2023年1月27日金曜日

「家族形態の在り方とその継承2 『マクベス』編」

 一般家庭よりもっと深刻な家系継承の場である王族について考えてみます。最初にまっさらな状態で、或る地域で力を持ち始めた豪族がその力を保って子孫に継承する際の家族形態戦略を、絶対核家族を出発点に考えます。

①子供たちが小さいうちは、親は子供たちの特徴を見分け、家系を継ぐのに最もふさわしい優れた者を見出していきます。やがて子供たちはそれぞれ配偶者を見つけ、家庭を持って家を出ていきます。

②歳を重ねて一家の長は、最適な時期にいよいよ最もふさわしい後継者を決め、地位や財産といった相続を行います。

 これを繰り返していくのですが、三代目、四代目となると、病弱その他の理由でふさわしい者が自分の子供の中にいなかったり、自分が相続を行いたい時期に年齢的にちょうどいい子供がいなかったりする状況が生まれます。そうなると一族の中の適切な候補者が求められるケースが出てきて、その時候補者となる者たちの力関係や周囲の支持などによって継承者が決まっていくことになります。このような場合に対処するのに考えられる方法が二つあります。

 一つは、①権力交代の時期においてその任を果たせる可能性のある候補者の中から、何らかの合議制で一人を選ぶという方法、もう一つは、②予め「長子」などと定めた者に権力の受け継ぎ手を決めておく方法です。絶対的な権力者が君臨する前なら、①の方が一族以外の集団に対しては力を発揮できそうに思えますが、利害関係が絡んで平和裏に決定することが難しい事態が予想されます。そのうち権力抗争にピリオドが打たれ、次第に地域の支配が固まってくれば、②の方が無駄なエネルギーを使わずに地位や財産を次世代へ移行できそうです。しかし、あまり厳格に決めておくと場合によっては自分の首を絞めかねないケースも考えられ、融通の利くほどほどのルールがよいのかも知れません。

 『マクベス』という戯曲は、当時ケルト文化圏で行われていたタニストリーと呼ばれる相続法が戯曲解読の大前提となっています。それは、王位継承に際して一族の適齢以上の者の中から力量のあるふさわしい人物が王位に就く選抜法です。ところが、このシステムでは王位継承が話し合いですんなり決まるはずもなく、互いに相手を王位僭称者と見なすため、戦いや暗殺もしばしば起きました。しかしそうであっても、スコットランドの君主一覧を辿れば、ケネス一世の二人の息子の一族が有力な家系として、それなりにバランスよく交代で王を輩出してきたことが分かります。

 史書によれば、マクベスの母とダンカンの母は二人ともマルコム二世の娘であり、マクベスとダンカンは従兄弟同士です。二人とも祖父・マルコム二世の孫であり、また3代前の王ケネス二世の曾孫にあたります。ところが、男子のいなかったマルコム二世は、娘婿という点では同等の立場だったにもかかわらず、マクベスではなく、ダンカンに王位を継がせようとします。これは一方的で強引な企てでしたが、どちらが王にふさわしいかを決める手順を飛ばしてでも、マルコム二世にはそうする何らかの理由があったと考えられるのです。この理由こそ、マクベスの出自に関わるものです。すなわち、マクベスの母はマルコム二世の娘であるものの、マクベスの父はマリ領主フィンレックであり、これまでの一族ではない毛色の違う家系の出なのです。

 この事態を前に、マルコム二世の心の内を推し量ってみると、「争いとはいっても、領地内での一族の王家の間の争いで済んでいるうちはよかった。しかし、他の領主が絡んでくるとなると、王の資質を云々している場合ではない。ダンカンしかいないではないか。領地が他国のものになることだけは阻まねば」ということになりましょう。

 それだけでなく、マルコム二世は従兄弟で有力な王家であるケネス三世の男系相続者を滅ぼすという暴挙も行っており、これは慣例を踏みにじるものです。そしてこのことが話をもう一段階複雑にするのですが、それは滅ぼされたケネス三世系統の男子の中に、後のマクベス夫人・グロッホの父がいたことによります。グロッホがケネス三世の孫であることを踏まえれば、マクベスの立場からすると、自分はダンカンと同等以上の王位要求の根拠があり、マルコム二世の行為は理不尽どころか大義を乱す悪逆非道の行為以外の何物でもないと見えたに違いありません。

 ですからマクベスにとってダンカンを戦いで破ったことは、暴力的に変更された王位継承システムをそれまでのシステムに戻そうとする当然の行動だったと言えます。ダンカンがマクベスによって暗殺されたとするのはシェークスピアによる創作、事実の改変で、マクベスは当時通常行われていたように戦場でダンカンを打ち破って王位に就いています。

 マクベス夫妻にはダンカン、というよりむしろ、王位継承の慣習を一方的に破ったマルコム二世を憎む理由があったのです。戯曲の中で、後に夢遊病者となったマクベス夫人が言う、「それにしても、老人にあれほどの血があろうとは」という言葉は、無意識の中で殺害している相手が、まだ青年にならぬ息子を持つダンカンというより、その祖父であり、父の仇であるマルコム二世であることを暗示しているのです。

 この時点ではマクベス夫妻はこれがダンカンから始まる新しい王位継承体制の嚆矢となるとは夢にも思っていなかったことでしょう。特筆すべきは、マクベスの後継者ルーラッハはマクベス夫人とその前夫・マリ領主ギラコムガンの息子なのですから、王位が別の領主の家系にわたることを危惧したマルコム二世の見通しは正しかったということです。見方によっては二度ともマリ領主を夫にしたマクベス夫人が問題を引き起こしたと言えなくもないのです。とはいえ、マクベス夫人の立場からすると、ルーラッハが自分の息子であることに変わりはなく、かつその子はケネス三世の曾孫という十分な血筋なのですから、ルーラッハへの王位継承に執着したのは当然のことなのです。

 しかし、一年も経たぬうちにルーラッハはダンカン一世の息子によって敗死させられ、ダンカン一斉の息子がマルカム三世として王位を継承することになるのです。マクベスとの間に子がなく、前夫との間の子が戦死したとなれば、王の妃であることが唯一絶対のアイデンティティであるマクベス夫人が精神を病んだとしても不思議はありません。

 『マクベス』の第5幕は、侍女と医師の台詞によって、夢遊状態のマクベス夫人が繰り返す或る決まった所作を浮き彫りにする場面から始まります。マクベスの出陣後、深夜になるとマクベス夫人は寝床から起き出して、鍵のかかった戸棚から紙を取り出し、何やら書き記して読み直し、封印して寝床に戻るという所作を、眠った状態で行います。この念の入った動作で何を書き記しているのかは示されませんが、私は十中八九家系図だろうと思っています。マクベスの出陣後にこの所作が起こるとすれば、たとえマクベスが戦死しても、自分の家系とりわけ息子ルーラッハまでつながり、さらにそこから続いていくはずの王家の家系図を幾度も幾度も確認する行為だったに違いありません。恐らくは、「さ、これでいいわ。マクベス様の子ではないけれど、私には息子がいるのですもの。私は王の母になる、そしてずっと王家の母よ」などとつぶやきながら、凄まじい執着を消せなかったのではないでしょうか。

 現実は、これよりスコットランドにおける王位は、内紛を伴いながら直系男子による王位継承が基本となる体制へと移っていきます。領地を統治したと言える統治者のうち、五百年間ほど後のメアリー一世に至るまで女王が出ていないのは、それなりの兵を率いて戦場で闘うのは男の役目だったからでしょう。

 以上のことを考え合わせると、一族の有力な家系の間である程度バランスよく交代で王位継承者を輩出するというやり方は、長い間のうちにはいつか行き詰る方法だと言えましょう。「戦いが王をつくる」といった、第一義的に武力が重視されている社会では、武力衝突で互いが疲弊するだけでなく、子供が全員娘の場合、女王を立てるという選択肢がなく、娘婿となる他家や他国の男子に王位が移る可能性があるからです。こうして、王位継承を絶対命題とする家系における継承方法は、「絶対核家族」家系間の交代制から、抗争を経て、男系の「直系家族」間での継承システムへと変わっていかざるを得ないのであろうという道筋を理解することができました。


2023年1月21日土曜日

「家族形態の在り方とその継承1 『ちびまる子ちゃん』編」

 家族形態と社会や文化について考えています。出発点は、歴史家・文化人類学者・人口学者で世界の動きを人口学という視点から研究し、ソ連崩壊などの予測を的中させたエマニュエル・トッド氏の思考に触れたことです。トッドは家族類型を「親子関係」、「兄弟姉妹関係」、「内婚(いとこ婚を許容する)制か外婚制か」等の観点から分析し、4つの類型を示しています。それは①絶対核家族、②平等主義核家族、③直系家族、④共同体家族であり、このような家族形態の伝播は同心円的に広がるため、世界の家族類型の分布を見ると、①が最も古い形態で、以下番号順に新しい形態だと考えられるとのことです。

 ちなみに、

①絶対核家族は英米に見られ、遺産相続は親の意志による遺言で決まる、

②平等主義核家族はフランス北部やパリ盆地、スペイン、イタリア北西部などで見られ、相続に関しては子供たちの間で平等に男女差別なく分け合う、

③直系家族はドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェー、日本、韓国などに見られ、男子(通常は長子、時には末子)だけが結婚後も家に住み全てを相続する、親子関係は権威主義的で兄弟間は不平等、

④共同体家族は男の子供が全員、結婚後も親の家に住み続け、相続は平等だが親子関係は権威主義的というものですが、このうち「いとこ婚」を認めないのは、中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部トスカーナ地方など、

「いとこ婚」を認めるのは、アラブ地域、トルコ、イランなどです。

 この論の学術的正しさについては私の手に余る問題で何も言えませんが、非常に興味深い説です。とりわけ私が一番納得したのは、「絶対核家族が最も原始的な家族形態」だとされている点です。なんとなく戦前の大家族的形態が頭にあり、核家族は新しい家族形態のように思っていましたが、一方で大家族的在り方の継承に疑問もあったのです。

 太宰治の『桜桃』にある「子供より親が大事と思いたい」という言葉は、やけ酒を煽りながら親である自分をかばう場面で発されていますが、「本当はそう思えない」という自暴自棄の感情が根底にあります。この場合の「親」は自分の親を指すのではなく、自分を指しているということからも分かるように、本人にとっての家族とは自分が家長として形成した家族のことです。

 また、吉田松陰の辞世の句「親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」は親の身になってその心痛を慮っている句です。吉田松陰には子がいませんでしたので、思いを馳せる相手は親だけでした。親が築いた家庭においては、親の子を思う気持ちが第一義的なものであって、子である自分が親を思う気持ちはそれにかなわないと言っているのです。

 数十年前の日本ではまだ三世代同居もよくあり、このくらいの大家族なら一定の家族意識を共有することができたでしょう。しかし、直系家族による家系の継承が三代、四代と続くうち、本家、分家等のつながりも薄れ、そのうち「一族郎党」とか「遠い親戚」という意識はあるものの、実生活においてはほぼ他人という間柄になっていくのは当然のことです。

 『ちびまる子ちゃん』という番組における家族は、お姉ちゃんやまる子という永遠の小学生が主人公ですから、彼女たちが家を巣立っていったり、祖父母が亡くなったり、両親が年老いて子供が介護するなどということはありません。『ちびまる子ちゃん』は家族構成が全く変わらない「永遠不滅の家族」を描いたが故に長寿番組になったのです。これは即ち「家族とは一代限りのものである」ことを示していると言えるのではないでしょうか。家族の寿命はその最後の成員がこの世を去った時点で尽きるのです。

 「さくら家」は1970年代の家族ですから、ヒロシがいかに頼りなさそうでも両親と同居する一家の主であり、長子相続による直系家族形態の名残と見られます。昔なら「お姉ちゃん」は(磯野家のように)婿をとって両親と同居したはずで、何らかの理由で「お姉ちゃん」が他家へ嫁いだ場合はその役割は「まる子」が担ったことでしょう。

 しかし、これが現在だったら、子供が二人とも家を出ている可能性は十分あるでしょう。日本は今のところ絶対核家族の家族形態ではありませんが、世帯を別にした子供家族との付き合いは地理的・心理的距離、往来の頻度等によって、親近感が変わるでしょう。一般的に言って、息子が子供を連れて実家に行くより、娘が子供を連れて実家に行くことの方が断然多いように思えます。つまり、実家と娘家族の結びつきは家を出た後も比較的強いのです。

 どうということもない話のようですが、もし重要な問題に発展するとしたら、それは血統や家の存続が絶対的な命題となっている場合です。王族や皇室はもちろんですが、家父長制下の家族もそうでした。家の存続のための養子縁組の話は明治期以降の文学にしばしば登場しますし、それどころか社会の根底であちこちに大きく作用しているのが分かります。社会の流動化を妨げ、家督を相続する者としない者双方の苦悩のもととなり、とにかく家の存続のために膨大なエネルギーが傾けられているのです。家督を相続する者が出生によってきめられているのは、争いが起きにくい点はよいのですが、家督相続者が相続の代償として人生の他の選択肢を奪われたり、家督相続者以外の子供の生活の問題が生じます。今でこそ財産分与は平等になっていますが、家父長制の廃止後年月を経たにもかかわらず、いまだにその影響は根強いものがあります。一番根強い意識は「男性優位」の建前であり、社会の実情があまり変わらない原因はここにあると思います。この意識の改革が喫緊の課題になるのは、これが非婚化、ひいては少子化に直結するからです。

 家族形態に関するトッド氏の論を聞いた時、何かとても重要な話を聞いた気がして、考えの向くまま書いてきました。家族形態の在り方は最終的に人口動態に関わるということも朧気ながら分かりましたが、それはそれとして、さらに「一般人ではない人物」の家族形態の継承についてもう少し考えてみます。


2023年1月18日水曜日

「表出される心の声」

  通院時に二つの特徴的な出来事がありました。

 いつも行く病院は診察室と待合室は壁で仕切られていますが、中の個別のブースは看護婦や事務員の行き来のためつながっているという造りになっています。そのため比較的大きな声で話しているとその声が部分的に聞こえることがあります。

「・・・僕は病院での血圧180というのはままあることだと思ってます」(30代くらいかと思われる医師の声)

「そうなんですよ、病院だと緊張しちゃってね」(70代くらいの男性患者の声)

・・・・・ボソボソと会話が続く。

「ですからね、前のあなたの主治医は、あなたがそういうふうに体の不調を訴えると、それに対応する薬を出してきたのでこんなに増えちゃったんですよ」

「・・・・・・」(納得したのか、患者の声聞こえず)

「或る医者が『眠れない』という患者に睡眠薬を出したところ、よく眠れるようになったんだけど、それがないと眠れないと言って、毎月薬をもらうためだけに来院している、という例も知ってます」

「・・・・・・」(患者の声聞こえず)

 私は心の中で「よくぞ言った」と快哉を叫んでいました。お客である患者様の要望を叶えるのが治療だと思っている医師は、ためらいなくどんどん薬を出していくことでしょう。薬によらない解決法を医師も患者もかんがえなくなるでしょう。快方に向かいたいと願うなら、これでは駄目です。老人はどこか体調に不具合があるのが普通の状態なのです。自分の体にとって真に良い治療とは何なのか、患者本人が考えなければならないのです。

 他人の診察に耳をダンボにしている場合ではないと、主治医に対面しましたが、例の薬害申し立て事件以来「取扱注意患者」リストに載ったのか、、ものすごく応対が丁寧。「このところ結構長く落ち着いた状態なので」という理由で、六年間同量だった主薬の減量をついに勝ち取りました。最初は0.5ミリの減量からというわずかなものですが、これは大きな成果です。患者は唯唯諾諾と従順な良い患者では駄目、減薬の願いを伝えながら、体調に留意した普段の生活で実績を示す、これだなと確信しました。

 もう一つは帰りのバスの中での出来事です。いつものように耳読書をしていたのですが、運転手の言葉に思わず音声プレーヤーをオフにしました。バスの中では毎停車場ごとに「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」というアナウンスがあるのですが、実際にはそんな人はいません。私の場合は早く降りたいというより、バスの運行を送らせてはいけないという思いが強いのです。バスの中に運転手の声が朗朗と響きます。

「止まる前に席を立ったからといって、わずか数歩も進めはしません」

「我先にと出口に殺到するのはおやめください」

「足腰に自信のある高齢者が停車前に動いて、出口付近で転倒し、怪我をする事故がこのところ本当に増えています」

「これはご本人にも周りの方にも大きな影響があります」

「出口付近に密集する集団には決して加わらないでください」

「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」

 私はもう可笑しくて可笑しくて笑いだしそうになるのをこらえるのが大変でした。一連の文脈の中で、最後の「必ずバスが止まって扉が開いてから責をお立ち下さい」を聞くと、これまでも同じ言葉を聴いていたのに全く重みが違います。「時間は十分にとります」とも言っていました。

 これはバス会社からの指令ではなく、その趣旨を運転手さん個人が自分の言葉で語ったものと思われます。人に心から伝えたい言葉というのは、実際私がそうだったように、必ず人に聞く耳を与えるのだなと実感しました。ただ、上記の言葉が乗車中お経のように繰り返されたのは結構つらく、なんとなく車内はお通夜のようでした。降車する時もちろん私は、たぶん生まれて初めて、バスが止まって扉が開いてから席を立ちました。


2023年1月10日火曜日

「テラバイトの記憶」

  「天災は忘れたころにやって来る」と言うほど大げさなものではありませんが、帰省先から戻ってきたら、持ち歩いている記憶媒体に不具合が生じていることに気づきました。帰省中に作ったデータだけが失われているか開かない状態になっていました。一応バックアップをとっていましたが、もし壊れた本体をコピー保存したのならそれも壊れているはずです。気の緩みによる大失敗、ホント懲りないなあとがっくり。

 念のため再度コピーを取ってから修復作業に入ればよかったのですが、焦ってあれこれしたのが事態を悪化させたようでした。インターネットで修復法を探し、バックアップを用いて何とか修復できたものもありましたが、結局駄目だったものも2つありました。最終バックアップから1か月過ぎている者もあり、その後の空白に後悔しきりです。

 というわけで、バックアップをもう一つ増やすため、新たに記憶媒体を購入しました。今までで一番大きな容量は500GBで、それさえ半分ほどしか使用されていないので迷ったのですが、初めて1テラバイトのSSDを使ってみることにしました。私には大きすぎる容量ですが、商品の箱には「地上デジタル125時間、BSデジタル88時間」と書いてあります。そうか、世の人はこれをテレビの録画に使うのか・・・と世事に疎い私は納得しつつ、テレビの録画となると1テラバイトでもわずかな時間しかできないのだなと、デジタルの世界の広大さに茫然とする思いでした。

 私の場合はワード文書、エクセルデータ、写真画像、CD音声や読み上げソフトに読ませて録音した音声データがほぼ全てですから、さほどの容量はありません。しかし、写真などはその場その時でしか得られないものですし、自分で作ったデータはまさしくこの世に一つだけのもの、作り直しなどはもうできないのです。また、時間をかけて録音したものももう一度作る気力はありません。当たり前すぎて見逃されがちですが、要するに世界でここにしかないものはどんなくだらないものでもバックアップを複数作成しておかないと・・・とようやく悟った次第です。あとのものは他の方々が保存してくれているのですから。

 記憶媒体商品の良し悪しは不案内ですが、同じメーカーで同じ容量の製品の中から少しでも新しく、それゆえ若干値の張るものを選びました。こんな選び方でよかったのかどうか分かりませんが、フォルダごとに少しずつコピーしたらその速いこと! 何年か前に同じことをした時とは高速度が雲泥の差で感心しました。こういうことにしのぎを削っているのだから、どんどん忙しくなるわけです。折しもだまして入国させた外国人(特に若い人)を監禁し、ひたすらパソコンで詐欺メールを送らせていた大規模な犯罪集団がカンボジアで摘発されたとの報がありました。悪事も高速化、膨大化の一途を辿っています。私にはすでについていけない速度ですが、一度進み出したら二度ともたもたした時代には戻れないのですね。


2023年1月4日水曜日

「光の方へてくてく歩く ー2023年―」

 大晦日は朝のうちゴミの始末をし、シナモンパンを焼いて、ウォーキングを兼ねて買い物・・・といういつもと変わらない日を過ごしました。31日までゴミ回収車が来てくれるとは有り難いことです。パンを焼く間ラジオで子供科学電話相談を聞いていると、「○○○○5歳です。地球は水に浮くの?」という問いや小学3年生からの「忘れ物をすると先生に怒られます。怒ることにいいことがあるんですか」との相談が寄せられ、回答者とのやりとりに思わず笑ってしまいました。これほど丁寧に子供に対応する時代になったのだなとの感慨があります。もちろん正反対の扱いを受けている子供もいることでしょう。しばらくしてもう一度ラジオのスイッチを入れてみると、まだラジオ相談は続いていて「人間は理性があるのにどうして見た目や肌の色で差別するんですか」というラディカルな問題が問われていました。みな子供のように考えて行動することができるなら、この世の問題はすぐさま解決に向かうはずです。

 私の中で昨年の暗い話題は過ぎ去りました。一挙に物事を好転させるような方策はあり得ないので、一国民としてまっとうに生きていくだけです。個人的には、急激でなければ適度な人口減は悪くないと思っていますが、人口ピラミッドと経済の凋落を見る限り、今後数十年にわたってソフト・ランディングは到底無理、これまでの水準から言えば惨めな未来が待っているのは確実です。できることはほとんどない中で、少しでも生きやすくということであれば、多くの人が願いは悪辣な強欲資本主義のターゲットになって破滅的経済に陥ることだけは避けること、必要最小限の物質依存でも何らかの幸福感を得られる価値観を持つことに尽きるのではないでしょうか。(これは案外ヨーロッパのパッとしない地域の生き方ではないかと思っています。)猛烈な発展を遂げてきた日本がイースター島文明以上の謎の消滅を回避したいなら、経済や労働に関しては小さな努力を地道に積み重ねてゆっくり縮んでいくしかなく、家族や社会生活に関しては明治以来の家族観、特に男女観を見直し、乗り越えるしかない気がします。

 『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年、集英社新書)を読んで以来大ファンになり、信頼できる経済学者の水野和夫氏が、ラジオで日本の財政についてこれからの対処法を述べていました。今年は114兆円とも言われ、5年連続100兆円を超える危機的な国家財政予算、この3分の1は国債頼みで、すでに積み上がった国家債務は1241兆円(対GDP比270%で世界一、1800年以降存在するデータ中最高)です。これまでは経常収支が黒字で対外純資産が411兆円あり、また1兆2千億ドルの外貨準備があったため、これが国債の信用を形成していたこと、また国債の消化がほとんど国内でできていたことにより、大きな問題となってきませんでした。しかし、その両方に陰りが出て、昨年3月時点での国債の外国人保有率が15%にもなっており、15%というのは新興国が危機に陥るラインとのこと、少し違うケースかもしれませんが、ギリシャやメキシコ、アルゼンチン等の国情を思ってゾッとしました。

 財政再建には歳出カットか増税しかありませんが、国民の現状を見れば歳出カットは難しい。ではどこから税を取って増やすかと言えば、負担能力のあるところ、つまり儲かっているところです。法人の中には政府による無理やりの株価上昇と金融緩和により棚から牡丹餅的に利益を伸ばしているところがあります。自己資本利益比率7.9%(バブル期でさえ6.3%)は不必要に多く、今内部留保金をため込んでも意味がありません。累進課税により投資純利益30兆円を超えた利益に課税すれば15兆円ほどの歳入が見込め、それを嫌う法人は賃上げをして労働者に還元するはずで、それはそれで可処分所得が増えるので徐々によい結果につながるでしょう。また、個人金融資産の多い人への資産課税も行えば、相続税 10兆円の増加が見込めるとのこと、この2つで来年度予算の不足分を補えるという話です。とにかく年度ごとの収支をマイナスにしないことが財政再建の第一歩、まずそこからです。

 こういった政策は政府にしかできないことなので、私利私欲を捨ててやっていただきたいと思います。20年前に自分の財産を限りなく増やし日本の格差を広げようとした新自由主義者たちも、まさかここまで日本経済が凋落するとは思っていなかったのではないか。そしてそこからさらに想像を絶するほどの展開として、経済的基盤を失くした国民が希望を失って家族の形成を止め、これほど早く国自体が消滅へと向かうとは思っていなかったのではないか。彼らの良心に訴えることは(無駄なので)致しません。ただ「このままではあなた方はもう稼げませんよ」と言うだけです。それならばと、タックス・ヘイブンに逃れる方は放っておきましょう。

 同じくラジオの新年展望で、寺島実郎(一般財団法人日本総合研究所会長)が日本の現状を明示してくれました。「明治維新から日本の敗戦まで77年、敗戦後2022年までが77年、この先77年後は2100年、このとき人口は6000万人を割っている。戦後日本のGDPは世界の3%だったが、高度成長期に18%まで伸びた。しかしこれが2022年に4%になる。一人当たりGDPでも台湾に抜かれ、韓国に並ばれ、アジアで5位、世界で30位という状態である。」

 ここが我々の現在地点です。これは小泉政権以来アベノミクスに至るまで、人為的に起こされた凋落です。デフレにより30年間賃金が上がらずに日本の中間層はほぼ壊滅してしまったため、デフレ脱却を目指して強制的にインフレを起こそうと日銀が大規模金融緩和を行いましたが賃金および物価の上昇はほぼありませんでした。(最近の物価上昇はコロナからの経済活動復活による労働力不足やロシアによるウクライナ戦争の長期化による海外情勢の不安定化が引き起こしたもの、ひいては信用力を落とした日本の急激な円安によるものです。)まねー・サプライが続いた期間、株価は有り余ったマネーで吊り上げられて富裕層はますます富みましたが、一般庶民は沈んだまま回復力を失ったのです。森永卓郎が『年収300万円時代を生き抜く経済学』(2003年、光文社)を書いた時、多くの人が「いくらなんでもまさかそこまで」と思ったに違いありませんが、現在はさらにその下に年収100万円台の層がかなり分厚く存在するようになりました。逼迫した国家財政は国債に丸投げされてどうにもならないところまで来たのは誰の目にも明らかで、昨年後半の急激な超円安は日本の経済が信用を失墜した証拠です。人でも社会でもすべて信用で成り立っています。経済も同様です。これを失くしたらどうやって生きていけるでしょうか。

 ここまで落ちたのですから、もう開き直るしかないでしょう。年末にラジオ番組のリスナーの投稿で23歳の息子さんを自殺で失った方の話を聞きました。その方の事情は分かりませんが、少しでも自分に合ったことを見つけながら、信頼する人たちと共に生きていくことはできなかったのだろうかと居たたまれない気持ちです。家庭生活に関しては、私がこれまで読んだ本から自信を持って言えることは、もう「男は働いてなんぼ」といった考え方や「女は家で安らぎを与えてくれる存在」といった幻想に基づいた生き方をやめるべきだということです。男女とも自分の才能を最大限生かして、できることをすればいい。お互いが相手を自分の視点で値踏みせず純粋に尊重する気持ちがあれば、幸せな過程が築けるのではないでしょうか。そんなことは皆もうとっくに気づいていて、実行されている方も本当は多いだろうと思います。家族の形は人それぞれでよいのは言うまでもありませんが、専業主婦の母親に大切に育てられた男性が、自分も子供に同じようにしてあげたいという気持ちは痛いほどわかるものの、もうその考えは主流にはなれないのです。女性にとっても稼げる男探しで消耗する時代は終わりました。皆もう分かっているはずです。個人として尊重し合う関係になれない限り、人との良きコミュニケーションは取れず、それがこれからの時代最も大事なことになるでしょう。それだけ成熟した人間にならないと幸福な人生を送れない時代だということです。