祖父の卒寿の時だったか、集まった叔父、叔母が何やら楽しそうに歌う讃美歌に軽い衝撃を受けた覚えがあります。聞いたことも、もちろん歌ったこともない讃美歌で、まるで戦後すぐの荒廃した風景に響き渡るマーチ調の歌でした。後にそれは『聖歌』の中の1曲と分かるのですが、おそらく福音派系と思われる『聖歌』を私が知らなかったのも当然です。日本基督教団ではもっぱら『讃美歌』(『讃美歌Ⅱ』を含む、後には21世紀にふさわしい新しい『讃美歌21』が出版される)を用いていたからです。「十字架にかかりたる/救い主を見よや/こはなが犯したる 罪のため/ただ信ぜよ ただ信ぜよ/信ずる者はたれも 皆救われん」と歌う『聖歌』424番を聞いて、申し訳ないながら思わずぷっと笑わずにいられませんでした。洗練された歌詞と曲調の『讃美歌』に比べ、何と俗っぽい讃美歌だろうと好きになれませんでした。
『讃美歌21』には『讃美歌』から詞を口語文に手直ししたりして収録されたものもありますが、新しいタイプの讃美歌が取り入れられて出来上がったのですから、当然再録に漏れたものもあります。私の好きな讃美歌の多くが『讃美歌21』に採録されていないことを知った時、自分が間違いなく昭和の人間だということを悟りました。いや、『讃美歌21』にも惹かれる歌はたくさんあります(385番「花彩る春を」、580番「新しい天と地を見たとき」など)。また、子供たちにも歌いやすく、一緒に歌うのに適したものも多数あるのでとてもよいと思っています。でも、恐らく私以上の年齢の人には『讃美歌』の時折混じる文語的表現の美しさを恋しく思う人は多いに違いありません。
好きな讃美歌が年齢とともにこれほど変わるのかと、最近は思うようになりました。美しい曲と詞を兼ね備えた讃美歌は一生変わらず歌いたいものですが、そもそも『讃美歌』はまさしくオールタイム・ベストと言ってよい選りすぐりの讃美歌集です。その中で、ひょんなことから美しさという基準をも無化してしまうような懐かしい、そして不思議な讃美歌497番に出会いました。
「あめなる日月(ひつき)はまきさられ、つちなる物みなくずるとも、常世(とこよ)にわたりてすべたもう/主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」
「あめつち跡なくくずるとも、主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」
「かわりなき、かわりなき、主イエスぞ永久(ときわ)にかわりなき。」
「あめなる日月」とは天のカレンダーといったところでしょうか、神のご計画が記された巻物が読み広げられては別側に巻き取られて終了していくようなイメージなのですが、これを一言で「まきさられ」と表現しているところがすごすぎると思います。
次の「つちなる物みなくずるとも」は、まさしく今現在の世界であり、説明は必要ないでしょう。次に来る、最初から最後まで変わらず世界を統べる神についての言及は、私に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:8)を想起させます。
ここまでで一段落と思ったら、再びダメ押しのように「あめつち跡なくくずるとも」と、世界の崩壊、滅亡の詞が続くので、悲惨さを通り越して思わずのけぞって大笑いしてしまいます。戦争直後の焼け野原を経験された世代は、もしかするとまさしく今、既視感を持って日本の、そして世界の現状を見ているかもしれません。
さらに続く、「かわりなき、かわりなき」のところを、私は「変わりなし、変わりなし」と歌っていたのですが、ふと気づけば、これは「主イエス『ぞ』永久にかわりな『き』」という、あの古典の授業で習った係り結びではありませんか! 「ぞ・なむ・や・か・こそ・は・も」(係助詞)が出てきたら,「文末」の「活用形」が変わると確かに習いました。「ぞ」の場合は「連体形」か…なるほどと、生まれつき文語文の使い手ではない私は頷きました。「ぞ」の無い2節と3節の詞は確かに「主イエスぞ永久にかわりなし」となっています。普段使っていない話し言葉、書き言葉が自然に分かるということはありません。うん、古典文法、必要でした。
この讃美歌は曲が軽やかな8分の6拍子でなければ、全く違った歌になっていたのかもしれません。しかし、8分音符3つを1拍とする2拍子系のリズムで歌いながら、絶望感に打ちひしがれて沈み込むことはそもそも無理です。この讃美歌は、崩れゆく世界の現実を突き抜けたような明るい曲調なのです。ひたすら「かわりなき」を繰り返し連ねるこの讃美歌を口ずさむと、ぐんぐん力がわいてきます。そのため、このどこから見ても「昭和な」讃美歌は、にわかにマイ・リバイバルとなりました。この単純な曲と詞の讃美歌を好ましく思う私は、まさしくあの時の叔父・叔母と同じではないかと、少し愕然としました。「永久にかわりなき主イエスを、ただ信ぜよ」という言葉を今は真理と実感する歳になったということでしょう。そうです、信ずる者は誰も皆救われるのです。メロディを味わいながら、「この感じはどこかで・・・」と思った途端ひらめいたのは、沈みゆくタイタニックで演奏された曲、『讃美歌』320番(主よみもとに近づかん)でした。この讃美歌も8分の6拍子、映画では途轍もなく荘厳な雰囲気を醸し出していましたが、悲壮な感じがしないのは、3連符を用いるワルツのようでありながら実は2拍子系のこのリズムのせいでしょう。しかしこれも、静謐のうちに破滅へと沈んでいくゾッとするような凄まじい情景なのです。ああ、このブンチャッチャ、ブンチャッチャのリズムが今日も頭を離れない。