2022年6月28日火曜日

「もう一度国民経済」

  前回書いたことは猛暑日が来る前の半ば空論でした。今は少しでも懸念材料があれば外出せず、ひたすら家で涼みながら静かに聴書しています。初の電力需給逼迫警報が出たのはわずか3か月前であれは寒さによるものでした。今度は猛暑のためです。個人的にエネルギーの節約は大賛成ですが、暑さに対しては寒さ以上に電機以外の代替エネルギーが思いつきません。どうすればいいのでしょう。ちなみに原発は選択肢にありません。

 モノの値段が何でも値上がりしています。感染症、ウクライナ戦争に加えて円安が露わになってきた時、すぐさま愛飲しているコーヒー粉を少し買いだめしたのですが、これはあっという間に今は1.5倍の値段になっています。少しもうれしくありません。こういうのをスタグフレーションというのでしょうか。単品の商品を幾らか賈いだめしても焼け石に水なのは明らかで、今後輸入品はもちろん、出来上がるまでに外国産の要因が絡んでこないものはほぼないのですから、あらゆる物の値上がりが続くのでしょう。中央銀行でマイナス金利を続けるのはほぼ日本だけになりつつあります。日銀としては金利を上げたくてもできないのでしょうが、日本だけがゼロ金利ということになれば、国際金融資本が不穏な動きを見せるのも当然で、今後膨大に膨らんだ国債の償還で国の予算が圧迫されるのは確実でしょう。日本だけで国際金融市場の猛攻に耐えられるわけがないからです。

 最近若い方の置かれた現状、またその未来を思うと忸怩たるものがあります。ここ20年日本の平均労働賃金は横ばいですが、これは日本だけのことで、新興国はもちろん他の先進国でも労働賃金は順調に伸びているのです。日本の労働生産性が上がっていないのが最大の原因です。私が就職して海外旅行を始めたのは既にジャルパック解禁から二十年以上たっており、バックパッカーが大挙してヨーロッパに来ていた頃でした。今より円安だった年もありながら、また民間就職でない者にはバブルも関係なく給与は低いままでしたが、それでもがんがん渡欧していたのは「日本に勢いがあったから」としか言いようがありません。日本が欧米に怒涛の輸出攻勢をかけていた時期で、「自分が持っている物は全部日本製」だと時計や電卓、家電を見せてくれた人もいました。地球の歩き方を手にした貧乏な若者が恐ろしいほどの数でのし歩いていたのは現地の方にとっては脅威だったことでしょう。現在は海外旅行の危険も増したので、海外に出ていく方はかなり気合の入った方々ではないかと思いますが、大いに世界から学んで成長していただきたいです。

 現在日本では万事がにっちもさっちもいかない状態ですが、これが20~30年続いていることを考慮すれば、この原因の多くは国民性に依拠していると思えてなりません。加えて、1960年頃からの高度成長期に作り上げられた制度と気質から脱することができない国民病がそれを後押ししているのだと思います。弊害となっているように見える国民性とは、①「安定第一で変化を好まない不安遺伝子」を持ち、②「集団としての協調的博打による決定」を行う慣習があり(これは『古事記』以来のもので、国生みで予想外の子が生まれた時に神々が話し合ってしたことは占いでした)、③「依存的心性=甘え」を共有しています。③はこれこそ日本的心性の特徴のように考えられてきたもので、相手がこのことを理解して対応してくれる場合は、「忖度」などの形で快適な馴れ合いとなり、逆に論理的合理性でぐいぐい迫ってくる相手の厳しさには堪え得ず、神経症的症状を引き起こす引き金となるものです。これら三つの国民性は、一つの失敗が致命的となりかねない現代社会においてますます強化され、全体として日本はすっかり身がすくんだ状態になっています。

 また、高度成長期にあまりにうまく機能したが故に、名残として強く内面化されてもたらされた制度とは、①「年功序列・終身雇用」、②「専業主婦」であり、それ以降の激動期に結果として現出した③「少子化」があります。これらは日本の活性化のためには時代にそぐわないものとして改廃や変更が必至なのですが、極端なメリトクラシーを採用している企業を別にすれば、まだ日本の中心的な場で延命が図られています。高度成長期を担った世代に育てられた子供の世代が、その快適さをできれば手放したくないと思うのは当然ですから、子の世代が就業のステージから消えるまで、この現象は残るのではないでしょうか。国際基準で日本経済を見ればこれほど追い込まれているのに、旧態依然として専業主婦願望を抱く女子大生は多く、また配偶者の就業を望まない男性もいまだ主流派なのです。現在の状態が変わらなければ日本の生産性が上がることは当面見込めないことになります。国内の生産性が伸びないため日本でも投資による利益の獲得が呼びかけられていますが、そのノウハウを持つ富裕層以外は、投資における恐ろしい失敗談を耳にしているため、リスクを取って挑戦し多くを失うよりは座して財産の目減りを待つ人が多いのかもしれません。何より投資というのは未来に対して行うものなので、高齢者の気を引きにくく、「そんな先まで考えられない」という人が無関心であるばかりでなく、子孫のための資産運用を考えている人にも最近の相続税増税は障害になっているはずです。

 一方、もはや日本は貿易立国ではないという点を踏まえれば、そこを目標にする必要もなくなり、別な方向に生産性を上げることで活路を見出すことができるのではないでしょうか。これから人口減少が起こるにしても、日本には当面1億人以上の市場が整っているのです。グローバル市場を目指す方には外貨獲得のためにも頑張ってほしいし、世界で活躍する同胞の姿はうれしいものですが、そういうことが苦手な方は無理に苦手なことをしなくても、国内でまっとうな商売をして生き残っていただきたいという思いです。世界において分業というシステムはもうリスクが大きすぎることが明確になりつつあると思います。日本に存在しないのでどうしても海外から買わないといけないものもあるでしょうが、代替物を探すか、テクノロジーの活用による国内生産を目指せないものでしょうか。値上がりしているバナナは日本でも栽培されつつあるようですし、コーヒーだってこれだけ暑く亜熱帯化した日本で作れないとも限りません。日本におけるコーヒー需要は衰え知らずですからうまくいけば引く手数多でしょう。サービス業ではまだまだいろいろな可能性があり、情報、交通、健康、医療・介護、家計及び資産管理、終活補助等の在宅サービスには伸びしろがありそうです。こういうところにこそ「忖度」の真骨頂を発揮し、丁寧できめ細かく、多くの人が気軽に使える安価なサービスの構築を期待します。これらのサービスに関わる企業に求める第一のことは、「信頼できる従業員(AIを含む)とシステムをどれだけ揃え、大事に雇用・メンテナンスできているか」という尺度が明確になることです。このようなサービスにおいては「信頼」が最大の価値だからです。電力、コーヒー、バナナ、在宅サービス・・・って、気がつけば自分に必要なものだけ書いていました。いや、本当に一番必要なのは教育の抜本的改革だということはいつも書いている通りです。


2022年6月22日水曜日

「夏支度」

  まだ梅雨明け前で気温は30℃そこそこだというのに、次第に体がキツくなっています。夏の健康対策としては暑くなる前にウォーキングなどの運動を済ませることが必須ですが、外出した翌日は早朝起きるのがつらいと感じたら、無理せず二日に一回でもいいことにしています。買い物も日が高くなってからではとても無理なので、9時頃までに終えるのが目標です。気分の良い早朝24時間営業のスーパーに行ったり、「7時から」、「8時から」というそれぞれの店舗の開店直後に買い物を済ませたりしています。近くにお店のバリエーションが多いのは本当に助かります。

 身体に直接関わるものとしては、とにかく「締め付けない生活」です。これまで以上にゆったりした衣服を心掛け、見映えなどは度外視です。5月頃のセールで恐る恐る幅の広いダボッとした木綿のズボンを1着買って試してみたところ、脚の間に空間があるのでスカート並みに涼しいことが分かり、さらに何着か買い足しました。また昨年盛夏に買ってあまり使わなかった卓上(というか携帯用)扇風機は、まだこのくらいの暑さなら馬鹿にできない快適な涼風をもたらしてくれます。このハンディ扇風機は太陽光で充電して使えるのでエコでもあります。

 もう一つ爽やかさを求めるとしたら、やはり「匂い」に関わるものでしょう。私は冷凍食品というものをほとんど購入しないので、普段冷凍庫にあるのは、アイスノンや保冷剤を別にすれば、今後値上がり確実なコーヒー粉、紅茶やお茶の茶葉、多めに買ったバター(個人的に数年前のバター不足騒動がまだ尾を引いている)や納豆、海苔などの海藻類など、恐らく冷凍する必要のないものです。帰省する時はヌカ床を冷凍しておきます。それでもまだ空間的に冷凍庫の余裕があるので、夏場はここに生ゴミを捨てるスペースを設けています。臭いが出ず、捨てる時も凍ったままビニールの口を締め、他のごみと一緒に出せるので清潔感が保てます。もう一つ、匂いに関する工夫としてはアロマオイルを活用しています。私が好きなのはヒノキ油、ハッカ油、ユーカリ油などで、水に何滴か落としてスプレーしたり、スポンジに垂らしてあちこちに置いたりしていますが、これは気分がすっきりして思った以上に効果があります。しかしこんな暢気なことを言っていられるのも、まだこれしきの暑さだからです。今年は7月、8月とどれほど暑くなるのか今から恐れています。


2022年6月16日木曜日

「バーナード・マドフに見る詐欺の構造」

  小さなものから大きなものまで世の中は詐欺に満ち満ちています。新しい法律や制度が施行されると、その隙間を突いて確信犯的に金儲けをしようとする人がいるのは最近いやというほど耳にしますが、普通に暮らしていた人が何か傍からは分からない理由で、駆り立てられるように詐欺的行為にはまっていくこともあるようです。最初は面白がって弄んでいたマモンもいつしか逆回転が起こるようにして、どこかで必ず終わる時が来ます。

 バーナード・マドフについて知る機会があり、大いに驚かされました。この方もはじめは名うての相場師としてウォール街でのし上がり、一時はナズダック(NASDAQ:全米証券業協会が運営する株式市場、主にハイテク企業やIT関連の企業など新興企業向けの株式市場)を作ったとも言われる人で、ただの詐欺師ではありません。マドフは、本物の富裕層は日ごとの株価変動から利益を得るより、長期的スパンで安定した利益を求めていることに目を付け、極めて閉鎖的な投資の会を設け、投資顧問として資産管理事業を始めました。マドフはユダヤ系であったため多くのユダヤ資本がマドフの会に接近してきますが、いろいろとうるさいことを言ったり、少しでも事業への疑問を呈したりする者を徹底的に排除するという仕方で会を運営していました。実際マドフは20年以上にわたって年に12~15%という利益を提供しており、スポーツ界、映画界、企業のセレブがこぞってマドフの会に入りたがり、彼らはそこから利益を享受していたのです。『夜』で有名なノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルのユダヤ財団もそうです。長期的に安定した利益を上げるとの話が閉じたサークルの中で口づてに広まり、有名人、慈善団体、学校のみならず、投資ファンドが関わってマドフの会は一挙に投資数を増していきました。

 投資の専門家も含め、なぜ年に12~15%の利益がずっと続くと皆が信じていたのか不思議です。マドフが「何かをしている」ことを皆知っていたはずですが、ごく少数のインサイダーとしての特権意識が正常な思考をマヒさせたのかもしれません。マドフは資金を運用などしていませんでした。ポンジ・スキーム(Ponzi schemeねずみ講)だったのです。すなわち集めた金は投資せず、運用利益に充てて拡大してきたのです。それなりに秀でた金融業者である彼がなぜそんなことをしたのかだれにも分かりません。ただその生い立ちから辿れることとして、彼が東欧系ユダヤ人であったことが影響しているのではないかと言われています。WASPが君臨するアメリカ社会でユダヤ系は独特の位置にいますが、同じユダヤ系でも鋭い区別があり東欧系ユダヤ人は排除された感を抱えていたようです。

 20年以上続いたマドフの会は、サブプライムローンに発するリーマンショックで金が引き上げられると返せなくなって破綻し、ねずみ講の実態が明らかになりました。結局マドフは2008年12月に逮捕され、集めた資金6兆円ほどを蒸発させた廉で、最高刑である懲役150年を宣告され、2021年4月に刑期半ばで死去しました。息子の一人は首つり自殺、ヨーロッパの上流貴族界で多くの投資者を引き入れていた貴族も手首を切って自殺するという悲惨な末路でした。

 私が今更ながら不思議だなと思うのは、これほど大きな事件が日本ではあまり報道されなかったことです。しかし少し考えるとその理由が分かりました。マドフの投資話には日本の金融界も乗っかっており、野村証券322億円、あおぞら銀行123億円をはじめ、保険会社なども被害に遭っていたのです。金融のプロのこの失態はあまりに不面目ですから、暗黙の緘口令が敷かれたか、またこの頃の金融界の方針に照らして不都合な事実を隠そうとしたのではないでしょうか。なぜなら政府と金融界は個人の金融資産を預金から株式投資へシフトさせるべく、NISAニーサ:少額投資非課税制度を盛んに喧伝していたからです。日本における株式や投資信託の投資金における売却益と配当への税率を、一定の制限の元で非課税とすることで経済成長を計っていたわけですが、マドフ事件は投資に関して当てになるものは何もないことを暴露してしまったのですから、金融界では口にすることが憚られたのも当然でしょう。詐欺被害というのは一様ではありません。卵を全部一つのバスケットに入れて全てを失った人がいるかと思えば、「被害者」を騙る人の中には「事前に決めた数以上の卵はバスケットからこまめに取り出す」ことを続けて、多額の儲けを手中にしていた者もいるのです。いずれにしても史上最高額の詐欺事件を知った今、大多数の人の胸に去来する思いは、「お金持ちでなくてよかった」ではないでしょうか。政府には、以前も述べましたが、日本の場合景気浮揚策として間違いなく有効なのは消費税減税だということに、目を向けてほしいと思います。


2022年6月9日木曜日

「給湯器来ました」

  最初、電話で業者名を聞いた時はぴんとこなかったのですが、「ご注文の給湯器が入荷しました」と告げる電話だとしばらくしてわかりました。水難の相が現れたのは1年10カ月ほど前です。帰省先から戻るとバスタブに水がひたひたのところまで溜まっていました。非常時に備えていつも栓を抜かずにそこそこ水を張っていますが、これは明らかに水漏れです。たとえ縁からこぼれても排水溝に流れるだけなので階下へ被害はありませんが、この不具合を解決すべく、すぐ風呂屋さんに電話しました。見てもらうと特に悪いところはないが、機器類の誤作動であろうとのことでした。「今すぐでなくてもゆくゆくは交換した方がいいですね」と言われて少し悩みましたが、しばらく様子を見ることにしました。生物であれ物品であれ寿命が尽きるまで待ちたい、古くなったからといって捨てるのでは可哀そうだという思いが強くありました。その後は機器をなでて励ましたり、感謝を伝えたりしていたせいか、とりあえず何事もなく給湯器は動いてくれていました。

 ところがそれから感染症問題が起き、瞬く間にその流行は広がって日常が変わり、世界が感染症対応一色に染まりました。次第に住宅関連の物品が入手困難になってきたとの報道があり、給湯器はその筆頭でした。少し騒ぎが収まるまで待ってからと思ったのは、まだうちの給湯器が頑張っていてくれたからです。しかし、労働力不足による様々な製品の払底は長期にわたることがはっきりしてきたため、給湯器の注文をしておくことに決めたのが昨年12月下旬です。発注から到着まで5カ月以上かかったことになります。てっきり忘れられていると思っていたくらいです。「フルオートを頼んでいたと思うんですが、ただのオートでもいいかなと思って・・・」と口にすると、「お客様、うちは注文をいただいてから発注しています。これから発注となると・・・」との声にハッとして、「わわわかりました、すみません。そのままで結構です」と言い、最短の翌々日に工事してもらうことにしました。代金は発注時に聞いた金額でした。日本の会社はえらいもんです。ポスティングされたチラシを見て「大丈夫かな・・・」と思いつつ電話で注文したのに、口頭で約束したとおりに滞りなく給湯器が入手できたのです。工事の前の晩はお風呂につかりながら「23年間ずっと働いてくれてありがとう」と給湯器に礼を言いました。恐れていた今年の寒い冬も何とか乗り切ってくれて、実際まだ壊れてはいなかったのですが、電池切れかお湯の温度や湯量を示すパネルの文字盤は読めなくなっていたのですから、掛ける言葉はもう「お疲れ様でしたm(__)m」しかありません。二十数年という年月は工業製品の進歩にとって十分な時間であり、新しいパネルには今までなかった機能を示すボタンがあるようです。段々に慣れてまた仲良く過ごしたいと思います。


2022年6月4日土曜日

「嘘のミステリ」

  私はよくミステリを読みますが、考えてみると好きな話の範囲はとても狭いことに気づきます。ホラーやサイコパス、スプラッタ系はパスですし、SF、ファンタジー方面も苦手です。狭い生活範囲で暮らしてきた自分にはあまりに不可思議もしくは異常な人物に登場されても、それこそ理解不能で、それらをエンタメとして読むには歳を取り過ぎました。そのため、さほど現実離れしていない、ありがちな事件の中にある意外な真相が解明されたり、ごく普通の一般人が抱える底知れぬ心の深層が明らかになっていったりするという点で、法廷もの(疑似裁判的なものでも良い)は楽しめるものが多いです。うまく作られた作品は、最後に大どんでん返しがなくてもしーんとした余韻を残して終わり、人をしばらく考えさせます。

 作品によっては、検察庁と警察庁の関係を巡る内幕や、それぞれの内部で渦巻く出世競争、昇進欲、保身術など、描かれ方がなかなか多彩になっているようですが、そういうのはちょっとうんざりで、私にとって興味深いのは法の専門家である検察と弁護人の法廷でのやり取りや、ド素人として登場する証人の証言および裁判員の意見です。否認する被疑者を検察が丸め込んで供述調書にサインさせたり、弁護人が提出する「白」の証拠を検察がメンツをかけて黒」と言いくるめるのがこの手の定番ですが、あっと驚く証人が登場し、証人尋問・反対尋問を通して今まで知り得なかった事実が明らかになるたびに、傍聴人として法廷を見ている読者は心を揺さぶられ、それまでの考えはオセロの目のように変化します。これが法廷ものミステリの醍醐味でしょう。

 私が一番強く感じることは、登場人物をエゴイズム、自尊心、罪意識等の観点から見ると百人百様であり、ゼロから100までのグラデーションがあること、また意識するとしないとに関わらず、誰もが誰かを何らかの意味で利用しようとするものなのだなということです。被告人が罪状を否認している場合は、状況証拠を突き崩し真相究明ができるかが鍵となり、また証人が宣誓にもかかわらず何らかの事情で嘘をつくケースもあるのですから、検察側、弁護側双方や傍聴人はみな絶えず当事者しか知り得ないブラックボックスの中身を正しく見抜く力を試されます。忖度社会の日本では当事者も事実を分かっていない場合が少なくありません。

 だいたいの事件は私のような人生経験の浅い者には、「どうしてそんなことしちゃったのかな」「なんでそんなふうに考えるんだろ」といったことばかりなのですが、中でも嘘を突き通す人には「本当のことを言った方が楽なのに」と単純に思います。ま、これではミステリにならないわけですが・・・。嘘をつく人というのは初めから確信犯的にそうしているか、あるいは嘘をついているうちに引っ込みがつかなくなって嘘をつき続ける、もしくは自分でもその嘘を本当だと思い込むほどに心を麻痺させてしまったのだと考えるしかありません。いずれにしても心のどこかで、「私は悪くない」、「嘘をついてでも私には復讐する権利がある」、「世の中の方が間違っている」、「世界は私の考えの通りになるべきだ」と思っているに違いないのです。今思い出したのは、『ゲッペルスと私』の中で、ホロコーストについて「最後まで何も知らなかった」と語り、「私に罪はない」と断言した、ナチス宣伝相の秘書ブルンヒルデ・ポムゼルです。順調な生活を送る職業人として、ささやかな日常の幸せを追い求めた結果があの大虐殺につながっているのですが、職務を誠実に果たしていただけという彼女は、全くのところ主観的には「私は悪くない」のです。「罪があったとするならば、私ではなく、ナチスに政権を取らせたドイツ国民だ」という主張も、彼女の思考においてはまさにその通りなのでしょう。長い人生の中でずっと変わらずそう思い続けてきたわけではないと思いますが、人生の最終章でこういう結論になるのはやりきれない気がします。神様の前に「私は悪くない」と言える人は一人もいないのですから、彼女が「私に罪はない」ことを淡々と語る映画の完成を見届けて、106歳で満足して亡くなったとすると、私にはこの人はもはや人間とは思えないのです。この方の言葉は多くの人を震撼させましたが、他方の極に「私は悪くない」と言う人々は一定数存在し続けるのでしょう。自らが神となる世界とは、すなわち神なき世界であり、そこには人間の命がなかったことを証明してしまったように思います。