2022年1月29日土曜日
「紅春 196」
2022年1月24日月曜日
「ふるさと便とヴィタ・オイコノミカ」
「宅配送ったけど、明日家にいる?」と、両親の時代から親しくしている福島の方から電話がありました。1月は教会に顔を出せなかったので、ご心配をかけたらしく、動けるので心配はないこと、2月には礼拝に出席できることをお話ししました。翌日、荷物を受け取って中身を一つずつ机に並べていきました。出るわ出るわ"福島尽くし"と言っていい特産品ばかりで、漬物や柚子みそ、甘未・菓子類ほか、りんご、じゃがいも、玉ねぎが次々と現れ、宝箱を開くような楽しさでした。そればかりでなく、下の方には乾麺や私が常食としている山形産つや姫、お赤飯のレトルトパックまであり、なんだか笑いがこみ上げてきました。「この既視感は・・・」と考えると、それは学生時代に実家から送られてくる荷物の中身を取り出す時のわくわく感でした。
この荷物を運んできてくれた配達人は、幼いと形容していいほどの若者でした。「ありがとうございます」と頭を下げて荷物を受け取りながら、ふと胸を衝かれました。このようなエッセンシャル・・ワーカーがいなければ私たちの日常は一日たりとも成り立たないのに、その仕事の報酬として受け取る賃金を推し量って、「なんとかならないのか」と胸が痛みました。私はこの世の経済の仕組みに打ちのめされてから、まだ絶望感から抜け出せずにいます。政治家が、財界人が、官僚が、何か言うたび、「この人はこの発言をすることで本当は何を企図しているのか」と考える癖がつき、性格の悪さが倍加した気がします。「また巧妙な嘘を言っているに違いない」と疑ってかかるのです。人間の悪は詩編の時代から変わりません。
神に逆らう者に罪が語りかけるのが
わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。
彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
床の上でも悪事を謀り
常にその身を不正な道に置き
悪を退けようとしない。
(詩編36編2節~5節)
このところ経済という観点から自分の生涯を振り返って、我が「ヴィタ・オイコノミカ」はいかなる顛末かを考えてみましたが、何一つ取り上げる事柄がないほど何もしてこなかったことがわかりました。「道端に金が落ちているのに拾わない奴は馬鹿だ」と言われたバブル時代も、仕事に忙殺されてそんな道端があることさえ知りませんでした。当然、バブルの崩壊も何のことかわからず、皆が何を騒いでいるのか不思議でした。とにかく財テクというものを一切したことがなく、利益もない代わりに損害も被りませんでした。大きな買い物は住まいだけ、もちろん投資の対象ではなく、自分が存在するのにひつような場所のためであり、今は誰からも追い出されることなく、ずっと住み続けられることが生活の安心の源になっています。
その他にも思い当たる偶然的出来事がいくつかあり、私のような凡庸な人間に対して、要所要所で必要な知識を授けたり、不要な情報を隠したりして、私が経済的にも間違いを犯さぬよう見守っていた方がいることを確信しました。人は不安や欲望にかられると、「何もしないでいること」がとても難しい生き物だと思います。自分が愚鈍に思えて「やらないよりはやった方が・・・」と考えがちだからです。今になって神様が必要に応じて私の目や耳を塞ぎ、御翼の陰に私をかばってくださっていたことを知ろうとは。そしてその御翼の陰には、疑いを差しはさむ必要のない兄弟姉妹が共にいたのです。その慈しみはいかに貴いことでしょう。神様は人の悪だくみをそのままにしておかれる方ではありませんから、私は様々な不正に憤りながらも、あとのことは全て神様にお任せしていればよいのです。
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
主よ、すべて滅ぼしてください
滑らかな唇と威張って語る舌を。
彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
主は言われます。「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
主よ、あなたはその仰せを守り
この代からとこしえに至るまで
わたしたちを見守ってくださいます。
主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に
卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
(詩編12編2節~9節)
2022年1月17日月曜日
「庶民を貪る政官財の構造」
新型感染症の流行2年目の昨年、国の経済は一昨年のショック状態を脱したのか、上場企業は倒産件数ゼロと聞きました。また、経済的に体力のない事業所はすでに淘汰されてしまったせいか、全体としても昨年の倒産件数は数十年ぶりの低さと報じられていました。一方、特に飲食業、建設業等で働く人には引き続き辛い年となったようで、経済格差が改善される兆しはありません。
経済にはまるで興味なく過ごしてきましたが、あらゆる分野で再び浮き上がれないほどの日本の地盤沈下が明確になった現在、これからさらにどこへ向かうのか考えるために、経済関連本を読んでいます。これこそ、十人十色の見解で議論百出の分野であり、誰の言うことが正しいのかは素養がないのでわからないと思いがちです。しかし、庶民は誰でも日々の生活者としては経済の専門家なのですから、現実を説明できていなければ、その理論がいかに整合的に見えても「間違っている」と断言するところから始めることにしました。
各国が自国の頭脳を結集し、経済理論を駆使して経済政策を実行する中で、日本だけ急激に沈没していく理由は、これまでの理論が当てはまらない人類史上の局面に日本社会が突入しているか、もしくは他の国では適切な経済政策がとられているのに日本ではそうなっていないか、のどちらかだと考えざるを得ません。例えば、日銀総裁が2年で消費物価指数2%上昇を達成すると言って、2年どころかまもなく10年という時期にも実現しないならば、その金融政策は間違っているのです。自らの誤りを認めて謝るのであれば次の方法も考えられますが、経済政策の失敗をあたかも理論通りに動かないのが悪いと言わんばかりの傲慢な態度で、国民に責任をなすり付けるのはあり得べからざることです。
日銀や財務省の官僚はおそらく日本で最高の頭脳をお持ちの方々なのでしょうが、日本経済の悪化に端を発する国民生活の惨状はどんどんひどくなっているのですから、日本の経済・金融政策はド素人が見ても間違っていると断言できます。一般の民が全く消費意欲を欠いているのに、ゼロ金利、マイナス金利、マネー・サプライの大規模な量的緩和等々と、あれだけ異次元の金融緩和をすれば、後々さらにおかしなことになると考えないのでしょうか。ミニバブルや詐欺的商法を煽っているようなもので、実際そんな事件(典型的なのはシェアハウス〝かぼちゃの馬車″事件)もありました。加えて、日銀が自分で株を買って相場を吊り上げるなどということを、一国の中央銀行がおこなってよいものでしょうか。まっとうな分析をして正当な方法を検討せずに、なりふり構わずこのような所作に及ぶとは、資本主義を標榜する国としての矜持はないのでしょうか。この状態を放置していた政府も政府で、金融政策でダメなら、財務省を通して大規模な財政出動をすべきだったのは火を見るより明らかです。
問題はただ一つ、庶民の立場に身を置き、その思考う回路を辿って、なぜ消費意欲が起きないのかを突き止めればいいだけです。そしてその答えは既に出ています。国民は将来が不安なのです。コロナ禍での子育て世帯への臨時特別給付金を現金にするかどうかで議論がありましたが、馬鹿げています。将来への不安のために消費できないのですから、たとえ焼け石に水でも、庶民としては必需品以外の消費は控えて、「現金給付を貯蓄に回す」以外の正しい使い方があるでしょうか。
そもそもこのような事態に至ったわけは非正規雇用にあります。人件費のカットにより収益を伸ばそうとした経済界は、広告業界を使って「自由な働き方」という耳に心地よい気運を醸成しました。教育に携わっていた人間として、この辺りの潮目の変化は今でもまざまざと思い出されます。かくして、1989年に雇用者の約2割だった非正規雇用者は、2019年には全体の約4割となり、平成の30年間で倍増しました。4割というのはすごい数字で、すなわち働く人の5人に2人は非正規雇用になったのです。一般にざっくり言って、非正規雇用者の年収は正規雇用者の6割程度と言われます。この30年間に貧困層が激増したのはそのせいです。2020年4月に「同一労働同一賃金」を謳った改正労働者派遣法が施行されましたが、私はとても嫌な予感がしています。なぜなら、同一労働に対して同一賃金の支払いが義務付けられても、それが正社員側の給料額ではなく非正規雇用者側の賃金に合わせることを排除しないからです。現在日本の正社員というのは或る種身分的立場のようなもので、何か説明可能な違いがあってその境界が形成されたものではありません。そして、これまで企業がコストカットする時には必ず費用は最低の方に合わせてきたことを考慮すると、その先には「正社員って要らなくね」という方向に動いていくとしか思えません。おそらく非正規雇用者の割合はますます増加するでしょう。さらに、大手人材派遣会社パソナのグループ取締役会長が元経済財政政策担当大臣の竹中平蔵氏であることは誰もが知るところですから、30年間にわたる非正規雇用拡大の真の理由の深淵を見つめないわけにはいきません。政府が財界の要請を受けて非正規化を推し進めたのは疑いの余地がなく、この間に「働くことの意味」が徹底的に毀損されました。もちろんその見返りは政治献金や裏金として還流しているのです。そして経済界に有利な施行計画を起案する官庁は、あらゆる機会をとらえて、キャリア官僚の天下り先を拡大しているという事実があります。今述べたのは財務省に関わるものですが、これはもちろんあらゆる省庁に及んでいます。
次に、日本経済にとって不幸だったのは消費税であることがわかってきました。消費税が10%となった今、私はどうしても必要なもの以外は全く買わなくなりました。考えてみれば、子供の頃の家電「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)は私の家にも全部ありましたし、その後自活した私は耐久消費財3C(カラーテレビ・クーラー ・自動車)をすべて持っていました。しかし、その6つのうちで現在保有しているのは、洗濯機、冷蔵庫、クーラー(今はエアコンという)の3つだけです。それも購入にあたってはあらゆる方面から何日も検討し、納得してから買うのです。以前マンションの管理組合理事をしていた時、値の張る設備更新にかかる消費税額を確認して全員絶句、場が暗くなったのを覚えています。そのくらいこの消費税というものは消費を萎えさせる破壊力があります。
海外旅行をしていた頃よく見かけたVAT(Value Added Tax)付加価値税にあたるものを日本では消費税と呼んでいますが、記憶をたどって思い出すのは、ヨーロッパでは食品等にかかる付加価値税の税率は少なくとも標準税率の半分以下に抑えられ、国によってはパンなどの基本食品はゼロに近かったということです。レストランでの食事や旅行者が買うような土産品には標準税率をかけても、庶民が日々必要とする物には大幅な軽減税率を導入していたのです。日本で言えば今なら食品は消費税3%といったところでしょうか。この一点をとっても日本の消費税が海外に比べていかに苛酷なものであるかわかりますが、今回調べてみて、ヨーロッパ各国やカナダなどが物価の動向に合わせて臨機応変に付加価値税の税率を下げていること、そもそもアメリカには付加価値税がないことを知り、唖然としました。そしてこのようなことがメディアで喧伝されることがないのは、酒類・外食を除く飲食料品以外で軽減税率対象になっている品目は、「週2回以上発行される新聞(定期購読契約に基づくもの)<国税庁ホームページより>」のみであることと無関係ではないでしょう。有利な税率を獲得するのと引き換えに、消費税の実態に関する考察について口をつぐむことにしたと思われても仕方ありません。あれほど何でもアメリカの制度を採り入れる日本が税制に関してはなぜそうしないのか。「ヨーロッパの消費税に比べたら日本はまだまだ税率が低い」などと欺かれていいように税をとられる日本の国民は先進国で最も重税を課せられた民かもしれないと、心に大きな疑念が生じました。
消費税は、因果なことに、平成元年すなわち1989年に始まり、平成9(1997)年4月に5%、平成26(2014)年に8%となって、暗黒の平成デフレ時代を決定づけ、そしてついに2019(令和元)年に10%に引き上げられたのです。まるで非正規雇用者の増大と足並みをそろえるかのようなこの政策は致命的失敗だったと思います。賃金が目減りしていく中、そもそも可処分所得がほとんどない層が3~4割になって、日本は先進国の中で唯一マイナス成長の国に沈んだのです。これにより大量の貧困層が生み出され、国民の2割近くが想定規格外の貧困者(適切な例えではありませんが、20世紀半ばの日本が仮に、富裕層・上層中流層・下層中流層・下流層の4つの経済カーストから成る国であったとすると、現在はそのどこにも属せない、カースト外に出現した人々というほどの意味です)ともなると、もう打つ手がないような気がします。
しかし、これほど原因が明確なのですから、対処法は決まっています。非正規雇用者の賃金を正規雇用者並みにして可処分所得を増やし、消費税を撤廃もしくは税率を低下させるだけでしょう。少なくとも贅沢品以外の、日常的な衣食および日用品の消費税をゼロにすることが必要です。そのうえで法人税の税率および所得税のうちのいわゆる富裕層への課税割合を以前の水準に戻すこと、これに尽きるのです。
アメリカには消費税がないことを前述しましたが、それどころかアメリカは長い時をかけて付加価値税に反対してきた国であることを知った時には、文字通りひっくり返る思いでした。アメリカが採用しているのは売上税で、これは消費者が物を購入する時にかかる税を小売業者が上乗せして徴収し、その税額をそのまま国庫に送るという非常に単純な仕組みです。この点、製品ができるまでのあらゆる段階で課せられる付加価値税とは非なるものであり、強者が課税の負担から逃れるため、誰が消費税の納め主なのかを法律に明記していない日本の消費税とは根本的に違うものです。輸出企業に対してなされる還付金については後述しますが、この点を分析したアメリカは、「付加価値税とは結局のところ非関税障壁に他ならない」ことを見抜き、各国の付加価値税に別の対抗措置(受ける側からするといやがらせとも言う)を取ってずっと反対してきた歴史があるのです。アメリカと日本企業の間で時折起こる不可思議な事件(トヨタ車のリコール問題など)の意味はこの文脈においてすとんと胸に落ちました。何ということか、日本の庶民から搾り取ったお金が国同士の富裕層の間で行き来していただけだったのです。全く知らなかった事実を前ににしばし呆然とし、それから私は、「わが豊太郎ぬし、かくまでにわれをば欺きたまいしか」と叫んでその場に倒れ伏したエリスのようになりました。それからずっと頭の中をザ・ブルー・ハーツ「情熱の薔薇」の最初のワン・コーラスが駆け巡っており、つまり私の心は瞬時に壊れたのです。自国がこれほどまで悪徳に染まった者たちによって貪られているのを知るのは本当に辛いものです。
将来世代に借金を増やさないというプロパガンダによって、これまで国民は課税に甘んじてきましたが、これも国による酷い裏切り行為であることがわかりました。惻隠の状につけこまれて税をむしり取られている庶民があまりに憐れです。今回私にとって大きな収穫だったのは、マルクスでもケインズでもない現代貨幣理論MMTというものがあることを知ったことで、その概要を学んで考え込んでしまいました。穴がないというか非常に納得できるものだったからです。世界が金本位制による通貨制度で動いていた時代はこの理論が当てはまるかどうかまだ私の中ではペンディング状態ですが、無限にマネーを増やせる現在の経済ルールのもとでは現代貨幣理論MMTは正しいと確信しました。そしてこの理論は財務省が忌み嫌いそれゆえマスコミでもほとんど報道していません。これほど間違った政策をとり続けている財務省が否定する理論ならやってみて失うものは何もないというのが私の結論です。非正規雇用者の大幅賃上げは政府や財務省が直接できなくても、消費税をゼロにすることは宣言すればいいだけなので簡単にできます。これはかなりの起爆剤になるはずで、商品が売れて企業の収益が上がればやがて賃金にも反映され、よい循環が生まれるでしょう。そもそも人口1億2千万人以上もある国で国民が普通に消費すればデフレが解決しないはずがないのです。現在の政策こそが、国と財務省が手に手を取って経済が悪くなるよう悪くなるようにと進めているとしか思えない、愚かで悪辣な政策です。消費税減税で不足する分は国債を発行すればよいだけです。これまで度重なる赤字国債の発行を私も疑問視してきましたが、現代貨幣理論MMTでは政府の財政赤字こそが貨幣の供給量を示しており、経済成長へ導くものなのです。そして、ここが肝心ですが、徴税権を持つ政府が全ての価値の源泉たる貨幣を信用創出している以上、その貨幣によって財政破綻することはあり得ないのです。自国建ての国債がどれほど増えようと、貨幣を創造できる一国の中央銀行と一体の政府が債務不履行になることなどありえないことが納得できました。また、MMTをいったん脇に置いてバランスシートの観点から見ても、日本の国家財政はIMF(国際通貨基金)がお墨付きを与えるほど健全であることもわかっています。
そうなると、百害あって一利なしの消費税をなにゆえ政府・財務省が拡大してきたかを思いめぐらすと、考えたくないのですが、もはや政官財が結託して、広い意味で様々に私腹を肥やすためとしか思い当たりません。今回私が初めて知ったことはたくさんありますが、その一つは先に触れた輸出企業への還付金です。その仕組みはこうです。付加価値税は製品が市場に並んで売買されるまでのあらゆる段階でかかるものですが、輸出された場合は輸出先の製品に税はかかりません。そのため、帳簿上消費税込みの価格で輸出された製品に対して、企業にその分の還付があるのです。還付があらゆる段階の下請けの会社にまで及ぶのならまだ分かりますが、下請けからは消費税分を買い叩いて負けさせた場合でも、最終的に輸出した大企業に消費税分が還付されます。これは輸出産業を優遇するあんまりな仕打ちでしょう。ほとんど政官財が結託しておこなっている還付金詐欺と言うべきものではないでしょうか。消費税が上がれば上がるほど儲かる仕組みになっているのですから、この30年間笑いが止まらなかったはずです。なるほど、誰も消費税減税を言い出さないのはこのためだったのか。いや、それどころではありません。貪欲という欲望にはこれで満足という地点はないのですから、彼らはさらなる消費税率の積み増しを計画しているに違いありません。平成の時代を通してなされてきた、法人税の引き下げ、所得税における富裕層への税率低下によって減収した税額は消費税によって埋められてきたと思うと、自分のおめでたさ加減に泣きたくなります。
無論、社会保障費の徴収制度も大掛かりな見直しが必要です。第二の税・社会保障費を含めた日本における徴収額はもはやスウェーデン以上と言われています。税と社会保障費の一体改革などというでたらめなことをしているのは日本だけ、そもそも年金は保険にすぎないのに、国民に福祉だと錯覚させたところが狡猾です。税と社会保障費の一体改革を許してしまったため、福祉のために使うと言っていた消費税率値上げ分のお金が、実は福祉には全く使われなかったというようなことが起こるのです。消費税も社会保障費も、政・官・財の多種多様な利権(特に社会保障費は厚生労働省のフィールド)が絡んで膨張していることは疑いありません。年金、医療、介護、教育、各種の公的セーフティ・ネット等、どれをとっても私利私欲の温床になっていることに、もうへたり込むしかありません。私にできるせめてもの抵抗は、消費税率が下がる日まで、必要不可欠な物以外は意地でも買わないということくらいです。いや、そんなことは既に庶民は遂行していたのです。だから今こうなった・・・・。このままこれが継続されたら、消費が冷え込み、賃金は低下の一途を辿り、デフレがさらに進行、超貧困層が国民の半数以上という事態がもたらされるかもしれません。いずれにしてもこのまま政・官・財が一体となって、富裕層にのみ有利な政策を進めれば否応なくそうなるでしょう。精一杯働いても生活できない方々には、悪事に手を染めたり自らを消滅させたりすることで解決することなく、「遠慮なく公的扶助を活用してください」としか言えません。「国家が破綻する」という言葉に脅され続けてきた一般民衆として今わかるのは、それは「富裕層の人々が夢見る理想の国」が破綻するという意味にすぎなかったのです。貨幣の信用創造権を持つ国が破綻することはあり得ないのですから、民度の高い国民として、公的扶助予算の膨張による国債発行により流通する貨幣を引き出すべきなのです。国民の過半が公的扶助対象になった暁には、かつてとは比べ物にならない低レベルではありますが、「日本は世界で最も成功した社会主義国」になるのでしょう。「日本の破綻」への危惧を声高に叫ぶ経済強者自身は、自分でこの事態を引き起こし、深刻化させていることに気づいているのでしょうか。
2022年1月11日火曜日
「今年の確定申告」
東京に積雪のあった翌朝、ウォーキングも取り止めて家から一歩も出ず、空いた時間で昨年分の確定申告を行いました。この作業が憂鬱なのは、それまでいい加減にしてきた事柄を一気にまとめなければならないからです。概ね前年と大きく変わったところはないのですが、昨年は6か所9件の寄付をしたのでその入力に時間がかかりました。所在地と該当寄付先の入力は予めデータにまとめておいたものの、それが寄付の控除対象として「都府県と市区町村の両方から指定されている」、「都府県のみから指定されている」、「市区町村のみから指定されている」のどれにあたるか分からず、インターネットで調べるのが結構手間でした。毎年やっていればデータを保存でき、慣れてきて迷いなくできるようになるでしょう。
また、確定申告と直接には関係ないのですが、この機会にこのところ頻繁に来ていた保険会社からのダイレクトメールの追加プランをチェックし、普段気にとめていなかった現在の保険内容を明確に把握できました。なんとなく通院時の保障はないものと思い込んでいた保険にそれがついていたので、それ以上の追加プランは必要ないことが分かったのは思わぬ副産物でした。こういう煩瑣なことが私は本当に苦手です。
昨年までは入力だけで手いっぱいで、生命保険に旧制度と新制度があるのは何故かを考えもしなかったのですが、今回これが保険会社の都合ではなく国税庁の都合であることに、おそまきながら気づきました。旧制度の保険と2012年からの新制度の保険を比べて言えるのは、それによって控除額の減額を企図しているのだということです。このあたり、2016年の相続税制の改定により、例えば東京で持ち家に住んでいるだけで、ごく一般の庶民にも課税が拡大したことと方向性を一にしています。国税庁が全体的にちょっとずつ庶民に増税し、必死で税をかき集めつつあるのは確かなようです。極めつけの大増税は2019年の10%への消費税引き上げで、こういう一連の流れに気づかずのんびり過ごしていた自分が情けないです。今回の確定申告で、食わず嫌いにならずに財務省の非情な手口について、きちんと学習する必要があるなと感じました。この国の政策は税制においてももはや関心がないとは言っていられないレベルです。
2022年1月7日金曜日
「二つの居住地」
先日福島の知り合いの方から、その後の体調伺いの便りがあり、また他の方々からもご心配をいただき、誠にありがとうございます。体の状態は日一日と回復しております。12月下旬に東京に戻ってまず感じたのは「暖かい!」ということでした。当初は常夏の国に来たかと思うほどの暖かさで、それもそのはず、マンションの気温は最低でも14℃はあり、太陽が出て日差しが入るとさらに4~5度は上がります。(さすがに10cmの積雪があった今朝は12.9℃まで下がっていましたが。)暖かいというのは睡眠の次に体に効くようで、痛みがほとんどなくなりました。まだゆっくりながら動きがスムースになり、脚を弱らせぬよう一歩一歩踏みしめるように散歩しています。骨折直後は仰向け状態のベッドから体を起こすことができず、そろそろと回転しながら足を床につけて腕の力で起き上がっていたのが嘘のようです。やはりすぐ上京してよかったなと思います。福島では石油ファンヒーターをつけずに身支度はできませんが、東京ならエアコンなしで着替えられます。一度早朝にエアコンが寒さで運転しないことを確かめてからは、必要を感じず一度も使用していません。今朝は東京電力が電力逼迫のため東北電力に協力要請をしたとの報がありましたので、なおいっそう節電に励むつもりです。
東京に雪が降る数日前ですが、帰郷できない分、ネットスーパーで福島に食料品やドッグフードの宅配を頼もうかと思案していたところ、ホームページを開くと全ての時間帯で宅配停止。理由は書いていませんが、クリスマス頃からの大雪のせいに違いありません。兄に電話すると、まだ自宅以外の駐車スペースの雪かきができていないから、宅配の手配はもう少し後にしてとのことでした。私が福島を出てくる時より悪い状態になっているようです。雪かきが不要で、雪道を歩いて買い物にいく必要もない状態というのは雪国では途方もない贅沢です。冬場は古傷が痛むという話も聞きますので、今の私は足手まといになるだけで、当分帰省は控えるしかありません。
このように住みやすさの点で冬場は東京に軍配が上がりますが、夏はどうでしょう。命の危険を感じるほどの猛暑はもはやエアコンで何とかしのげる程度ではありません。福島も暑いですが朝晩は涼しさを感じられる日も多く、自然のエアコンが効いているのです。最近は首都直下地震、荒川等河川の氾濫や決壊、富士山噴火の脅威にも脅かされています。日本中どこでも安全なところはないのかもしれませんが、感染症の時代、海外各国の対応法がわかってしまった今、「あまりに強権的な自由の制約がなく、皆が概ね公衆衛生を守れるだけ、まだしも日本の方がいい」と感じ、海外移住には不安しかないと思った人も相当数いるでしょう。居場所を一つに絞るのはなかなか危険かもしれないと感じつつ、かといってどこも安全とは言い難い。私はたまたま往復生活となり、それぞれの地のメリットを享受していますが、それまでに縁の深かった土地を、安住の地として幾つか心に抱ければ十分なのかもしれません。
2022年1月3日月曜日
「フィールド研究者の記録を読んで」
以前見た映像があまりにトラウマティックだったので、昆虫関係の本は無理だなと思っていたのですが、この年末年始はサバクトビバッタの若手研究者前野ウルド浩太郎氏の一般書を二冊読みました。ともすればふさぎがちの日常にあって明るさの機運を感じたかったのです。「出エジプト記」でヘブル人を去らせまいとするファラオと向き合ったモーセに神は、カエル、ぶよ、あぶの大群、家畜の疫病、腫れ物、雹による災害、いなご、暗闇などの対抗手段を与えましたが、どうもこの「いなご」というのがサバクトビバッタのことらしく、他の3つの生物とともに、サバクトビバッタは人類史上最古の災いとして記録されていたわけです。その羽の複雑な模様はヘブライ語で「神の罰」と記されていると考えられているという話は初めて聞きましたが、それは紛れもなく、このバッタの大群が飛び去った後には植物は何一つ残らず、恐るべき飢饉をもたらしたためでしょう。
前野ウルド浩太郎氏はどちらかというとさかなクン系の真面目な研究者で、フィールドワークの世界に飛び込める行動力だけでも私などにはもう異能の人です。子供の頃読んだ『昆虫記』に魅了され、ファーブルへの憧憬が半端なく、また「バッタに食べられたい」とわざわざ緑の服を着てバッタの大群に対峙するなど、博士の異常なバッタ愛も見受けられますが、科学者なるものこうでなくてはいけません。日本学術振興会から研究資金を得てモーリタニアに渡り、慣習の違いにとまどい、失敗しながら、現地の研究所の方々や遠征スタッフと信頼関係を築いていきます。欧米人研究者はテロの対象になる危険のため、或る程度長く腰を据えて研究することが難しいという事情もあり、また一方で、研究所が蓄積してきたデータを持ち去ってしまうといった出来事もあり、現地の研究員は新参者を疑いの目で見ていました。しかし、体を張った前野氏の研究姿勢に現地の周囲の見方が変わっていきます。政府開発援助(ODA)が機能していたことも幸いしました。この記録は相手の慣習を踏まえた上で、丁寧に時に豪快に、常にまっとうであろうと心がけて対処していけば、相互に信頼し合える関係になれることを教えてくれます。バッタに遭遇するには、いつ、どこに、どのくらいの規模で発生するか皆目わからないバッタの大群情報を集め、時を逃さず飛び出していくしかない、そしてあっという間に雲散霧消してしまうスピードを考えれば、確かにファラオにはモーセが魔術を使ったとしか思えなかったことでしょう。やはり研究室で飼育されているバッタと戸外にいる野生のバッタは別次元です。バッタの大群発生のメカニズムが解明されて、多少なりともその群生の在り方が制御できれば、現地の農業にとってどれほどの恵みになることでしょう。気候変動によりバッタ問題は他の地域に容易に拡大する様相を呈していますので、日本では顧みられることの少なかった研究が大きな貢献をする時がきっと来るでしょう。
サバクトビバッタの個体は孤立して存在する孤独相の時は緑色ですが、群れて群生相になると黒とオレンジの縞模様になります。混み合いの具合によって変異するというのは、周囲の状況が変化して群れをつくることになった時には、個体としては何か別物になることを示しています。これは、環境の変化によっては自らも変化しないと生き延びられないということかもしれませんが、個体でいる時には通常緑色なのですから、群生の時は何かしら体に負荷がかかっているのではないでしょうか。飛び去ったバッタの群生は皆何事もなく通常モードに戻れるのでしょうか。また、何が群生を引き起こすのでしょうか。非常に興味深いことです。
一般に生物は環境の変化の中で子孫を残すために最適の選択をしますが、バッタの場合はその指標になるのはこの「混み合い」という密集度合です。混み合いの状態によって雌が産む卵のサイズと数を調整しているのです。孤独相の時には小さくても数多くの卵を生むことが、また、群生相の時には大きなサイズの卵を少数産むことが状況に最適化することになります。こういったこと全てが非常に示唆的で、たとえ不適切な仮説になろうとも、様々な観点から生物としての人間を真面目に考え直さないわけにはいかないのではないでしょうか。
前野氏の奮闘の記録にはもう一つ大事な側面があります。ポスドクの問題です。そもそも背水の陣でモーリタニアに渡ったのは日本にオーバードクターがあふれてポストがないからです。そんなことは昔からあったというなかれ、というのは昔とは次元の違う大量のオーバードクターの発生は、30年前に始められた大学院重点化政策によって人為的に生み出されたものだったからです。すなわち、十八歳人口の減少による学生減少時代を切り抜けるため、まず東大法学部と文科省が画策して大学院の重点化が行われ、これに他大学他学部が倣って大学院の増員がなされた結果、ドクター過程を修めても就職口がないという現在の絶望的な状況が起こっているのですから、これは明らかな人災なのです。時折、彼らに関して非常に痛ましい報道がなされますが、ここまで若者を欺き躓かせ希望を失わせることが許されてよいのでしょうか。まだ社会に出たことのない、寄る辺ない小さな者たちに対し、このように無慈悲な仕組みをつくって踏みにじる悪辣な者たちを神様も決してお許しにならないでしょう。前野氏は幸い成果を上げてその後のポストを得ることができましたが、人文・社会学系の学問ではさらに厳しい状況に違いありません。研究というものは必ず成果を上げられるとは限りません。どんな発明、事業でもうまくいくのは「千三つ」ほどというではありませんか。千に一つでも大きな業績が上げられればそれは国の宝になるはずです。前野氏が学術振興会から得た研究費は400万円にも満たなかったはず、いま若い研究者に国費を投じなくていつするのでしょう。国には少なくとも1万人規模の研究者に必要な研究費と生活費を投資してもらいたいと思います。現在私利私欲に駆られた利権を守るために使われている税金に比べて、それがどれほどのことでしょうか。税金は真に有意義なことに使ってほしいものです。研究者にとって研究費と生活費は一体のものだというのは世界の常識であり、昨年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏は「渡米して年収が25倍になり生活の心配なく研究に専念できた」というような話をされていたではありませんか。研究に没頭しても必ずはかばかしい達成があるとは限りませんが、没頭なくして達成なし。明日の米びつの心配をしながら研究などできるわけがありません。千三つとしても、大きな業績が三十もあったら途轍もないことになるでしょう。研究意欲にあふれた人は大勢いるのですから、若い研究者をつぶさないでほしい。年頭にあたって言いたいことは、「研究したい人には研究させてやれよ」に尽きます。それにしても正月から憤怒の情にかられ、つい呪いの言葉を吐いてしまった、いかん、いかん。