東京に戻って十日も経たないうち、兄から電話とメールがありました。電話を取り損ね、見るとメールのタイトルは「りくの容体」。「えっ、容体ってどういうこと」と、慌てふためいてすぐ電話すると、次のようなことが分かりました。
私が帰ってから幾日もしないうち、りくは家の周りを一周するのがやっとの状態になり、それから全く外を歩こうとしなくなった。ご飯もりくの好きなものを工夫して上げていたが、だんだん食べなくなり、水も摂らなくなったのでクリニックに連れて行った。体重は6.6キロになっていた。お医者さんの話では、「高齢であり、点滴などで一時的に少し元気になれても、それは治療ではなく延命ということになる」とのことだった。兄とは「延命措置はしない」と話し合っていたので、りくを連れて帰宅した。つまり、老衰、寿命ということです。
私は取る物も取り敢えず、すぐ帰省しました。その日、りくはすっかり弱っていて、よろよろとかろうじて立てる状態でしたが、筋力が無く体が震えていました。水を湿らせたスポンジを口に当てたり、ストローの付いた注射器で水をあげようとしても飲まず、もちろん何も食べません。また、トイレを知らせてくるのですが、自分でしたいのにできないのが情けないのかワアワア声をあげて鳴いていました。可哀そうですがおむつです。
翌日はお座りするのがやっとで、もう立つことはできません。自分でも立てないことに苛立ってつらそうに鳴きます。夜は兄と交替で茶の間のりくに付き添い、こたつでうたた寝しました。
その翌日は時折必死で上半身を起こそうとしていましたが、やがてそれも難しくなりました。寝たきりになってからは時々りくを持ち上げて体の位置を変えたり、体勢を直したりしましたが、一度始まるとしばらく続く発作的な鳴き声が不定期で聞かれました。兄も私も食事や睡眠どころではなく、一晩中声掛けをしてすごしました。この日は新月でした。
その翌日、次第にりくの呼吸が浅くなっていき、徐々に衰弱していく様子でした。昼ごろ一度前脚を高く上げ、ピクピクと後ろ脚も上げようとしていたので、これは夢の中で疾走しているのではないかと思い、りくとハイタッチしました。散歩を思い出しているのかもしれず、カーテン越しに陽ざしを取り込みながら昼間を過ごしました。夜になり、兄が看ている時に大きく鳴いて、私も駆け付けると、りくは息を吐いてそれが臨終のときでした。老衰とはいってもこの四日間眠るようにとはいかず、りくにとっては決して容易でない大変な時間でした。ようやく安らかになれてこちらも少し安堵しました。「りく、がんばったね。えらい、えらい」 2月2日、午後9時35分でした。
2月3日(節分)、兄の運転でペットの火葬をしてくれる市の施設にりくの遺体を運びました。家にやって来た時のりくの鑑札を見ながら事務室で申し込みをすると、市役所へのりくの死亡届もここから連絡してくれるとのこと。ペットの遺骨は小鳥の森近くの新山霊園小動物納骨堂に納骨され、りくの納骨予定は2月22日と言われました。市の霊園で安らげるのでりくも喜んでいるでしょう。事務所を出て火葬場へ行くと、連絡を受けた係の人が立って待っていてくれました。写真ではありますが、色取り取りのお花の看板の前が遺体の安置場所になっていました。最後にりくの顔を見て、「お父さん向こうにいるからね」と言って、係の人にりくを託しました。すべて終わったと脱力。帰りは何か甘いものでも買って帰ろうと、めったに行かないケーキ屋に寄って帰宅しました。兄と茶の間で一息つき、放心状態で万事終わったことを実感しました。父が亡くなった後は茶の間の主はずっとりくでしたから、何か部屋はがらんとした感じです。「りく、もういないんだねえ。」