家族形態と社会や文化について考えています。出発点は、歴史家・文化人類学者・人口学者で世界の動きを人口学という視点から研究し、ソ連崩壊などの予測を的中させたエマニュエル・トッド氏の思考に触れたことです。トッドは家族類型を「親子関係」、「兄弟姉妹関係」、「内婚(いとこ婚を許容する)制か外婚制か」等の観点から分析し、4つの類型を示しています。それは①絶対核家族、②平等主義核家族、③直系家族、④共同体家族であり、このような家族形態の伝播は同心円的に広がるため、世界の家族類型の分布を見ると、①が最も古い形態で、以下番号順に新しい形態だと考えられるとのことです。
ちなみに、
①絶対核家族は英米に見られ、遺産相続は親の意志による遺言で決まる、
②平等主義核家族はフランス北部やパリ盆地、スペイン、イタリア北西部などで見られ、相続に関しては子供たちの間で平等に男女差別なく分け合う、
③直系家族はドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェー、日本、韓国などに見られ、男子(通常は長子、時には末子)だけが結婚後も家に住み全てを相続する、親子関係は権威主義的で兄弟間は不平等、
④共同体家族は男の子供が全員、結婚後も親の家に住み続け、相続は平等だが親子関係は権威主義的というものですが、このうち「いとこ婚」を認めないのは、中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部トスカーナ地方など、
「いとこ婚」を認めるのは、アラブ地域、トルコ、イランなどです。
この論の学術的正しさについては私の手に余る問題で何も言えませんが、非常に興味深い説です。とりわけ私が一番納得したのは、「絶対核家族が最も原始的な家族形態」だとされている点です。なんとなく戦前の大家族的形態が頭にあり、核家族は新しい家族形態のように思っていましたが、一方で大家族的在り方の継承に疑問もあったのです。
太宰治の『桜桃』にある「子供より親が大事と思いたい」という言葉は、やけ酒を煽りながら親である自分をかばう場面で発されていますが、「本当はそう思えない」という自暴自棄の感情が根底にあります。この場合の「親」は自分の親を指すのではなく、自分を指しているということからも分かるように、本人にとっての家族とは自分が家長として形成した家族のことです。
また、吉田松陰の辞世の句「親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」は親の身になってその心痛を慮っている句です。吉田松陰には子がいませんでしたので、思いを馳せる相手は親だけでした。親が築いた家庭においては、親の子を思う気持ちが第一義的なものであって、子である自分が親を思う気持ちはそれにかなわないと言っているのです。
数十年前の日本ではまだ三世代同居もよくあり、このくらいの大家族なら一定の家族意識を共有することができたでしょう。しかし、直系家族による家系の継承が三代、四代と続くうち、本家、分家等のつながりも薄れ、そのうち「一族郎党」とか「遠い親戚」という意識はあるものの、実生活においてはほぼ他人という間柄になっていくのは当然のことです。
『ちびまる子ちゃん』という番組における家族は、お姉ちゃんやまる子という永遠の小学生が主人公ですから、彼女たちが家を巣立っていったり、祖父母が亡くなったり、両親が年老いて子供が介護するなどということはありません。『ちびまる子ちゃん』は家族構成が全く変わらない「永遠不滅の家族」を描いたが故に長寿番組になったのです。これは即ち「家族とは一代限りのものである」ことを示していると言えるのではないでしょうか。家族の寿命はその最後の成員がこの世を去った時点で尽きるのです。
「さくら家」は1970年代の家族ですから、ヒロシがいかに頼りなさそうでも両親と同居する一家の主であり、長子相続による直系家族形態の名残と見られます。昔なら「お姉ちゃん」は(磯野家のように)婿をとって両親と同居したはずで、何らかの理由で「お姉ちゃん」が他家へ嫁いだ場合はその役割は「まる子」が担ったことでしょう。
しかし、これが現在だったら、子供が二人とも家を出ている可能性は十分あるでしょう。日本は今のところ絶対核家族の家族形態ではありませんが、世帯を別にした子供家族との付き合いは地理的・心理的距離、往来の頻度等によって、親近感が変わるでしょう。一般的に言って、息子が子供を連れて実家に行くより、娘が子供を連れて実家に行くことの方が断然多いように思えます。つまり、実家と娘家族の結びつきは家を出た後も比較的強いのです。
どうということもない話のようですが、もし重要な問題に発展するとしたら、それは血統や家の存続が絶対的な命題となっている場合です。王族や皇室はもちろんですが、家父長制下の家族もそうでした。家の存続のための養子縁組の話は明治期以降の文学にしばしば登場しますし、それどころか社会の根底であちこちに大きく作用しているのが分かります。社会の流動化を妨げ、家督を相続する者としない者双方の苦悩のもととなり、とにかく家の存続のために膨大なエネルギーが傾けられているのです。家督を相続する者が出生によってきめられているのは、争いが起きにくい点はよいのですが、家督相続者が相続の代償として人生の他の選択肢を奪われたり、家督相続者以外の子供の生活の問題が生じます。今でこそ財産分与は平等になっていますが、家父長制の廃止後年月を経たにもかかわらず、いまだにその影響は根強いものがあります。一番根強い意識は「男性優位」の建前であり、社会の実情があまり変わらない原因はここにあると思います。この意識の改革が喫緊の課題になるのは、これが非婚化、ひいては少子化に直結するからです。
家族形態に関するトッド氏の論を聞いた時、何かとても重要な話を聞いた気がして、考えの向くまま書いてきました。家族形態の在り方は最終的に人口動態に関わるということも朧気ながら分かりましたが、それはそれとして、さらに「一般人ではない人物」の家族形態の継承についてもう少し考えてみます。