動物園に行って以来、特に水に関する環境汚染について考えています。身の回りにはプラスチック製品があふれていますし、私のような自炊派でも食材の包装だけでも大変な量のプラごみが出ます。ペットボトルも全く使わないわけにはいきません。。プラごみは紙ごみや生ごみと一緒にプラスチックバッグに詰めて燃えるごみとして出し、ペットボトルは専用の回収場所に分別していますが、例えばレジ袋が風に舞って、あるいはペットボトルが河川に落ちて、池や海に流れ着き、やがて小さく細かくなるとそこに住む生物に多大な被害を与えます。たとえそのようなことに注意を払っていても、家庭で洗濯するだけで衣類からマイクロプラスチックが流れ出て下水にはいるということまでは避けられません。歳とともになお一層、肌触りのいい天然素材(主に木綿)を好んで身につけるようになりましたが、それでも化繊ゼロという生活は無理です。漁具による海の生物への痛ましい被害はよく報道されますが、とりわけ海に関係する生活をしていなくても、海洋汚染について手の白い人はいないはずです。
現代社会において、人間は生きているだけで自然にとって有害な存在なのですから、あとはどれだけ環境汚染を少なくできるかという選択肢しかありません。何年か前に台所用洗剤をパーム油由来のものにしましたが、これはこれで産地となる熱帯地方の自然破壊になるのですから、いつも後ろめたさを感じていました。意識の高い人は既にやっていることでしょうが、私も徐々に無添加せっけんに変えることにしました。できることはわずかですが、今回動物園で個々の動物とお近づきになった(?)ことで、習慣を変えるきっかけとなりました。
私は最近「環境リスク学」という言葉に出会いました。これはざっくり言うと、自動車や農薬など大変便利だが環境に何らかの悪影響を否定できないものがあるとすると、どのくらいのリスクがあるかを数値化すれば、自動車なり農薬なりを禁止するかどうかの議論のプラットフォームになります。発がん性があるにしても、「1億人中1人でも発症のリスクがあるなら禁止」とすることは、当事者あるいは社会における利便性や経済的損失を考えれば合理的な判断とは言えないことになるでしょう。経済的な観点だけでなく、地域の違う住人間や、人間と別種の生物間のリスク環境の比較考量においても、この考え方は威力を発揮します。
もう20年近くも前の本ですが、その名も『環境リスク学 不安の海の羅針盤』(日本評論社2004年、中西準子著)を初めて読み、率直に感銘を覚えました。筆者は東大工学部都市工学科の助手として下水処理問題から始めて、先入観にとらわれずにおかしいと思ったことを調査し、その事実だけを元に次々と環境リスクを数値化していきます。都市工学というのは住民環境と密接にかかわる領域ですので、研究結果如何によっては官僚からの圧力や市民運動からの突き上げをもろに被る学問です。筆者は不屈の姿勢で事実を曲げなかったため、官僚と組んで学生を囲い込んだ教授から虐げられ村八分にされますが、一部始終を公表したところ工学部の学生、院生、職員がストに入り理不尽な処分は撤回されます。この話に象徴されるように、ファクトにこだわりそこに立つことを止めない姿は、その後も同じ方向性の学生、研究者、教授陣、志のある官僚の心を打ち、彼女を支える人はいつも傍に存在しました。
1990年頃さかんに取り沙汰されたダイオキシン問題では、湖の底の泥層を分析することにより、ダイオキシン汚染の主たる原因がごみ焼却所ではなく、それより二、三十年ほどまえの農薬にあることを突き止め公表したため、市民団体やその農薬の製造企業から激しく非難されたこともありました。公表は机上で作り上げた理論ではなく、農家の納屋からもらい受けた当時の農薬という厳然たる証拠の分析に拠っていたため、「訴訟にする」とまで言っていた企業が逆に謝罪する結果になりました。それほどファクトは強いものでした。
この方は、『公務員という仕事』(ちくまプリマー新書2020年)を書かれた元厚生労働省の村木厚子さんを彷彿とさせる、不動の信念を持つ研究者です。この方が高潔な人格の持ち主であることは論を待ちませんが、私が圧倒されたのは「まともな正義が通っていた時代が確かにあったのだ」という思いです。かろうじて二十年前まではまだそれがあった。今ならどんな証拠を持ち出しても、「フェイクだ」と言って押し通す輩がほとんどではないでしょうか。そして世間にはどんなに立派で真摯な研究結果を聞いても、胡散臭い目で見てしまうという、「何も信じられない」無気力感が横溢しています。なにしろ、既に故人となりましたが、総理大臣がオリンピック招致に当たって、「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」と言い、「(福島第一原発の)状況はコントロールされている」と、アンダー・コントロール宣言をしてしまう国になったのですから、国民が何を言い出してもコントロールできないのは当然でしょう。言葉が意味を持たなくなった、この取り返しのつかない状況を作り出した罪は本当に重いと思います。私が「ここまで腐ったらもう日本は駄目だな」と思い知ったのは、公文書に関わる一連の事件です。公文書を改竄、廃棄するという行為は公務員、官僚が自らの存在を葬ったも同然の所業で、決してしてはならないことでした。2019年に東大の入試において文Ⅱ(経済学系)合格者の最高点、平均点とも、文Ⅰ(法学系)の合格者のそれを上回ったと聞きましたが、国会答弁をする官僚の情けない姿を見れば、国家のために働くなど馬鹿らしくみな金儲けに流れても仕方ないでしょう。環境リスクから話が逸れてしまいましたが、中西準子さんがいかに傑出した人でも、その周りに「正しいことをしたい、正しい側にいたい」という人がそれなりの数いなければ、歴史の闇に埋もれるしかなかったはずです。三十年前にはまだ一人一人が保身より大切なことを実行できていたのです。
規範のない社会は何一つ積み上げることができず、実効性のない非現実的な対応がしばらく続いたかと思うと、ほどなく変更されます。教員免許更新制がそのいい例です。学校がブラックな職場となって慢性の教員不足が予想される中、更新研修など受けるわけのない退職教員がどんどん免許を失効していくとなれば、彼らを非常勤講師として確保することができません。ちょっと考えればわかりそうなものなのに、馬鹿馬鹿しいドタバタ劇でした。十年先も見通せない教育行政に国民は翻弄されているのです。環境リスク学を知って、文科省が必要な省庁かどうかのリスク比較もしてほしいものだと思わずにいられません。文科省が存在することのリスクに比べて、文科省がなくなって困ることをあまり思いつかないのは私だけでしょうか。