2020年11月30日月曜日

「紅春 168」


 このところ、りくと庭にいる時間が増えています。庭木の伐採をしているのです。垣根が厚みを増して道路にせり出しているのをなんとかしようと、はしごで上からのぞいてみたらすごいことになっていました。二股に分かれて南北二層の壁を形成しており、その間をひねこびた小枝が迷宮を作っています。垣根を一重にするため道路側の太い枝はほぼ全部のこぎりで伐採し、残った側も伸びすぎた上部を30センチくらい切り落としたので、処分すべき枝が山ほど出ました。りくは私が何をしていようと一緒に外にいるだけでおとなしく満足気です。私はのこぎりの切れ味に感動しながら無心で仕事に集中、気温10度くらいの中でも汗ばむほどでとても爽快でした。

 垣根はほとんどがイヌツゲですが、一部なぜか杉もあり、これは日の当たらない内部は枯れていたので、とりあえず上部をカットしました。他に庭の中央にケヤキがあり、夏は涼しい木陰を作ってくれるのですが、今は少しでも陽が入るようにはしごで手が届く範囲は切り落としましたが、中心の大枝は天まで届けとばかりにまっすぐに伸びているので、とりあえず伐採を断念しました。

 庭の手入れは一日にしてならず。四日間くらいかかりきりで「今はここまで」という気になりました。あとは切った枝の処分です。これは、「長さは60センチ・直径は30センチまで・一本の太さは直径10センチまで」にしてひもで束ねないと回収してもらえません。りくが邪魔しに来る中、十分気をつけながら果てしない作業となりました。ここで役立ったのが「なた」というこれまで使ったことのない道具です。小枝を削ぐのに最適な道具だと分かりました。のこぎり・なた・はさみを駆使して十五束ほど作ったところで力尽きました。今回できた分は燃えるゴミの日に出し、残りは次回の帰省時に処分します。木こり作業をして、樹木もそれぞれ持って生まれた習性があることがよく分かりました。おまけとしてよかったことは、とにかく夜よく眠れるということです。


2020年11月24日火曜日

「ホメオスタシスにおける霊的欠落」

  2018年に上智大学で行われた若者と教会に関するシンポジウム(神学部夏期神学講習会講演集)を聞く機会がありました。その中で私が最も興味を引かれたのは精神科医による講演で、「人間学としての精神医学」というものでした。この講演はヤスパース、フランクル、ニーチェほか多くの精神界における著名な人物の言葉を引きながら、人間を心身二元論ではなく「霊・魂・体」の三層構造として把握し、病の発症のメカニズムを解き明かすものでした。心身二元論では「霊」と「魂」は一緒くたにされますが、この説では「霊」は神とかかわる場であるのに対し、「魂」は意識や人格の領域と考えることにより、人の病や精神疾患の発症は神との関わりが崩れた状態として捉えられることが順を追って示されました。

 その中で、第二次世界大戦中の話として、死ぬほどの怪我や病を受けたわけではない患者が数日後に激しいショックで死に至るケースを或るフランスの外科医が分析した結果、「生体が病を作り出している」という驚くべき見解に至った経緯が紹介されていました。外的・内的変化に対して自分の生理状態を一定範囲に保持しようとするホメオスタシスの働きにより、人間は神経、内分泌系の全身反応を起こしますが、患者の命を奪うのはこの過剰反応に違いないというのです。これを聞いて、私はしばし身じろぎもせずに考え込んでしまい、やがてこのことが深く腑に落ちました。自分の身を過剰に守ろうとすることが逆に病を生み出す・・・。これまでに自分自身に起きた様々な体験も含めて多くの実例が頭に浮かび、「そうだったのか」と深いため息が出ました。

 自身を恒常的に保つためのホメオスタシスがなくては生物として生きられないので、これ自体に問題があるわけではありません。思うに、環境に対して自立性を保持できないほどの状況において、それを自分の力で何とかしようとするところに非常な無理がかかり、病が生じるのでしょう。「霊」が関わってくるのはこの部分です。なぜなら、外的・内的外傷を負った時、通常真っ先に脱落するのがこの領域だからです。一個の生命体が自らを最高位に置いて、あくまで自立性にこだわるのでは乗り越えられない事態となります。人間を「心身」という総括的生命体として理解するだけで超越者の視点を持たなければ、生命に必須の恒常性を保てず、自ら病を生み出してしまうのです。

  一つの様態として「実存的不安」という言葉で表される状態に陥った時、この状態のまま神抜きで低いレベルに安定させようとすれば、心身に様々な症状が出てきます。その一つは生体の内部環境を維持するための脳内ドーパミンの過剰生成で、これが精神疾患の主たる症例の一つ統合失調に深く関係していることはよく知られています。過去・現在・未来にわたって不条理を回避し、自分にとって適正と思われる世界を構築してそこに安住することは一見合理的な解決ですが、その代償として人格が徐々に崩壊していかざるを得ないのは、人間を人間として成り立たせている三層構造の一角「霊」の領域を欠落させているからです。意識するしないに拠らず、それほど神との霊的な関わりは人間にとって不可欠なものなのだということがよく分かりました。

 健やかに生きるためには、神様の呼びかけに耳を傾け応答する、またこちらから呼びかけどんなことでも気負わずに話すということが大事なことでしょう。これはつまり「祈り」そのものに他なりません。決して難しいことではなく、「神様あのね...」と話しかける絶対的な存在者を知っているかどうかなのです。



2020年11月19日木曜日

「今年できたこと、できなかったこと」

  しばらくニュースを聞かない生活をしていたら、いつのまにか感染症が過去最大の勢いで流行していることを知りました。東京では一日の感染者が五百人に迫る数で、衰える気配は当分なさそうです。一年を振り返るにはまだ一カ月早いですが、今後の成り行きを考えると今おこなっても大きなズレはなさそうです。

 コロナの年と言ってよいこの一年は、何といっても人と会うことができませんでした。これまでは毎年何回かは季節の折々に友人と出かけたり、外でのお食事や家でのお茶会などを楽しめたのですが、感染原因がはっきりと「飛沫感染」とアナウンスされたていたので、全く無理だったのです。正確に言うと、帰省したとき一度だけコーヒー店でお茶しましたが、これとてマスクの下からストローで飲むという惨めなものでした。お仕事をお持ちの方や在学中の方は、リモートやオンラインを余儀なくされたはずですが、やはりこれは直接会う体験とは違うものにならざるを得ないでしょう。私のような引退組には、そこまでする必然性がありません。「その他は・・・?」と言えば、買い物が制限された、マスクやトイレットペーパーが手に入りにくい時期があった、歯医者や美容院へ行くのがためらわれた程度で、過ぎてみれば許容の範囲です。

 逆に「できたこと」はと考えてみると、

①気は遣ったが、帰省が今までのペースでできた。

②ウォーキングなどの運動は普通にできた。

③なんとか通院ができ、健診・検診の見直しができた。

④充実した読書ができた。

⑤家の片づけや模様替えができた。

と、まず不満のない一年だったことがわかります。むしろ私にとって最大のダメージは夏の酷暑と持病による体の変調で、これは感染症と直接関係がありません。

 今年は読書によって暗い気分にさせられることが多かったのですが、それは自分の利益しか考えない悪辣な人々によって方向付けされた社会が、今行き着くところまで来て、多種多様な苦悩が生み出された実情をつぶさに知ったことによります。一方で、いま現実に存在している生物はすべて訳あって存在しているのであり、そのためにあらゆる生物がその種ごとに、それぞれ精緻で狡猾な、それでいて一人勝ちしないような生存戦略を持っていることにも深い感銘を受けました。人間の場合は異常に発達させた脳を武器に、生態系のバランスを壊しながら生き残ってきたわけですが、それがいつまで続くのか本当にわからない時代が来たと言ってよいのではないでしょうか。例えばヒトだけ感染する致死率の高いウイルスが誕生すれば、全盛を誇っていた恐竜が突然滅んだように、人間も滅び去らないとは言えないでしょう。あとから振り返った時に、2020年がその分水嶺の年にならないことを願っています


2020年11月12日木曜日

「庭のある家」

  往復生活が長くなりました。最近は何をするにも時間がかかるので、りくの世話と家事だけで一日手いっぱいということもよくあります。毎回、一つは懸案事項を抱えて帰省するのですが、先日は松の木の伐採がそれでした。

 父はとても器用な人で、子どもの頃のりくの遊び場の囲いを作ったり、河原の萱を取ってきて簾を編んで日よけにしたり、雪囲いを作ったりと、庭の手入れに余念がありませんでした。こういった何気ない手入れはできそうでなかなかできないものです。

 この松の木は家を建て替えた時に植えられたもので、かれこれ30年以上はたっているはずです。父がいたころはそれなりに手入れがされていましたが、その後は兄がどうしても伸びすぎた部分を切る程度で時が経過し、そのうち先端が電線に届きそうになってきました。強風が吹いて電線を切断でもしたら大変なことになります。兄も気にしていたので、休みの日に伐採する計画を立てました。

 前日は私が下準備をすることにし、はしごを設置し、切る位置の高さを確かめましたが、どうしても父の使っていたのこぎりが見当たらない。家にあった古い小さなのこぎりではそれこそ全く歯が立たない。のこぎりを購入し、ひもも用意し準備OK。当日は兄の作業を少し離れてりくと見学。

①まず道路側に枝が落ちぬように、ひもを松の木の先っぽに掛けて庭の物干し竿に固定する。

②兄がはしごに登り、大枝をのこぎりで引く。

そのうち隣のおじさんも出てきて、「大変だない。落ちねように気いつけて」と声をかけてくださいました。どうもかねがね松の木の枝が伸びているのを心配しておられたのではないかという気がします。申し訳なし。

 ギコギコを5分くらい続けると、意外とあっさり大枝が切り落とされ、それを私が邪魔にならない場所に運び、兄が残りの小枝もどんどん切り落とす。これを何度か繰り返して、あっという間に伐採は終了となりました。こんなに簡単ならもっと早くすればよかった。切り終えた枝は一か所に積み上げ、あとの始末はまた後日にすることにし、その日の作業はそれでお仕舞。コーヒーを淹れて兄と今回のミッション完了を祝し、とても良い気分でした。しかし、年老いてからの庭の手入れは結構な大仕事です。今後を思うと、一難去ってまた一難です。



2020年11月3日火曜日

「紅春 167」

 

 このところ、家の真後ろの土手の芝刈りをしています。夏の間は敷地内の草むしりで手一杯でしたが、よい季節になったので始めてみました。少しずつ草が土手の道を侵蝕していくのを気にしてはいたのです。3日目になってもまだまだきれいにならないのは、一つにはもう何年も手を付けずにいたこと、もう一つにはここが笹薮だからです。鎌や鋸を試して、結局料理用のハサミで切るのが一番とわかりました。芝刈りというより柴刈りかも知れません。

 ここはりくのいるところからは少し離れているので、切り取った笹を捨てに運ぶ時しかりくからは見えません。そのため時々鳴いては私を呼ぶのでなかなかはかどりません。まだ八割くらいしか刈り込んでいませんが、前よりはっずっとよくなりました。通るとき挨拶をしてくれる人がいるので、こちらも挨拶を返します。犬を連れて通る人がりくを見つけてくれることもあり、言葉を交わすこともあります。声を掛けてもらっても、もう老犬なので聞こえないことなど話して、りくを理解してもらうようにしています。


 りくの左頬にイボができました。以前はそのうちポロっととれたのですが、今度のは根が深く、触ると嫌がるのでそのままにしています。獣医さんの話では、年を取るとイボが出るのは普通のことで心配ないとのことです。人間の場合のシミ・シワの類と思ってよいのでしょうか。