2023年4月25日火曜日

「若い方を想う」

  元首相が選挙応援中に暗殺されて一年もたたずに、またしても首相が狙われるという事件が起きました。この時も帰省中でテレビの映像を見ましたが、たまたま被害に遭わなかっただけで、非常に危うい状況だったと分かり、愕然としました。爆発物が首相の足元近くに落ちたというのは、致命的にまずいとしか言いようがなく、セキュリティは一体どうなっているのかと不安になります。

 恐らく皆の注意を引いたのは、容疑者のすぐ後ろで彼を捉えた赤いシャツの男性でしょう。突発的な出来事に即応して反射的に動ける人は本当にすごい。後で漁業関係者と分かり納得、瞬時の判断の遅れが命取りとなる、海の男だったのです。

 今回の事件を先の事件の模倣犯と見なしたい向きがあるようですが、どうなのでしょう。確かに二人とも、効率主義が浸透した時代に生まれ育ったせいか、トップを狙えば世の中が注目すると考えているようではありますが、今回の容疑者は二十代前半とかなり若く、現在の選挙制度が民主主義の弊害となっているとして裁判を起こしていたとのこと、相当気合いの入った、毛色が違う方という気がします。

 確かなのは、どちらも将来への希望が見えない時代を今後も相当長く生きなければならないということです。ひたすらおとなしく、ごく自分の周囲の事のみに関心を向けている若者が多い中、二人の若者が時をおかずして大それた犯罪を起こした背景を考えると、若者の状況が一つの段階を越え、別の次元に入った可能性も考えなければならないと思います。

 「浦河べてるの家」の向谷地生良さんが本の中で、「私が親として子育てをしながら、我が子に言い聞かせてきた事がある。それは、『もし今の時代を子供として生きなければならないとしたら、生きていく自信はない』ということだ」と書いていました。私も全く同感です。親が生きてきた時代とは別物の過酷な世界が待っているのは間違いなく、これから目指す必須の事として、人が自分の頭で考え決断して、失敗してもまた起き上がる強固な精神を持つこと、また人生の分岐点とも言えるような肝心なところで、最適な人とつながれる社会性を身につけること以外ないように思います。日常的に子供をめぐる親の事件を聞く時、まるで鬼のように言われている場合でも、「この方、極限まで頑張って、でもどうにもならず、ポキッと折れちゃったんだろうな」と、やるせない気持ちになります。若い方がこの先の長い未来を見通して、毎日同じ繰り返しのつまらない生活やパッとしない自分の人生に何の意味があるのかと、嫌気がさすこともあろうと思います。でも早まらないでほしい。長く生きてみないと分からないことは確実にあり、その道筋を愛おしく思う日がきっと来るはずです。大前提は「死なないこと」、「殺さないこと」です。若い方々、どうぞ何としても生き抜いてください。


2023年4月18日火曜日

「軽量礼賛」

  歳をとって変わったことの一つに、今まで普通に持っていたものを重いと感じるようになったことがあります。昔愛用していた革の鞄などは重くてもう使えない。機能的にはまだ使えるので残念ですが、私にとっての役目は終えたというべきでしょう。母が以前祖父の家での出来事として、「お煎餅割って」と言う言葉に心の中で「お父さん、ずいぶん面倒くさがりになったな」と思ったそうですが、「自分も年老いてその意味が分かった」という話をしていたのを思い出します。力の衰えは如何ともし難いのです。

 私の場合、最初に気づいたのは携帯用日傘を買い替えた時でした。「軽量」とあったのを選んだら本当に軽かったこと。骨組みはしっかりしていて強風でも差せるので、以来愛用しています。今年初めに自転車を購入する時も、車体を少し持ち上げて自転車ラックに入れる必要から、できるだけ軽いものにしました。

 自転車用ヘルメットの話題を最近よく聞きます。通販サイトを見ると立派なものがたくさん出ているものの、重そうだし、これを商機と見なしてるのか非常に高額なものが多いようです。前回私の選択として書いた、ミドリ安全のインナーキャップのヘルメットは何とたったの60gでとにかく軽い! 帽子の下に入れられて普段と変わらずに外出できる優れものです。送料込みで760円という価格だったので、帰省先用にも注文しました。

 もう一つ最近買い替えたものは、パソコン用のヘッドホンです。長年使ったものは完全に耳を覆うタイプのもので、周囲の音が聞こえないので集中できるのですが、この場合も買い替えに当たってのキーワードは「軽量」です。ヘアバンドみたいに頭にちょっと載せるだけの、一見おもちゃみたいな本体で、コードは5mのものを選びました。パソコン上の文字データを音声で読ませながら家事をするにはこれくらいの長さが必要です。頭への負担を感じることなく、していることを忘れるほどです。これもコードを除く本体部分はたったの60g、「そういえば最近ヘッドホンをしなくなっていたのは、やはり重かったからだな」と納得しました。本当に身体は正直です。

 これからもいろいろな軽量品に乗り換えながら、生活していくことになるだろうと思います。技術は進んでいきますし、老人は爆発的に増えていくのですから、軽量化は必然的流れでしょう。もちろん日頃から貯筋は心がけなければなりませんが、やはり筋力低下のお助け用に、そのうち「お煎餅を割ってくれる」ロボットも開発されることでしょう。


2023年4月13日木曜日

「新年度…ささやかな訪れ」

  新年度の緊張や気疲れ、また華やぎというものと無縁に暮らしている私ですが、それでもこの時期は何だかそわそわします。私が真っ先にしなければならないのは難病認定の更新です。先日、病院の臨床調査票が出来上がったので、区役所に行って申請書を提出してきました。毎年のことですが、いつ行っても区役所の方は親切で、今回の担当は三十代くらいの女性でした。書類の抜けなどをすばやく見つけて漏れが無いようにしてくれ、理解不足の私に「医療費管理表」のコピーなどの必要性をいろいろ説明しながら、必要分を実費で用意してくれました。今回は保険証を忘れるという、今までしたことの無い失態を演じ、帰宅後すぐ郵送するための封筒もいただきました。本当にお世話になり、ありがたい限りです。申請が通るかどうかまだわかりませんが、取り敢えず手続きを終えてホッとしました。

 他に新年度といえば、都バスの時刻表チェックがあります。新年度に限らず、1月とか8月とか時刻表が変わる時はあるのですが、4月は変更されることが多いので、いつも使う路線は要チェックです。実は忘れていてバスを利用した時、「なんか変だ。あ、っ時刻表の改定か」と気づいたというだけのことですが・・・。私はスマホを使わないので、時刻表はA5用紙に印刷していつも携帯しています。こうしておくと際どい乗り継ぎも、時計と時刻表を見比べながら簡単にできます。体調的になかなか予定が立てられないものの、いろいろな路線の時刻表を見ているうち、気分と天気のいい日にふらりとバス旅に出られたらいいなと思いました。

 もう一つ今年度変わったことは、自転車利用時のヘルメット着用が努力義務になったことでしょうか。もともと13歳未満の子供のヘルメット着用は親の義務となっていましたが、それが全年齢者対象に努力義務となったのです。思えばこれは半世紀前から推奨されていたことで、中学の通学時に議論されていた記憶があります。当時の中学生にとって、「ヘルメット→工事現場→ダサい」という連想しかなく、これを被っている人は誰もいませんでした。見渡す限りではまだ大人のヘルメット着用者は、かっこいいスポーツ用のサイクリスト以外非常に少なく、私も「また面倒なことを・・・」と、最初する気は全くありませんでした。ただ念のため通販サイトを見ていたところ、帽子の下に隠れるサイズのインナーキャップ・ヘルメットなるものを発見し、「これならいいかも」と購入。試してみたら、外出時は必ずかぶる帽子の下にピッタリで、それなりに頭も守れるし、軽くてとても気に入りました。以前は押さえていないと風で帽子が飛ばされそうになることがありましたが、すっぽり嵌まっているためかそれが全くない。夏場の暑さにはどうかわかりませんが、今のところただの歩行中にも被ろうかと思っているくらいです。上から落下物があるとか、歩道を歩いていても危険なことが増えているということまで心配するのは馬鹿げているかもしれませんが、安全という視点をふいに与えられて目が覚めた気がしています。現に二段式駐輪場で上の段に頭をぶつけた時も痛くなかったし・・・。これがちゃんとしたヘルメットとして認められるかどうか私にはわかりません。いずれにしてもお巡りさんに呼び止められたら、頭をコンコン叩いて「努力はしてます」と言うつもりです。


2023年4月10日月曜日

「瞳を閉じる山椒魚」

  世界の学者の論文引用数を一つの指標とするなら、日本のアカデミアの知的威信が低下の一途であることは誰の目にも明らかです。論理的思考には母語の精密な読解能力が不可欠ですが、、PASAの成績を意識してか、大学の共通テストにおける国語の分野でも、様々な資料からのデータ読み取り的な試験に移行しつつあると聞きました。由々しきことです。小手先の改革はなお一層の読解力低下を招くことでしょう。

 中高生の頃、現代文の授業で昔の小説を何時間もかけて読んでいた時は、退屈で「こんなの意味あるの」と思っていたものですが、授業でもなければ一生読まなかったであろう作品は確かにありましたし、何しろ明治期以降の文人たちが西洋文明に抗い必死の思いで結実させた精華が教科書にはふんだんに盛り込まれていました。漱石、鴎外は言うに及ばず、芥川龍之介、太宰治、中島敦、梶井基次郎、井伏鱒二、詩人なら石川啄木、三好達治らを教科書で読むことには大いに意味があったのです。


 「山椒魚は悲しんだ」に始まる井伏鱒二の短編『山椒魚』は、初めて読んだ当時は随分へんてこな話だと思いました。かいつまんで話の筋を追うと、

1.二年間を自らの成長に任せ、ふと気づけば頭が大きくなり過ぎて岩屋から出られなくなった山椒魚は、動き回れる余地の無い状況に狼狽しながらも

2.穴の中から外のめだか集団をを「不自由な奴らだ」と小馬鹿にしたり、

3.産卵のため岩屋に舞い込んだ小海老の姿を、「くったく」、「物思い」と評して馬鹿にしつつも、岩屋から出ようと決意して頭を穴に突っ込みますが、詰まって抜くのも大変、小海老に笑われてしまいます。

4.それから、涙ながらに神様に泣き言を言い、「気が狂いそうだ」と嘆きます。

5.岩屋の外でミズスマシやカエルが自由に動き回っている姿に、悲しくなって目をそらす山椒魚は、もはや自分には目を開閉する自由しかなく、目を閉じれば際限もない深淵が広がっていることを思い知ります。

6.「ああ、寒いほど一人ぼっちだ」とすすり泣く山椒魚は、悲嘆が募って次第によくない性質を帯びてきます。即ち、岩屋に紛れ込んだカエルの出口を頭でふさいで閉じ込めてしまうのです。

7.山椒魚と天井のくぼみにいるカエルは互いに自分の弱みを隠して、「お前は莫迦だ」と相手を蔑む無意味な言葉の応酬をしながらひと夏過ごします。

8.翌年も口論は続きますが、さらに一年たつとお互いに黙り込んで、嘆息を相手に気づかれないように注意しています。

9.ついにカエルが嘆息を漏らすと、山椒魚は友情を瞳に込めてカエルと向き合おうとしますが、カエルは空腹で死にかけています。

10.最後の会話の場面はこうです。

「それではもう駄目なようか」

「もう駄目なようだ」

「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか」

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」


 教科書で読んだ文はそこで唐突に終わる感じでした。後年井伏鱒二は最後の一文を削除して別な文に差し替えているようですが、それはそれとして、やはりこのままでも一つの作品であることに変わりはなく、作家にとっては晩年まで何度も手を入れた思い入れの深い作品だったことは間違いないでしょう。

 私にとっては時折挿入される地の文(作家の視点からの言葉か?)がとても印象的でした。例えば、冒頭で、「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と山椒魚がうそぶく場面では、直後に「しかし彼に、何一つとしてうまい考えがある道理はなかったのである」という身も蓋もない文が続きます。また、山椒魚が泣きながら「気が狂いそうです」と神に嘆く場面に続く文、「諸君はこの発狂した山椒魚を嘲笑してはいけない」は、山椒魚をまるで客観視して冷やかしています。自分を無価値なものと感じ、もはや外界を見たくない山椒魚が目を閉じる場面では、「どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい」と、今度は山椒魚を憐れむかのような陰の声です。 

 山椒魚は恐らく頭でっかちで頑固な人間の象徴であり、この時代の知識人の姿の一面を揶揄しているのでしょう。或いは狭い文人の世界の居心地の悪さをあてこすっているのかも知れず、一方で社会の相当数の人間に当てはまる話だとも言えるでしょう。また、今の日本の姿そのものを言い当てていると考えると、非常に汎用性のある話であることに気づきます。現在の目で読み返してみてふと、「これってあのこと?」と思い当たるのは、山椒魚=日本銀行の可能性です。この話は日本の行き詰った金融システムの卓抜な比喩ではないでしょうか。

 膨らみ過ぎた国債はにっちもさっちも身動きできないところまで来ており、岩屋の水は淀んで出口は見当たりません。岩屋の外にいた時のカエルは水面から水底へ、水底から水面へと自由に上下に動いていたのですから、これは本来あるべき金利や株式の動向を指すのでしょう。しかしかつてはともかく、異次元の金融緩和でひととき生き延びたのも束の間、閉じ込められてもはや一蓮托生、岩屋上部の凹みに身を置いて動けなくなっています。なるほど「今でもべつにお前のことを怒ってはいない」のも当然のことだったのです。

 その直前に山椒魚の口を突く、「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか」はいつ読んでも、歯切れの悪い堂々巡りの混乱ぶりを示す見事な表現です。さすが、文豪の筆に遺漏はありません。目を開けて岩屋の穴から外を見るのも地獄なら、瞳を閉じで闇の深淵に目を凝らすのも奈落への道。山椒魚も悲しかろうが、岩屋の中の生物は皆悲しいのです。


2023年4月3日月曜日

「懐かしの『コロンボ』」

  ミステリの中に「倒叙ミステリ」という名のジャンルがあることを知ったのは割と最近のことです。私にとってこの手法の走りは言わずと知れた『コロンボ』シリーズです。いきなり犯人が犯行に及ぶ場面から始まるのに最初びっくりしたものですが、何作かドラマを見ているうち、冒頭で犯行が明かされた後、コロンボがじわじわと犯人を追い詰めていく面白さにすっかりハマりました。たしか土曜8時の番組で中学の頃始まったと記憶しています。その頃のゴールデンタイムの世の趨勢に違わず、うちでも家族がテレビの前に勢ぞろいで放映が始まるのを待ち構えていました。お風呂か何かで少しでも遅れると、犯行の重要な部分を見逃してしまい、説明なしのほぼ無音の映像が続く中、「今どうなってるの?」、「誰がやったの?」などと聞こうものなら、「見てるんだから静かにして」と家族の顰蹙を買うこと請け合いでした。大人も子供も集中して見るこのような番組が今あるのかどうか・・・。

 話の筋やトリックは現在の日本のミステリの基準からすると単純すぎるほどシンプルで、時にお間抜けにも思えますが、犯人の視点が明かされているので、視聴者はその後の展開を予想しながら引き込まれていきます。危険を察知していない目撃者や共犯者に「あなた逃げなきゃダメ!」とか「残念だけどこの人も長くないな」とじりじりしたり、コロンボの言葉に誘導されて証拠隠滅や偽装工作を図る犯人に「この人もこれで墓穴を掘るんだな」と憐れんだりしながら、手に汗握りながら登場人物の一挙手一投足を凝視し続けることになるのです。

 シリーズが続くうち、中にはすっきりしない犯罪模様や主筋を離れた凝り過ぎの周辺話に、「なんか前の方がよかったな」と思う作品もありましたが、このあたりは好みの分かれるところでしょう。最後に有無を言わせぬ証拠が犯人に突き付けられ、一瞬の沈黙の後エンドロールに入る終わり方が私は一番好きでした。今イチよく理解できない結末のドラマの時は、「これで終わり?」、「え、どういうこと?」などと、五里霧中の頭でぼんくら家族談義になったりもしました。犯人を罠にかけて自白を引き出す手法が結構よくありましたが、あれは司法取引のあるアメリカ特有のものなのでしょうか。今なら「この程度の状況証拠と自白だけでは日本じゃ公判が維持できないだろう」と言えますが、子供の目には「警察がそんなことしていいの?」と、ちょっと恐い気がしました。この典型は『ロンドンの傘』で、最後の結末は忘れられない場面として脳裏に刻まれています。

 当時、舞台となるアメリカの豪邸や最新のテクノロジーには驚嘆させられましたが、これがアメリカならではの犯罪を構成していたのは間違いありません。音に反応して開く扉が犯行時の銃声を証明する話のインパクトは強烈で、ギーッと扉が開いて人形に光が差し込む場面は今でも思い出すと背筋がゾクッとするほどです。また、どう見ても日本の水準的には無駄にデカいアメ車には驚きを通り越して呆れるばかりで、古いポンコツ車として登場するコロンボの車さえ、「こんなに立派そうに見えても!?」と、途方もない米国の富の力に眩暈を感じたものでした。全世界に配信された『コロンボ』シリーズは、あの時代、アメリカの威信を確固たるものとすることに貢献したはずです。少なくとも日本では子供から大人まで、この風体の冴えない刑事の、いわく言い難い魅力に当てられた感じで、素直に「とても敵わないなあ」と思えました。

 或るサイトによると、『コロンボ』シリーズの傑作として必ず挙げられる作品の一つは『別れのワイン』とのこと。これは確かに、犯人の自白を引き出す最終場面が秀逸でしたが、犯行は単純なのに話がやや冗長に感じられました。何より秘書が怖すぎて私の好みに合いませんでしたが、コロンボと犯人の大人の会話のやり取りを楽しめる人には最高の出来栄えかも知れません。それに対してやはり傑作とされる『魔術師の幻想』は、最初から最後まで息つく間もなく引き込まれる構成であっぱれでした。証拠も完全、犯人の出自に仰天し、最後の奇術対決の見せ場も見事な落ちでした。

 他にもあれこれ思い出すと、壁に塗り込められた女のポケベルが鳴る幕切れの話や、サブリミナル効果を使った犯人のあぶり出し、レコードの針でマジックペンを弾き飛ばすトリック、書庫に閉じ込められて死んだ作家のダイイング・メッセージなど、もう一度全話見てみたい気持ちになりました。なるほど、何度見ても楽しめるのが、犯人捜しを主眼としない「倒叙ミステリ」の強みなのですね。これは結構悪魔的手法かも知れません。