昨年はクリスマスの時期にたまたま主イエスの十字架の死と復活の聖書箇所が当たっていたので、降誕とは違う視点から気づきを与えられましたが、今年は説教の中でで引用されたピラトの言葉から発見がありました。細かい違いはあるものの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)がこぞって証言するところでは、捕らえられたイエスはまず大祭司のもとに連れてこられて尋問されますが、ほとんど語ることなく、今度は総督ピラトに引き渡されます。つまり、ユダヤ人コミュニティからローマ帝国の権力下へと身の置き場が変わります。これは祭司長、律法学者といったユダヤ人支配階級が自らの手を汚さずにイエスを亡き者にしようと画策した結果ですが、ローマ総督ピラトにとっては迷惑な話だったに違いありません。事実、彼はイエスの罪状であるユダヤ人の王という僭称疑惑について尋問した挙句、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカによる福音書23章4節)と言うのです。
この場面でピラトは、明らかにユダヤ人によって困った立場に追い込まれて、仕方なくイエスを十字架につける決定をするという書き方がされているのに、「使徒信条」でははっきりと「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と、未来永劫キリスト架刑の張本人のようにされていることを、私はちょっと気の毒に思っていたのです。ヨハネによる福音書はかなり違った筆致で詳細にイエスとピラトのやり取りを描いています。18章33~38節にはこうあります。
18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
このピラトの「真理とは何か」という言葉を非常に深遠な問いだと感じていたこともまた、私の思い違いを増幅してきました。この問いの答えを私も知りたいと思ってきましたし、もしピラトがこの問いを突き詰めて考えていたならと残念でならなかったのです。しかし、今年のクリスマス礼拝の説教の中で、この言葉はむしろ「真理などあるものか」という意味に解した方が適切なのではないかとお聴きして、長年の疑問が氷解しました。この地方の政治と裁判における全権を持つローマ総督として、酸いも甘いも噛分けてきたピラトには人間が真理を語るなど笑うべきものだったのでしょう。35節の「わたしはユダヤ人なのか」からもわかるように、この手の疑問文を装った冷笑に満ちた表現がピラトのしゃべり口なのでしょう。ピラトは二千年来変わらない為政者の姿に過ぎなかったのです。ここには、何重にもなった支配体制の中で大物、小物を問わずそれぞれに罪にまみれた情けない支配者の姿が余すところなく描かれています。そしてたった一つ心に刺さる真実の言葉は、37節の「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」というイエスの言葉だけです。真理に属するためには主イエスの声を聴く以外ないのです。今年のクリスマスが主イエスのご降誕の本当の意味を知る静かな祝いの時になるよう願ってやみません。