通院時に二つの特徴的な出来事がありました。
いつも行く病院は診察室と待合室は壁で仕切られていますが、中の個別のブースは看護婦や事務員の行き来のためつながっているという造りになっています。そのため比較的大きな声で話しているとその声が部分的に聞こえることがあります。
「・・・僕は病院での血圧180というのはままあることだと思ってます」(30代くらいかと思われる医師の声)
「そうなんですよ、病院だと緊張しちゃってね」(70代くらいの男性患者の声)
・・・・・ボソボソと会話が続く。
「ですからね、前のあなたの主治医は、あなたがそういうふうに体の不調を訴えると、それに対応する薬を出してきたのでこんなに増えちゃったんですよ」
「・・・・・・」(納得したのか、患者の声聞こえず)
「或る医者が『眠れない』という患者に睡眠薬を出したところ、よく眠れるようになったんだけど、それがないと眠れないと言って、毎月薬をもらうためだけに来院している、という例も知ってます」
「・・・・・・」(患者の声聞こえず)
私は心の中で「よくぞ言った」と快哉を叫んでいました。お客である患者様の要望を叶えるのが治療だと思っている医師は、ためらいなくどんどん薬を出していくことでしょう。薬によらない解決法を医師も患者もかんがえなくなるでしょう。快方に向かいたいと願うなら、これでは駄目です。老人はどこか体調に不具合があるのが普通の状態なのです。自分の体にとって真に良い治療とは何なのか、患者本人が考えなければならないのです。
他人の診察に耳をダンボにしている場合ではないと、主治医に対面しましたが、例の薬害申し立て事件以来「取扱注意患者」リストに載ったのか、、ものすごく応対が丁寧。「このところ結構長く落ち着いた状態なので」という理由で、六年間同量だった主薬の減量をついに勝ち取りました。最初は0.5ミリの減量からというわずかなものですが、これは大きな成果です。患者は唯唯諾諾と従順な良い患者では駄目、減薬の願いを伝えながら、体調に留意した普段の生活で実績を示す、これだなと確信しました。
もう一つは帰りのバスの中での出来事です。いつものように耳読書をしていたのですが、運転手の言葉に思わず音声プレーヤーをオフにしました。バスの中では毎停車場ごとに「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」というアナウンスがあるのですが、実際にはそんな人はいません。私の場合は早く降りたいというより、バスの運行を送らせてはいけないという思いが強いのです。バスの中に運転手の声が朗朗と響きます。
「止まる前に席を立ったからといって、わずか数歩も進めはしません」
「我先にと出口に殺到するのはおやめください」
「足腰に自信のある高齢者が停車前に動いて、出口付近で転倒し、怪我をする事故がこのところ本当に増えています」
「これはご本人にも周りの方にも大きな影響があります」
「出口付近に密集する集団には決して加わらないでください」
「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」
私はもう可笑しくて可笑しくて笑いだしそうになるのをこらえるのが大変でした。一連の文脈の中で、最後の「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」を聞くと、これまでも同じ言葉を聴いていたのに全く重みが違います。「時間は十分にとります」とも言っていました。
これはバス会社からの指令ではなく、その趣旨を運転手さん個人が自分の言葉で語ったものと思われます。人に心から伝えたい言葉というのは、実際私がそうだったように、必ず人に聞く耳を与えるのだなと実感しました。ただ、上記の言葉が乗車中お経のように繰り返されたのは結構つらく、なんとなく車内はお通夜のようでした。降車する時もちろん私は、たぶん生まれて初めて、バスが止まって扉が開いてから席を立ちました。