2020年12月31日木曜日

「2020の年末」

  2020年はおそらくここ最近で最悪の年として、人々の脳裏に刻まれることでしょう。3日前、私に今年最後の災厄が降りかかりました。使っていた外付け記憶媒体をPCが認識しなくなったのです。「前にもこんなことがあったなあ」とっがっくりきましたが、「熱力学第二法則かしら、物事は次第に乱雑になっていくものなのよね」と、もはや慣れたもの。どこまでバックアップしてたかな~と、同じ失敗を繰り返す自分を叱りながら、「でも、ま、しょうがないか」とデータの回復に努めました。今年は本当に大変な年だったので、このくらいの事は何でもないとおおらかな気持ちになれているのかもしれません。

 しかし、年末にこんな事態になった事実はよく考えるに値します。「もしかして、これは2020年はまだ序章にすぎなかった」ということを示唆しているのか・・・・と不吉な思いが浮かびます。感染症の状況は、感染者数の増大、重症者数や医療現場の緊迫度、ウイルスの異種の登場など、今のところ良い方向に向かう兆しは全くありません。

 失われて復元できないデータをあきらめかけて、何故かふと認識されない記憶媒体は些細な不具合にすぎないような気がしてきました。抜き・差しの際、特に問題のあるやり方をした記憶がなかったからです。ちょっとした埃が読み出しを妨げている可能性もゼロではないと考えて、息を吹きかけてきれいにすることにしました。土くれにすぎない人間も神の息を吹きかけられて命あるものとされたのです。記憶媒体とそれをつなぐコードの穴に、気合を込めてプネウマを注入。それから、念のためPCに接続してみると、なんと認識されるではありませんか。急転直下まさかの解決でした。プネウマ恐るべし。なんだかモヤモヤした片付かない気分ですが、最終的にこの年の瀬は吉兆で終わったと言っていいのでしょうか。



2020年12月25日金曜日

「クリスマスに知るピラトの言葉」

  昨年はクリスマスの時期にたまたま主イエスの十字架の死と復活の聖書箇所が当たっていたので、降誕とは違う視点から気づきを与えられましたが、今年は説教の中でで引用されたピラトの言葉から発見がありました。細かい違いはあるものの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)がこぞって証言するところでは、捕らえられたイエスはまず大祭司のもとに連れてこられて尋問されますが、ほとんど語ることなく、今度は総督ピラトに引き渡されます。つまり、ユダヤ人コミュニティからローマ帝国の権力下へと身の置き場が変わります。これは祭司長、律法学者といったユダヤ人支配階級が自らの手を汚さずにイエスを亡き者にしようと画策した結果ですが、ローマ総督ピラトにとっては迷惑な話だったに違いありません。事実、彼はイエスの罪状であるユダヤ人の王という僭称疑惑について尋問した挙句、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカによる福音書23章4節)と言うのです。

 この場面でピラトは、明らかにユダヤ人によって困った立場に追い込まれて、仕方なくイエスを十字架につける決定をするという書き方がされているのに、「使徒信条」でははっきりと「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と、未来永劫キリスト架刑の張本人のようにされていることを、私はちょっと気の毒に思っていたのです。ヨハネによる福音書はかなり違った筆致で詳細にイエスとピラトのやり取りを描いています。18章33~38節にはこうあります。

18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 

18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 

18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 

18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 

18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 

18:38ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

 このピラトの「真理とは何か」という言葉を非常に深遠な問いだと感じていたこともまた、私の思い違いを増幅してきました。この問いの答えを私も知りたいと思ってきましたし、もしピラトがこの問いを突き詰めて考えていたならと残念でならなかったのです。しかし、今年のクリスマス礼拝の説教の中で、この言葉はむしろ「真理などあるものか」という意味に解した方が適切なのではないかとお聴きして、長年の疑問が氷解しました。この地方の政治と裁判における全権を持つローマ総督として、酸いも甘いも噛分けてきたピラトには人間が真理を語るなど笑うべきものだったのでしょう。35節の「わたしはユダヤ人なのか」からもわかるように、この手の疑問文を装った冷笑に満ちた表現がピラトのしゃべり口なのでしょう。ピラトは二千年来変わらない為政者の姿に過ぎなかったのです。ここには、何重にもなった支配体制の中で大物、小物を問わずそれぞれに罪にまみれた情けない支配者の姿が余すところなく描かれています。そしてたった一つ心に刺さる真実の言葉は、37節の「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」というイエスの言葉だけです。真理に属するためには主イエスの声を聴く以外ないのです。今年のクリスマスが主イエスのご降誕の本当の意味を知る静かな祝いの時になるよう願ってやみません。


2020年12月22日火曜日

「紅春 169」

 

 先日、関越自動車道の大雪が大きなニュースになり始めた頃、帰省の新幹線に乗りましたが、郡山まで雪は全くなし。普段だと雪は白河あたりから始まり、ずっと続くのですが、二本松、安達付近も雪がなく、「なんだ、こっちは降ってないのか」と思ったら、福島市への最後のトンネルを抜けたら、文字通り真っ白でした。福島だけピンポイントでかなりの積雪、参りました。

 帰省してから毎日雪掻きですが、りくの様子は今までと違いました。これまでは雪を喜んで、雪の中でピョンピョン跳ねていたのに、今はあまり外に出たくない様子。連れ出してもどっちに行ったらいいか迷って、八甲田山彷徨状態。やっとトイレだけ済ませて帰ってくると、自分からスタスタと戸口へ。外に居たくないのです。だいぶ弱ったなとがっくりします。あとはひたすら丸くなって寝ています。

 でも、ごはんを結構パクパク食べてくれるのは、安心材料の一つです。寒いとエネルギー消費量が多いのでしょう。最近はヒルズの「腎臓ケア」と「小型犬・シニア13歳以上」というのに変えて食べさせていますが、比較的よく食べます。「小型犬・シニア13歳以上」は粒が小さいので、年老いた歯には食べやすいのかもしれません。なるほど。この二つをベースに鶏肉、豚肉、チーズ、卵などを日替わりで少しずつ混ぜてやっています。今のところ食事問題は一段落したという感じです。

 それにしても、雪が長く続くとりくの脚が弱ってしまう。それに土手は雪が多すぎてとても散歩にならない。大雪の後、除雪車が出て歩きやすくなったこともあり、今は朝の散歩に買い物がてら1キロ先のコンビニまで行っています。ただ車が危ないので、5時前に行っています。りくは一日中寝ているせいか、朝4時には起こしに来るのです。冬は4時起きは勘弁してほしいな~。


2020年12月17日木曜日

「移動の緩急生活」

  東京―福島の往復生活を始めて8年以上になります。移動自体は交通機関が整っているので問題ないのですが、乗っているだけで疲れる気がするのは移動先が互いに異空間のせいだと思います。まるでトンネルを抜けて異界へと行き来するようなものなのです。これに慣れるため、少なくとも移動日は全日つぶれます。

 福島では、夏は雑草や藪蚊と闘い、冬は吾妻おろしと雪に立ち向かう生活です。以前は食料や日用品の買い出しも大変でしたが、もうこれはほぼネットスーパー頼みのズルをしています。りくも散歩をせがんでくるので構ってやらなければなりません。感覚的には1週間福島で過ごすと、3週間は東京で休まないと体がもたない感じです。

 しかし一方で、往復生活に心地よさも感じるのです。頬に刺すような寒風を受けて進まない自転車をこぐ時、いつ果てるとも知れぬ雪掻きに没頭する時、また、りくの散歩に付き合ってひたすら歩いたり、リュックを背負ってりくと買い物に出る時、体の中の野性が目覚めるのです。ここで暮らすのは無理でも、この厳しい自然が自分を育んできたのをまざまざと感じます。特に冬は、「風よ吹け~、雪よ降れ~、吹雪よ荒れ狂え~」と、もうどんなに荒れても気にならなくなります。人間は自然の力にはかなわないのです。人間の卑小さを思い知らされるのは小気味よくもあります。今年はすでに大雪の気配、気合を入れて帰省しなければ。


2020年12月13日日曜日

「歯科治療」

  春先にとれた奥歯の詰め物の治療をやっと始めたのが秋口でした。髪の手入れは美容院から手渡しされたマスクをしたままできても、さすがに歯の手入れはマスク着用ではできません。感染症はもうそろそろいいかなと、行ったことのない初めての歯医者さんに行ってみました。歯科医を変えた理由は特にないのですが、同様にこだわりもないので、新しいところを試してみることにしたのです。帰りに買い物や所用をするのによい位置にあることも、一つの要因です。歯科治療が好きな人はいないでしょうが、医療全般に言えるのは治療後は自分にご褒美をあげたくなることでしょうか。

 今度の歯科医の第一印象は「ずいぶん若い人だな」というものでしたが、とても腕はよいという気がします。レントゲン画像から、悪いところを数か所説明してくれ、一つ一つ治療していきます。最近の歯科医療のテクノロジーの進歩は目覚ましいものがあり、とても便利に改良されているようです。こういう技術革新にキャッチアップするには、若いことはむしろアドバンテージなのかもしれません。歯科医が治療痕を見れば、これまで受けた治療やそれを施した治療者の腕前が一目瞭然に違いありません。それまでの治療が今後に影響を及ぼす時は、説明を受け、今後長持ちする治療へと変更されます。

 通い始めて三カ月以上たちますが、一度も痛かったことがなく、型を取った詰め物も一度で驚くほど問題なくぴったりと収まっています。このあたりも勝手な想像ですが、昔は歯科技工士の職人技だったものが、今ではAIの技術に取って代わられつつあるのかもしれません。これはこれで大きな問題だなと考えてしまいます。まだまだ治療が終わらないのは、型どりした詰め物ができるのに2週間ほどかかるのと、福島への帰省が重なって治療が先に延びるからです。

 思い返せば、これまでは歯医者通いが終わると歯の手入れに手抜きが生じていました。でも、何といっても自分の歯で噛んで食べることは「生きる」ことの基本ですから、今回こそは歯ブラシだけでなく、歯間ブラシやデンタルフロスによる手入れも続けようと決意しています。八十代でも入れ歯なし、全部自分の歯といううらやましい方もいますが、これまでサボってきた私としては今からでもできることを地道にやっていくしかありません。あまり目新しい治療はするつもりがありません。別の方面から聞いた話では、インプラントにした人が認知症になってしまうと、入れ歯のように外せないで、介護の場では自分を傷つけてしまうような大変な事例もあるようです。どんな分野にも言えますが、テクノロジーの発展の功罪を検討するには少なくとも一世代の時間が必要です。



2020年12月7日月曜日

「ちぐはぐな現実の先に」

 大阪や旭川での医療現場の逼迫が懸念されています。旭川は国内最大の医療関係者のクラスター、大阪では満床のため患者が適切な医療を受けられず亡くなったと報道され、どちらも医療崩壊と言わざるを得ないでしょう。その地域に限らず、医療関係者が休みなしの体制で疲弊する状態が続く一方、旅行・観光および外食を奨励する政府の支援策も並行して行われている現状があります。「経済を回さなければ」と、この機を逃さずトクをしようという人々は多く、それなりの効果は出ているようです。しかし、一度価格破壊が行われると定価通りの正当な支払いがバカらしくなるのが人の常ですから、支援期間終了後、あちこちで閑古鳥が鳴いた英国のようにならなければよいがと思います。政府は「マスク会食」というどう考えても無理な方策まで提案していますが、誰も変だと思わないのでしょうか。矛盾する二つの要求を同時にかなえようとすれば人間なら精神を病んでしまうでしょうが、この「マスク会食」案はその事例かもしれません。たとえ「狂う」というリスクを冒しても、政府は誰も責任を取りたくないのでしょう。

 労働によって元手に価値を加え、新たな価値を生みだすのが資本主義とすれば、業種や分野によっては感染症後の社会に適合するものを生産できる可能性は十分あります。しかし、広域での人や物の移動に制限があると、地域における経営の仕方が問題で、場合によってはうまく適応できない事業者もあるでしょう。多くの場合、大きな利潤を上げることが目指しにくくなるのではないでしょうか。利潤をあげられなければ、資本主義は継続できないのですから、感染症は資本主義を終わりに向かって加速させている感があります。

 金融関係では、日本に限らず世界中で実質的にゼロ金利に向かっていますが、これは私には資本主義の終焉を示すものとしか思えません。リーマンショックによって明らかになったように、無理やり創出した株式市場の需要は複雑すぎて一般の人は手が出せず、特にこれが実体のない博打であると知っている現在は、せいぜい年金の運用が大損しませんようにと手を合わせて祈るくらいしかできません。

 唯一、自然に働きかける農業は少し違うのかなと思います。自然というのは何千年も昔から特別なものだからです。

「人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

   (マルコによる福音書4章26~29節)

 商品としての農産物ではなく、人間が生きるのに不可欠な食物としての農産物を作る心持ちは、おそらく今も同じでしょう。農業ほどきつい仕事はないと言われますが、それでも農夫はこの変わらぬ不思議な働きに打たれて働いているに違いありません。売るためではなく、自分で食べるために農業をする時、もはや資本主義とは別の地平が見えてくるのかもしれません。そうしてみれば、上記の引用句が、「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである』に始まる言葉だということと考えあわせて、非常に意味深く思われてきます。