結構激しく言い合っており、周りの人は遠巻きに見ています。バスは発車できず、運転手さんが「席に座ってください」と言っていました。こんなことは長年都バスに乗っていますが初めてです。間をおいて、運転手さんは「席に座ってください」を重々しく繰り返しましたが言い合いは止まず、「いつ動くのかなあ」と思い始めた頃に、運転手さんから「降りてください」と鶴の一声。辺りがシーンとなったところへ再び「降りてください」。私は二人が逆切れしないか心配でしたが、何と二人は降りていくではありませんか。バス内は運転手さんのフィールド、ちゃんと指示に従ったのはエライ。また、関係ない人に迷惑かけちゃいけないという、暗黙のルールも効いていたのかも。この辺が日本なんだなと思いつつ、帰路につきました。

 全国で運転手不足が報じられています。本当に大変なお仕事だと思います。運転だけに集中できればまだしも、料金の確認や乗客の安全管理など、心を砕くことが多すぎます。しかし、バスによって本当に助けられ、感謝している人が大勢います。階段も上らず地下にも潜らず路面からすぐ乗れるバスは本当に便利で、これが無くなったらと思うと私には死活問題と言っていいほどです。私はバスの前の方に乗っていた時、乗り込もうとして荷物もろとも転んでしまった老婦人に「大丈夫ですか」と手を出して助け起こしたことがありますが、そういうことは日常的に見ることです。乗客同士もごく普通に助け合うことで、少しでも運転手さんの負担を減らすことになればと思います。今一番考え中なのは、運転手さんに危害が及びそうになった時にどうしたらいいかということです。バスジャックじゃないけれど、運転手さんあってこその公共交通なのですから、この部分の安全確保が何より大事です。

 

2023年11月3日金曜日

返信できずごめんなさい m(__)m 

  大変なことを発見してしまいました。加齢や視力のことがあって、「いつまでブルログを書けるかな~」と思い、何年かぶりで設定を調べていたら、なんと返信していないコメントが見つかりました。一番古いのは2019年2月のもので、コメントが無くなる2021年まで断続的に続いていました。これはもう時間が空きすぎていますので、今から返信するというより、とにかく伏してお詫びしなければなりません。本当にごめんなさい! m(__)m  m(__)m  m(__)m  m(__)m  m(__)m

 根本的にブログでのやり取りの仕組みがわかっていないことが原因で、具体的には、普段ブログ使用に必須のメールアドレスとは違うメールアドレスを使っているために、ここまで気づかずに来てしまいました。両方チェックするような力量がなく、要するにずぼらな性格なのです。海外で読んでくださっている方もいるようで、皆様に対し本当に申し訳ないことをしてしまいました。

 猛省して深くお詫びいたしますとともに、他のブロガーの方々の信頼を貶めてはならないと考え、コメント欄を削除することにしました。そもそも私には無理な設定だったのです。いろいろなことが億劫になっていくこの頃、日記帳代わりの心覚えとして書くだけなら気持ちの整理にもなり、あとで見返して楽しむこともできるので、ブログ自体はもう少しの間のんびり続けようと思っています。

 コメントをくださった方、誠に申し訳ありませんでした。なにとぞご容赦ください。 m(__)m  m(__)m  m(__)m  m(__)m  m(__)m