2023年4月10日月曜日

「瞳を閉じる山椒魚」

  世界の学者の論文引用数を一つの指標とするなら、日本のアカデミアの知的威信が低下の一途であることは誰の目にも明らかです。論理的思考には母語の精密な読解能力が不可欠ですが、、PASAの成績を意識してか、大学の共通テストにおける国語の分野でも、様々な資料からのデータ読み取り的な試験に移行しつつあると聞きました。由々しきことです。小手先の改革はなお一層の読解力低下を招くことでしょう。

 中高生の頃、現代文の授業で昔の小説を何時間もかけて読んでいた時は、退屈で「こんなの意味あるの」と思っていたものですが、授業でもなければ一生読まなかったであろう作品は確かにありましたし、何しろ明治期以降の文人たちが西洋文明に抗い必死の思いで結実させた精華が教科書にはふんだんに盛り込まれていました。漱石、鴎外は言うに及ばず、芥川龍之介、太宰治、中島敦、梶井基次郎、井伏鱒二、詩人なら石川啄木、三好達治らを教科書で読むことには大いに意味があったのです。


 「山椒魚は悲しんだ」に始まる井伏鱒二の短編『山椒魚』は、初めて読んだ当時は随分へんてこな話だと思いました。かいつまんで話の筋を追うと、

1.二年間を自らの成長に任せ、ふと気づけば頭が大きくなり過ぎて岩屋から出られなくなった山椒魚は、動き回れる余地の無い状況に狼狽しながらも

2.穴の中から外のめだか集団をを「不自由な奴らだ」と小馬鹿にしたり、

3.産卵のため岩屋に舞い込んだ小海老の姿を、「くったく」、「物思い」と評して馬鹿にしつつも、岩屋から出ようと決意して頭を穴に突っ込みますが、詰まって抜くのも大変、小海老に笑われてしまいます。

4.それから、涙ながらに神様に泣き言を言い、「気が狂いそうだ」と嘆きます。

5.岩屋の外でミズスマシやカエルが自由に動き回っている姿に、悲しくなって目をそらす山椒魚は、もはや自分には目を開閉する自由しかなく、目を閉じれば際限もない深淵が広がっていることを思い知ります。

6.「ああ、寒いほど一人ぼっちだ」とすすり泣く山椒魚は、悲嘆が募って次第によくない性質を帯びてきます。即ち、岩屋に紛れ込んだカエルの出口を頭でふさいで閉じ込めてしまうのです。

7.山椒魚と天井のくぼみにいるカエルは互いに自分の弱みを隠して、「お前は莫迦だ」と相手を蔑む無意味な言葉の応酬をしながらひと夏過ごします。

8.翌年も口論は続きますが、さらに一年たつとお互いに黙り込んで、嘆息を相手に気づかれないように注意しています。

9.ついにカエルが嘆息を漏らすと、山椒魚は友情を瞳に込めてカエルと向き合おうとしますが、カエルは空腹で死にかけています。

10.最後の会話の場面はこうです。

「それではもう駄目なようか」

「もう駄目なようだ」

「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか」

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」


 教科書で読んだ文はそこで唐突に終わる感じでした。後年井伏鱒二は最後の一文を削除して別な文に差し替えているようですが、それはそれとして、やはりこのままでも一つの作品であることに変わりはなく、作家にとっては晩年まで何度も手を入れた思い入れの深い作品だったことは間違いないでしょう。

 私にとっては時折挿入される地の文(作家の視点からの言葉か?)がとても印象的でした。例えば、冒頭で、「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と山椒魚がうそぶく場面では、直後に「しかし彼に、何一つとしてうまい考えがある道理はなかったのである」という身も蓋もない文が続きます。また、山椒魚が泣きながら「気が狂いそうです」と神に嘆く場面に続く文、「諸君はこの発狂した山椒魚を嘲笑してはいけない」は、山椒魚をまるで客観視して冷やかしています。自分を無価値なものと感じ、もはや外界を見たくない山椒魚が目を閉じる場面では、「どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい」と、今度は山椒魚を憐れむかのような陰の声です。 

 山椒魚は恐らく頭でっかちで頑固な人間の象徴であり、この時代の知識人の姿の一面を揶揄しているのでしょう。或いは狭い文人の世界の居心地の悪さをあてこすっているのかも知れず、一方で社会の相当数の人間に当てはまる話だとも言えるでしょう。また、今の日本の姿そのものを言い当てていると考えると、非常に汎用性のある話であることに気づきます。現在の目で読み返してみてふと、「これってあのこと?」と思い当たるのは、山椒魚=日本銀行の可能性です。この話は日本の行き詰った金融システムの卓抜な比喩ではないでしょうか。

 膨らみ過ぎた国債はにっちもさっちも身動きできないところまで来ており、岩屋の水は淀んで出口は見当たりません。岩屋の外にいた時のカエルは水面から水底へ、水底から水面へと自由に上下に動いていたのですから、これは本来あるべき金利や株式の動向を指すのでしょう。しかしかつてはともかく、異次元の金融緩和でひととき生き延びたのも束の間、閉じ込められてもはや一蓮托生、岩屋上部の凹みに身を置いて動けなくなっています。なるほど「今でもべつにお前のことを怒ってはいない」のも当然のことだったのです。

 その直前に山椒魚の口を突く、「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか」はいつ読んでも、歯切れの悪い堂々巡りの混乱ぶりを示す見事な表現です。さすが、文豪の筆に遺漏はありません。目を開けて岩屋の穴から外を見るのも地獄なら、瞳を閉じで闇の深淵に目を凝らすのも奈落への道。山椒魚も悲しかろうが、岩屋の中の生物は皆悲しいのです。