2022年7月25日月曜日

「加減が難しい・・・今どきの働き方」

  人の働き方はこの50年で驚くほど変わりました。働き過ぎで「社畜」という言葉まで生んだ時代、特に男性には学校を出たら40年働く選択肢しかありませんでした。今では就活において「やりがい」よりも「縛られない自由」を重視して、就職先を選ぶ学生も多いと聞きます。どれほどの残業がありそうな職場か、事前にチェックするのは当たり前のように行われて、SNSで情報が共有され、場合によっては「ブラック」のレッテル貼りがおこなわれるとのこと、大変な時代になったなあと思います。

 新卒の学生を会社の気風に染めて鍛え上げる凄まじさは、聞き及ぶだけでも恐いものがありましたし、セクハラ、パワハラ、サービス残業(しばしば過労死を引き起こした)等が横行していた時代には心底ぞっとします。しかし今、それらの多くが法的に規制され、全く融通がきかない職場になって、逆に「ゆるブラック」と名付けられる企業も出てきました。労働時間がきちんと守られて、上司は優しく接してくれる、ノルマもきつくない・・・「ゆるくていいのだけれど、ここにいて自分は成長できるのだろうか」と感じる新入社員が、特に大企業で増えているというのです。この何とも言えない不満、あるいはそこはかとない不安はとてもわかる気がします。働き始めて最初の2~3年はどうしても自分に負荷をかけて仕事を学ばなければならない時期です。その時期に働くことの土台を教えてもらえないとしたら、職場にとっても本人にとっても大きな損失となるのは明らかでしょう。

  校内暴力で荒れていた頃、私が最初に赴任した教育困難校では12~14時間働くのは普通のことでした。そうしないと学校が学校として保てないからです。今なら間違いなくブラックな職場でしょうが、あれほど助け合って和気あいあいと団結した職場はありませんでした。労働時間を考えるとその状況がよかったとはとても言えませんが、或る種特殊な得難い体験でした。

 先日、通販の配達で初めてトラブルを経験しました。「本日中に配達します」というメールが来たので待っていたのですが、夜8時になっても来ない。念のため配達状況をチェックすると何と「配達完了」になっている。配送サービスセンターに電話し、「インターフォンを押した形跡がない、メールボックスに不在配達票が無い」ことを告げました。しばらくして、近所の配送センターより電話があり、「今、担当者を確認に向かわせています。ボックス内にあるのが確認できましたら、お持ちしてもよいでしょうか」とのこと。わざわざ来るのは大変だろうと思い、「宅配ボックスのナンバーとキーの解除番号さえ教えていただければ、こっちでやりますよ」と言ったのですが、「もうまもなく着きますので」とのこと、確かに荷物を持った担当者がやって来ました。「言い訳ですが・・・」と断りながら、メガネを壊してしまい数字を読み違えてインターフォンを押してしまったこと、不在だったので宅配ボックスに残したことを話してくれました。ありがちなことだと、目の悪い私は身につまされました。「大変なお仕事ですよね。遅い時間までありがとうございます」と申し上げて一件落着です。この配送所では配達ミスをした時の対処法がきちんと決められており、従業員はそれに則って失敗を克服し、成長していくのでしょう。電話をしてきた年配の女性は、とても丁寧に謝ってくださり、担当者が再訪問しやすいように配慮が見られました。きっとうまくいっている職場なのでしょう。「よい職場とは?」、「よい働き方とは?」という根本的な問題が今ほど問われている時はないと思います。


2022年7月18日月曜日

「SDGsは壮大なまやかし?」

 久々に早朝公園に行くことができました。行ってみてびっくりしたのはピクニックスペースに家庭用テントが4張りあったことです。時間的にいって前夜から泊まり込んでいたものと見られ、家で寝るより5℃くらいは涼しかっただろうと想像して、ちょっとうらやましい感じでした。おそらく何らかの届けが必要で、藪蚊もいるでしょうし、傍から見るほど快適ではないかもしれませんが、連休中の近場の楽しみとしてはありかも知れません。

 日本では猛暑や大雨による水害等の報道がありましたが、ヨーロッパも猛暑とのことでスペインで山火事が起きたり、イギリスで40℃越え予報の非常事態宣言が出されたとのニュースがありました。この時期のイギリスが本来最も気持ちよく過ごせる気候であることを思えば、この暑さは日本以上に堪えるのではないでしょうか。

 最近「人新世」という言葉を初めて聞きました。どうも地質学において「現代」を指す非公式な分類のようで、人間が地球の地質や生態系に与えた影響について語る時に用いられる用語です。

 その前の1万年以上続いた時代を「完新世」と呼ぶらしいのですが、その後人類の時代に降り積もった物質として、新たに多数の新化合物、人工肥料の成分、放射性物質、プラスチック、果ては品種改良して大いに食べた鶏の骨に至るまで、前代とは違う地層が分厚く堆積しているのでありましょう。数年前に人間の体自体の変容を指摘して世界に衝撃を与えた『サピエンス異変』と同様かそれ以上に、地球は回復できないダメージを負っているのです。科学者の研究によれば、人間が地球にかけ続けた負荷はすでにプラネタリー・バウンダリーを超えているとのことですから、もはや不可逆的な変化が起こっていると言ってよい状況にあるのではないでしょうか。

 この期に及んでSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)というものが2015年に出されましたが、遅すぎたし、まだ「開発」にこだわっているところが暢気すぎると思います。そしてそれ以上に、このたび初めて17の目標を読んで驚いたのですが、環境も人も社会も何もかもごちゃまぜのまま、絶対に15年間では達成できない事項を平然と掲げていることに呆れました。17の目標とは以下の通りです。

1.貧困をなくそう (英: No Poverty)

「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」

2.飢餓をゼロに (英: Zero Hunger)

「飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する」

3.すべての人に健康と福祉を (英: Good Health and Well-Being)

「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」

4.質の高い教育をみんなに (英: Quality Education)

「すべての人々へ包摂的かつ公正な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」

5.ジェンダー平等を実現しよう (英: Gender Equality)

「ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児の能力強化を行う」

6.安全な水とトイレを世界中に (英: Clean Water and Sanitation)

「すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する」

7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに (英: Affordable and Clean Energy)

「すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する」

8.働きがいも経済成長も (英: Decent Work and Economic Growth)

「包摂的かつ持続可能な経済成長及びすべての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある人間らしい雇用を促進する」

9.産業と技術革新の基盤をつくろう (英: Industry, Innovation and Infrastructure)

「強靱なインフラ構築、包摂的かつ持続可能な産業化の促進及び技術革新の推進を図る」

10.人や国の不平等をなくそう (英: Reduced Inequalities)

「各国内及び各国間の不平等を是正する」

11.住み続けられるまちづくりを (英: Sustainable Cities and Communities)

「包摂的で安全かつ強靱で持続可能な都市及び人間居住を実現する」

12.つくる責任 つかう責任 (英: Responsible Consumption and Production)

「持続可能な生産消費形態を確保する」

13.気候変動に具体的な対策を (英: Climate Action)

「気候変動及びその影響を軽減するための緊急対策を講じる」

14.海の豊かさを守ろう (英: Life Below Water)

「持続可能な開発のために海洋・海洋資源を保全し、持続可能な形で利用する」

15.陸の豊かさも守ろう (英: Life on Land)

「陸域生態系の保護、回復、持続可能な利用の推進、持続可能な森林の経営、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止する」

16.平和と公正をすべての人に (英: Peace, Justice and Strong Institutions)

「持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する」

17.パートナーシップで目標を達成しよう (英: Partnerships for the Goals)

「持続可能な開発のための実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する」

 これを2030年までに達成すべきとしているのですから、ここはグレタさんでなくても怒るべきところでしょう。少なくとも私はひとこと、「壮大なまやかし」だと気持ちが萎えました。この目標は「こんなことなら言わない方がまし」という類の不誠実なものだと思います。誰も反対できないような現実離れした正論を吐くだけで、問題が解決するわけがありません。こういうことを言い出す人を私は懐疑的なまなざしで見ることにしています。そのかわり自分でできる小さなこと、例えば「家庭からフードロスを出さない」、「洗い物はこまめに手洗いして洗濯回数を減らす(水と電気の節約」、「物を大事に使う」などを地道に実行するしかないなと思います。

 いま到着を待っている家電があります。「切」のボタンを押しても羽根が回り続ける扇風機を買い替えることにしたのです。タイマーでゼロのところにつまみを合わせると一応切れるのですが、危険な気がするし、なにしろ購入して30年の年季ものですから、これは許されるでしょう。悩んだ末、日本の中小企業が作っているちょっと面白そうな製品にしました。たかが扇風機といえど、今はサーキュレーターが付いていたり、リモコンが標準装備だったりするのかと、浦島太郎の気分です。


2022年7月11日月曜日

「悪夢の暗殺事件」

 三日前の元総理銃撃事件には日本中の誰もが言葉もなく、呆然自失だったことでしょう。それはおそらく「日本でこんなことが起きていいはずがない」という恥の感覚に貫かれていたと思います。戦前の政府要人暗殺事件が脳裏をよぎった人も多かったのではないでしょうか。せめて命だけは取り留めてほしかったと思います。あってはならない事件でした。

 たまたま帰省先でテレビの映像をみたのですが、規制がかかって流せない映像があるとはいえ、事件前後の数十秒ほどの映像には唖然とするほかありませんでした。総理在任中からすれば一挙に警備体制が手薄になるのは避けられないとしても、このような計画が簡単に成し遂げられてしまったことが信じられません。とてもあり得ない光景でした。ミステリ中毒人間にとっては、あの現場で起きたこと(あるいは起きなかったこと)を一秒ごとに言葉にすれば、オリエント急行並みに「これってみんなグルなの?」と思わざるを得ない断片の集積でした。犯人の冷静さ、警備の無為無策さに凍りつくほかありません。ここまで危機感のない状態で今までやり過ごされてきたとは思えませんが、一般人でも外出時は常に用心し備えている時代、どうしちゃったんだろうと不可解な気持ちでいっぱいです。

 犯人については報道されている以上のことは知りませんが、事実として2002年8月~2005年8月までの3年間海上自衛隊に勤務したという以外は、今年2020年~2022年5月まで派遣労働をしていたとのことです。現在41歳の人ですので、この人は就職氷河期の影響をもろに被ったのだろうと分かります。また、犯行に及んだ理由として、「安倍元首相が或る宗教団体とつながりがあると思い込んでいた」と報道されました。安易な推測は控えなければなりませんが、経済的に厳しい状況が何年も続く間に根拠薄弱な逆恨みが高じて、このような事件を起こしたと言えるかもしれません。マグマのような社会への憎悪が形を変えて元総理を標的にしたという見方も全くの妄想とは言い切れないでしょう。

 事件のあと友人と少し話したのですが、「不幸な人が多すぎるんじゃないか」という陰鬱な言葉で話が終わりました。派遣労働というと私はどうしても『巨人の星』の星一徹を思い出してしまうのですが、高度成長期には東京なら山谷、大阪なら釜ヶ崎というドヤ街があり、これは教科書にも載っていた気がします。ここの労働者は雇用調整弁として機能していたわけですが、今ではこれが非正規雇用として派遣社員などの形で全国津々浦々に拡大されました。労働者の4割は非正規雇用であり、今後はそれが過半数になることもあり得るでしょう。「希望が見えない」という現実は人をいかようにも買えるのかもしれません。今回の犯人の背後関係は知りませんが、もしこれが本当に単独犯であるとするなら、犯人と同様に絶望にかられた少なくない数の人が全国どこにでもいることを否定できず、その仮説は真に社会を戦慄させるものです。

  日本ではここ30年間普通の人をあまりにも虐げてきたのではないでしょうか。人間を軽んじるこのような時代に移行するまでの、まさに激動期に学校で生徒に接していた者の感触では、生徒はそれこそ千差万別で、口八丁手八丁の者がいるかと思えば、控えめでおとなしく目立たない者もいますし、何も教えずとも苦も無く前進していける者もいれば、教師が根気強く手を掛ければ立派に一人前になれる者もいます。後者は自己表現が下手で要領が悪く、臨機応変に何かに対応することは苦手ですが、こつこつと地味な仕事をやり遂げるなどの点で、人の信用を得られるタイプの人です。どちらかと言うとこのようなタイプの人は、この30年間の生き馬の目を抜くようなデジタル革命の間に社会に居場所を失くしつつあるのではないかと思います。そして恐らくそれ以前の日本の伝統的社会では後者のような人も大事に扱い、彼らはあまり注目されないまま社会の土台を形成していたように思います。彼らは日本の労働市場で実は長く「隠れた至宝」だったのですが、今では時代遅れなものとして見る影もなく打ち捨てられました。

  今回の事件で一つだけ「あれっ?」と思ったのは、事件直後にコメントした政治家のほとんどが「選挙中に民主主義の根幹を揺るがすような卑劣な事件は断じて許せない」という趣旨のことを述べていたことです。「何かずれてないか?」と思ったのは、一般人の感覚では「民主主義はとうに壊れている」という暗黙の前提があったからです。だからこそ、「民主主義が終わったあとの日本はどうなるのかを見せつけられて、私は心底震撼したのです。


2022年7月7日木曜日

「経済を学ぶ」

  猛暑の中、経済の本を読んで素人なりに勝手にあれこれ思案しています。疑問だらけではあるものの集中できて面白く、しばし外の暑さを忘れます。経済といってももちろん投資関連の話ではなく、「経済学」と呼ばれている類の話です。「経済学」と呼ばれる学問は、或る時期、或る国または地域の、独特の個別状況に対応するものとして生み出されたものであり、どうも「学」というよりは「術」とか「技法」とか呼んだ方がよいものだと感じます。或る状況が整った時に必ず起こる経済事象の法則というものは確かに存在しますが、ノーベル賞を受けた理論でも今は通用しないという理論が他の学問より多い気がするのは、それが歴史上ただ一度の条件下で起きた経済現象を説明するものだったからなのでしょう。これまでの大まかな経済の流れや各国の経済史を興味深く学んでいますが、未来を決めるファクターが無限といってよい複雑系である以上、そこから今後の未来的観測を描くのは無理ではないでしょうか。ほんの些細な要因が刻々と作用して全体の姿を大きく変えることは常にあり得るので、どこまで行っても「勝ちに不思議の勝ちあり、負けにも不思議の負けあり」ということが避けられない気がします。

 日本の経済、特に金融界で扱われている事業はほぼアメリカ直輸入のコピーですが、こういうことに庶民を巻き込むのはいかがなものかと強く思います。金融の強欲資本主義がサブプライムローンという詐欺的手法で奪ったものが庶民の家と暮らしだったことを忘れてはならず、新自由主義者たちは人の道に反する悪徳商品で儲けることに全く罪悪感がない人たちだということを心に銘記すべきです。幸い庶民レベルでは、そこまでひどい詐欺的商品が日本で大きな被害を出すことはなかったようですが、不安を煽られて金融経済に巻き込まれていく人が増えるだろうと思うと、やりきれない思いです。

 新型感染症の流行以降世界の経済は大きく変わりましたが、最近の入国緩和で来日した米国人が「日本ではホテルの従業員さえ変わっていない」ことに驚いていたという話を聞きました。また、過去50年間くらいに限れば株価の変動による利益より預金の利子による利益の方が大きかったという研究結果を知ってからは、日本の経済はアメリカとは在り方が全く違うのだろうと考えるようになりました。経済をどのくらいのスパンで考えるかにもよりますが、今後マイナス金利が続こうと私のような怠惰な年寄りは「もうこのままでいい」と静観の境地です。金融の世界は「誰かの得は誰かの損」になる世界、一般人が今更ゼロサムゲームに参加しても、投資で飯を食っているプロの餌食になるだけでしょう。日本人は「バスに乗り遅れるな」的掛け声に非常に弱いですが、昨今の投資への煽りはカモを呼び集めている気がして仕方ありません。賭場におけるヒリヒリするような感覚が好きな人、一か八かの賭けに出るところまで切羽詰まっている人、あるいは二十年先まで真剣に考えて策を練っている人でなければ、「みんなやってるし」程度の気軽な気持ちで乗せられてよいのか、他人事ながら危惧しています。なぜなら実感として、今まで政府や金融界が推し進めてきたことで庶民にとってよかったことなど何もなかったからです。私にとって関心があるのは、端的に一般庶民の暮らし、身の回りの衣食住だけですが、これを形成する要因としてのみ政府の経済政策にも関心を持っている、というか持たざるを得ないのです。とにかく「もう騙されない!」という詐欺師相手のキャッチコピー的心持ちで、自国の政府を見ています。情けないことです。

 最近気になるワードは、「鉱物資源としての金」、「国債」、「税金」ですが、これらは経済を知る手がかりになるという直感があります。先が見えない不安定な時期に皆が求める「鉱物資源としての金」の相場は(私は全く関わっていませんが)、現在どう見ても投機的動きの結果のバブル状態でしょう。将来の不安に備え長期にわたって保有する分にはよいのですが、どうしても思い出してしまうのは17世紀の英国の金匠のことです。「金」の保有といっても、実際に延べ棒などの形で手元に置いている人は少数であり、そのため証書という形で預けてある「金」を元手に金匠が貸金業を始めたのが銀行の始まりと言われています。現在「鉱物資源としての金」を手元に置いている人が少数だとすると、万一全員が同時に、自分が預けている「金」を金貨や金塊などの形で引き出して手元に置きたいと望んだ場合、本当にそれだけの「金」が地球上にあるのかなという単純な疑問があります。歴史を振り返ると、最初は「金」と兌換されるできる証書だった紙幣がやがて不換紙幣とならざるを得なかったのですから、この異様な金相場高騰期の第二次ゴールドスミス・ノートの結末はどうなるのか、興味津々です。

 私が「金」に手を出していないのは、端的に「食べられない」(金塊では八百屋で野菜と交換できない)からですが、もう一つ大事な理由として、「金塊では納税ができない」ことが挙げられます。6月は納税ラッシュで国税、都税、社会保障費等の納入が目白押しでした。日本に住む人は「円」での納税を義務付けられており、今まで注目していなかったのですが、これは非常に重要なことだと気づきました。さほど長期的な視野で考える必要がなく、現時点で当面普通に生活できる見通しがあるなら、とりあえず納税に使えない形の資産を持つ必要がないのです。思い出すのは小学生の頃祖父母の家で、同じく遊びに来ていたいとこが夏休みの自由研究をしていたことで、なんと紙に金槌でつぶした1円玉と10円玉がセロテープで貼ってありました。50円玉や100円玉が無かったのはもったいなかったのでしょう。私は目が点になり心の中で「こ、こ、これは犯罪・・・」と思い、教えてあげるべきか悩んだのを覚えています。ただの鉱物がお金となることを実証した自由研究でしたが、なぜそれが犯罪になるのか当時の私には分かってはいませんでしたから、理由を聞かれても説明に窮したことでしょう。

 「国債」のことはまだ腑に落ちない点があります。多くの国民が多額のお金を(もちろん円建てで)銀行に預金として貸し付けているので、日本の国債は1000兆円を超えても心配いらないと説明されていますが、このまま野放図に増えても本当に大丈夫なのか・・・。また日本が破綻しない理由として、日本には貿易を通じてこれまでに積み上げた外貨黒字があることも極めて重要です。ギリシャ経済を破綻させたのち、次に日本の多額の国債に目を付けたヘッジファンドが、4兆ドルともいわれる激烈な為替投機を仕掛け、結局損して退散した"事件"は、相手からすれば「不思議な負け」だったことでしょう。ギリシャと違い、この時彼らは国債のカラ売りで儲けることができなかったのです。でもこの次も日本国債が安泰だと確言できる人はいるのでしょうか。日本に限らず、紙幣を刷って結局は政府債務を増やすやり方が行き詰まるとすれば、金本位制への復帰もあり得ない話ではなく、そうなれば兌換通貨が米ドルであろうと人民元であろうと、日本や日本国民がどうにかできるレベルの話ではなくなります。各国の中央銀行は大量の「金」を保有していますが、実際その量を査察する世界機関はないのですから、それは自己申告ということになるでしょう。いずれにしても日銀は他国に比べてごく少量しか「金」の保有が無いようですから、どうなることか。そう言えば、アメリカがドルと「金」の兌換をやめたニクソン・ショックの時も、事前にそのことを知らされていなかったのは日本だけでした。この手の未来予測的妄想は不確定な要素が多すぎて考えても無駄。いずれにせよ政府は国民生活を守らなければならない義務がありますから、その時こそ日本は「資本主義の看板を掲げた世界で最も平等な国」になるのではないでしょうか。

 これまで読んだ経済関係の本の中で印象深かったのは、水野和夫の『資本主義の終焉と歴史の危機』で、この本により近世ヨーロッパ以降の経済を非常によく俯瞰できました。そして、20世紀以降の金融資本主義について私の思考が混迷を深めていたところ、「求めよ、さらば与えられん」とはこのことか、つい先日、田内学『お金の向こうに人がいる』に出合いました。実のところここには経済について私が知りたかったこと全てが、小学生でもわかる言葉で書かれていて仰天しました。世の中には何と聡明な人がいることか。そして特にこと経済の話となると。頭の良さが健全な人格と結びついていることは結構まれであることを考慮すると、この方には「よくぞこの本を書いてくださった」と、お礼を言いたい気持ちです。常にお金の話に煽られている現代だからこそ、金儲け以外におけるまっとうな経済生活の指針を求めている人は多いはずです。お金に支配された虚しい生活は誰だって嫌なのです。聖書には、ローマ帝国への納税の是非を問われたイエスが、カエサルの肖像が刻まれた硬貨を指して、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と述べた話があります。ローマの貨幣は汚れたものとされていたため、ユダヤ人は神殿への納税にはユダヤの貨幣に両替する必要があり、これこそユダヤ人支配層の利権の温床だったのです。為替差益も手数料も取り放題という悪徳はいつどこでも生まれ、それは現代と何ら変わりません。まっとうな労働をしてまっとうな製品やサービスを売ることより、このような金融モデルが何か高度なことであるかのように考えられているのはおかしいと皆気づき始めています。お金ではなく、働く人という視点で経済の流れを考える・・・ここを突き詰めて全体像を把握し、誰もが不思議に思っていた疑問を解決する快刀乱麻の筆さばきには脱帽です。これまで当たり前にしてきた経済活動が、視点を変えるだけで全く別の様相を呈し、未来を有意義な方向へと変えることができるのだと強く思わされました。この本がもう少し早く、すなわち日本の中流層が壊滅的破壊を被る前に、世に出ていたらと思わずにいられません。不安に駆られて個々人がパイの奪い合いに明け暮れた平成の30年がつくづく痛い。でも手遅れではない、そう思えることはそれ自身明るい兆しです。「人様のためになることを考えて、自分ができる範囲でできることをする」という働き方でよかったのです。なんだか安心したな。


2022年7月2日土曜日

「何かが壊れたような・・・猛暑です」

  6月末からあり得ないほどの暑さになりました。段々熱がこもっていくのか、昨日は東京も37℃。救急車のサイレンを聞きながら「無理もないわな。この状況で働いている方は本当に偉い!」と心から思うのです。とても朝しか外出できず、7時の開店直後にスーパーに行くと、すでにレジにはペットボトル1本、おにぎり2個などを手にした出勤前の勤め人の列が・・・。二、三日分の食材でかごを一杯にした私は思わず、「お急ぎですか。先にどうぞ」と後ろの方に順番を譲りました。その若い方は「ありがとうございます。もう電車の時間で・・・」と駆けて行かれました。お仕事をしている人はとにかくエライ。こういう方々が日本を支えているのです。

 昨年小部屋にもエアコンを取り付けておいたのは正解でした。今は供給不足と聞いています。この猛暑でエアコン無しは、冗談抜きで死に直結すると思います。電力不足問題もあるので、ひと時に付けるエアコンは一台だけと決め、29℃に設定。でも他から入ってくると「寒い」と感じるほどの外の暑さっていったい…という感じです。全国では40℃越えの地点が多発しており、大地が、海洋が、大気が、すなわち地球全体が叫んでいるがごとき様相を呈しています。ウォーキングに行く早朝4時でも汗ばむ気温ですが、大きな森林を擁する公園に近づくと、100m前からでも冷気が伝わってきます。森林の力はすごい、人間には作れない自然のエアコンです。

 帰宅して朝のうちにすることはラジオ体操と料理です。というより、火を使う調理は暑すぎて朝しかする気になれない。あとは調理せずに食べられ、食中毒の危険が無いもの、買い置きができるもの(チーズや納豆)で補っています。食べられるうちは大丈夫と思い、好きなもの、食欲が出るものだけ食べていますが、常備菜の一例は冷やしたみそ汁、冷やした高野豆腐、玉ねぎと人参だけのカレー、きゅうり、かぶ、大根などのぬか漬け、なすの煮浸しなどです。麺類も朝のうちゆでておくと、あとがとても楽です。日中ショッピングモールや図書館に行く方も多いと思いますが、私の場合、そのわずかな移動でも不安があり、また感染症も心配なので、ひたすら家で読書、時々水浴びをして過ごしています。三食昼寝付きのいい身分です。

 太陽光パネルと蓄電池は今まで家の窓辺の内側に置いていましたが、夏場は陽が高くなり庇から差し込まなくなるので、一度がんがんに陽の当たるベランダに出してみました。すると一日で九分目まで充電され、太陽の威力を見せつけられました。陽が出ないと駄目ですが、これを利用しない手はないでしょう。全世帯が可能な限りの面積を太陽光蓄電に用いたら電力不足も解消されるのではないでしょうか。電力問題は「解決されては困る人々」がいることが一番の問題ですね。