猛暑の中、経済の本を読んで素人なりに勝手にあれこれ思案しています。疑問だらけではあるものの集中できて面白く、しばし外の暑さを忘れます。経済といってももちろん投資関連の話ではなく、「経済学」と呼ばれている類の話です。「経済学」と呼ばれる学問は、或る時期、或る国または地域の、独特の個別状況に対応するものとして生み出されたものであり、どうも「学」というよりは「術」とか「技法」とか呼んだ方がよいものだと感じます。或る状況が整った時に必ず起こる経済事象の法則というものは確かに存在しますが、ノーベル賞を受けた理論でも今は通用しないという理論が他の学問より多い気がするのは、それが歴史上ただ一度の条件下で起きた経済現象を説明するものだったからなのでしょう。これまでの大まかな経済の流れや各国の経済史を興味深く学んでいますが、未来を決めるファクターが無限といってよい複雑系である以上、そこから今後の未来的観測を描くのは無理ではないでしょうか。ほんの些細な要因が刻々と作用して全体の姿を大きく変えることは常にあり得るので、どこまで行っても「勝ちに不思議の勝ちあり、負けにも不思議の負けあり」ということが避けられない気がします。
日本の経済、特に金融界で扱われている事業はほぼアメリカ直輸入のコピーですが、こういうことに庶民を巻き込むのはいかがなものかと強く思います。金融の強欲資本主義がサブプライムローンという詐欺的手法で奪ったものが庶民の家と暮らしだったことを忘れてはならず、新自由主義者たちは人の道に反する悪徳商品で儲けることに全く罪悪感がない人たちだということを心に銘記すべきです。幸い庶民レベルでは、そこまでひどい詐欺的商品が日本で大きな被害を出すことはなかったようですが、不安を煽られて金融経済に巻き込まれていく人が増えるだろうと思うと、やりきれない思いです。
新型感染症の流行以降世界の経済は大きく変わりましたが、最近の入国緩和で来日した米国人が「日本ではホテルの従業員さえ変わっていない」ことに驚いていたという話を聞きました。また、過去50年間くらいに限れば株価の変動による利益より預金の利子による利益の方が大きかったという研究結果を知ってからは、日本の経済はアメリカとは在り方が全く違うのだろうと考えるようになりました。経済をどのくらいのスパンで考えるかにもよりますが、今後マイナス金利が続こうと私のような怠惰な年寄りは「もうこのままでいい」と静観の境地です。金融の世界は「誰かの得は誰かの損」になる世界、一般人が今更ゼロサムゲームに参加しても、投資で飯を食っているプロの餌食になるだけでしょう。日本人は「バスに乗り遅れるな」的掛け声に非常に弱いですが、昨今の投資への煽りはカモを呼び集めている気がして仕方ありません。賭場におけるヒリヒリするような感覚が好きな人、一か八かの賭けに出るところまで切羽詰まっている人、あるいは二十年先まで真剣に考えて策を練っている人でなければ、「みんなやってるし」程度の気軽な気持ちで乗せられてよいのか、他人事ながら危惧しています。なぜなら実感として、今まで政府や金融界が推し進めてきたことで庶民にとってよかったことなど何もなかったからです。私にとって関心があるのは、端的に一般庶民の暮らし、身の回りの衣食住だけですが、これを形成する要因としてのみ政府の経済政策にも関心を持っている、というか持たざるを得ないのです。とにかく「もう騙されない!」という詐欺師相手のキャッチコピー的心持ちで、自国の政府を見ています。情けないことです。
最近気になるワードは、「鉱物資源としての金」、「国債」、「税金」ですが、これらは経済を知る手がかりになるという直感があります。先が見えない不安定な時期に皆が求める「鉱物資源としての金」の相場は(私は全く関わっていませんが)、現在どう見ても投機的動きの結果のバブル状態でしょう。将来の不安に備え長期にわたって保有する分にはよいのですが、どうしても思い出してしまうのは17世紀の英国の金匠のことです。「金」の保有といっても、実際に延べ棒などの形で手元に置いている人は少数であり、そのため証書という形で預けてある「金」を元手に金匠が貸金業を始めたのが銀行の始まりと言われています。現在「鉱物資源としての金」を手元に置いている人が少数だとすると、万一全員が同時に、自分が預けている「金」を金貨や金塊などの形で引き出して手元に置きたいと望んだ場合、本当にそれだけの「金」が地球上にあるのかなという単純な疑問があります。歴史を振り返ると、最初は「金」と兌換されるできる証書だった紙幣がやがて不換紙幣とならざるを得なかったのですから、この異様な金相場高騰期の第二次ゴールドスミス・ノートの結末はどうなるのか、興味津々です。
私が「金」に手を出していないのは、端的に「食べられない」(金塊では八百屋で野菜と交換できない)からですが、もう一つ大事な理由として、「金塊では納税ができない」ことが挙げられます。6月は納税ラッシュで国税、都税、社会保障費等の納入が目白押しでした。日本に住む人は「円」での納税を義務付けられており、今まで注目していなかったのですが、これは非常に重要なことだと気づきました。さほど長期的な視野で考える必要がなく、現時点で当面普通に生活できる見通しがあるなら、とりあえず納税に使えない形の資産を持つ必要がないのです。思い出すのは小学生の頃祖父母の家で、同じく遊びに来ていたいとこが夏休みの自由研究をしていたことで、なんと紙に金槌でつぶした1円玉と10円玉がセロテープで貼ってありました。50円玉や100円玉が無かったのはもったいなかったのでしょう。私は目が点になり心の中で「こ、こ、これは犯罪・・・」と思い、教えてあげるべきか悩んだのを覚えています。ただの鉱物がお金となることを実証した自由研究でしたが、なぜそれが犯罪になるのか当時の私には分かってはいませんでしたから、理由を聞かれても説明に窮したことでしょう。
「国債」のことはまだ腑に落ちない点があります。多くの国民が多額のお金を(もちろん円建てで)銀行に預金として貸し付けているので、日本の国債は1000兆円を超えても心配いらないと説明されていますが、このまま野放図に増えても本当に大丈夫なのか・・・。また日本が破綻しない理由として、日本には貿易を通じてこれまでに積み上げた外貨黒字があることも極めて重要です。ギリシャ経済を破綻させたのち、次に日本の多額の国債に目を付けたヘッジファンドが、4兆ドルともいわれる激烈な為替投機を仕掛け、結局損して退散した"事件"は、相手からすれば「不思議な負け」だったことでしょう。ギリシャと違い、この時彼らは国債のカラ売りで儲けることができなかったのです。でもこの次も日本国債が安泰だと確言できる人はいるのでしょうか。日本に限らず、紙幣を刷って結局は政府債務を増やすやり方が行き詰まるとすれば、金本位制への復帰もあり得ない話ではなく、そうなれば兌換通貨が米ドルであろうと人民元であろうと、日本や日本国民がどうにかできるレベルの話ではなくなります。各国の中央銀行は大量の「金」を保有していますが、実際その量を査察する世界機関はないのですから、それは自己申告ということになるでしょう。いずれにしても日銀は他国に比べてごく少量しか「金」の保有が無いようですから、どうなることか。そう言えば、アメリカがドルと「金」の兌換をやめたニクソン・ショックの時も、事前にそのことを知らされていなかったのは日本だけでした。この手の未来予測的妄想は不確定な要素が多すぎて考えても無駄。いずれにせよ政府は国民生活を守らなければならない義務がありますから、その時こそ日本は「資本主義の看板を掲げた世界で最も平等な国」になるのではないでしょうか。
これまで読んだ経済関係の本の中で印象深かったのは、水野和夫の『資本主義の終焉と歴史の危機』で、この本により近世ヨーロッパ以降の経済を非常によく俯瞰できました。そして、20世紀以降の金融資本主義について私の思考が混迷を深めていたところ、「求めよ、さらば与えられん」とはこのことか、つい先日、田内学『お金の向こうに人がいる』に出合いました。実のところここには経済について私が知りたかったこと全てが、小学生でもわかる言葉で書かれていて仰天しました。世の中には何と聡明な人がいることか。そして特にこと経済の話となると。頭の良さが健全な人格と結びついていることは結構まれであることを考慮すると、この方には「よくぞこの本を書いてくださった」と、お礼を言いたい気持ちです。常にお金の話に煽られている現代だからこそ、金儲け以外におけるまっとうな経済生活の指針を求めている人は多いはずです。お金に支配された虚しい生活は誰だって嫌なのです。聖書には、ローマ帝国への納税の是非を問われたイエスが、カエサルの肖像が刻まれた硬貨を指して、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と述べた話があります。ローマの貨幣は汚れたものとされていたため、ユダヤ人は神殿への納税にはユダヤの貨幣に両替する必要があり、これこそユダヤ人支配層の利権の温床だったのです。為替差益も手数料も取り放題という悪徳はいつどこでも生まれ、それは現代と何ら変わりません。まっとうな労働をしてまっとうな製品やサービスを売ることより、このような金融モデルが何か高度なことであるかのように考えられているのはおかしいと皆気づき始めています。お金ではなく、働く人という視点で経済の流れを考える・・・ここを突き詰めて全体像を把握し、誰もが不思議に思っていた疑問を解決する快刀乱麻の筆さばきには脱帽です。これまで当たり前にしてきた経済活動が、視点を変えるだけで全く別の様相を呈し、未来を有意義な方向へと変えることができるのだと強く思わされました。この本がもう少し早く、すなわち日本の中流層が壊滅的破壊を被る前に、世に出ていたらと思わずにいられません。不安に駆られて個々人がパイの奪い合いに明け暮れた平成の30年がつくづく痛い。でも手遅れではない、そう思えることはそれ自身明るい兆しです。「人様のためになることを考えて、自分ができる範囲でできることをする」という働き方でよかったのです。なんだか安心したな。