最近、「りく、年とったなあ」と思うことがあります。先日、朝の散歩の後、草むしりを終えて私は家に入りましたが、りくは「まだ入らない」と言うので外につないでおいた時のことです。この時期は水のボウルも外に置き、夕方なら蚊取り線香も焚いてやります。りくはおとなしくしておりましたが、日陰もあるのにわざわざ日向にいるので、「暑くないのかな?」と思っていました。30分後くらいに様子を見ると、やはりりくは日向で伏せをしており、「もう入る?」と言って近寄ると、ハアハアして少しのぼせたような顔になっているではありませんか。すぐ家に取り込み、事なきを得ましたが、結構危なかったかもしれないと思いました。
人間と同じで犬も老齢になると暑さを感じなくなるのではないでしょうか。よく高齢者は気づかない間に熱中症になっており、渇きも感じないため脱水症状を起こすと聞きます。きっとりくもそうなのです。「暑かったら『ワン!』して知らせないとダメでしょ」と言ってみたものの、そして実際、知り合いの犬が通ったり、疲れて家に入りたくなったりすると、りくは「ワン!」と吠えるのですが、今回は吠えなかったのです。暑さに慣れて徐々に気づかなくなったのではないか。とすると、これから先、暑さには相当気を付けてやらなければならないと、認識を新たにしました。今後は自分の老化現象に引き付けてりくの体調も考えていかないといけない、年老いていくのはりくも初めての体験、何かあってからでは遅いのだと自分に言い聞かせました。
2020年5月30日土曜日
2020年5月18日月曜日
「感染症と世界経済」
21世紀になり、百年に一度のはずのことがこう度重なると、もうそういう世界をデフォルトとして未来設計をしなければならないと感じます。これまで一般庶民の経済活動を取材した報道の中で「コロナの影響はほぼないです」と答えていたのは、東京の郊外で放し飼いの養鶏業を行っている農家の方だけでした。その方は、折り紙付きの素晴らしい卵を地元のケーキ屋さんに卸したり、自動販売機に卵を入れておくとすぐ売れてなくなる、「欲しい方全員に行き届かせられないのが悩み」と答えていました。 すでに価値の転換が起こっているようで、これまで子どもたちのあこがれの職業(医者、航空業界、アスリート、アーティスト、メディア関係のタレント等)は、もはや手放しで目指される職業ではないかもしれません。
感染症の流行が起きてから、経済について、とりわけ何故こんな世界になってしまったのかについて知らなければならない気がして、資本、貨幣、市場、賃金等について自分なりに調べてみました。全く関心のなかった分野についてわずかでも学べたのはまさしくコロナウイルスのおかげです。素人の感性で辿り着いた感触としてわかったのは、「感染症は、もうとっくに終わっている資本主義に最後の引導を渡すために到来した」ということです。資本は常に拡大する性質を有するものですが、もう拡大する外界がないところまで来ているにもかかわらず、無理やり内部に拡張先を創出したため、世界各地で悲劇が起きました。日本の非正規雇用の出現、米国のサブ・プライムローン破綻、それに端を発し世界中に打撃を与えたリーマン・ショックはその一例です。資本拡大の最後の形態は実物を伴わない金融の分野に行きつきます。現在はこの段階の最終章です。各国の資本が際限なく国境を越えて世界中に移動できるようになったため、国民国家経済は全く統制が効かない状態になりました。株価に関与しているのはどの国でもほんの一握りのグローバリストたちであり、グローバリストには所属する国は必要ないのです。必死に延命措置を施して生き残りを図ろうとしているグローバリストに対して、「資本主義はもう死んでるんだよ」とコロナウイルスは語りかけているのです。彼らはきっと耳を塞いで聞かないようにしていることでしょうが・・・・。
とはいえ、資本主義の後に何が来るのか、まだ誰にもわかりません。これから繰り返し起こるであろう感染症が、まさに人と人との関係を遮断することに狙いを定めているのなら、社会という概念を根底から考え直さなければならないのです。大前提として人が生きるためまず第一義的に必要なのは、食糧の地産地消および医療や日用品といった必需品の可能な限りの自給自足と、一地域でまかないきれない物を運搬する物流でしょう。そしてもちろん医療、教育・文化、国民のための政治が続きます。旧態依然たる硬直した社会では太刀打ちできない時代になったと感じている人も多いことでしょう。とにかく愚かな政治、国民をごまかして頭越しに権力をほしいままにする政府は、百害あって一利なし。これからは国民のための国家を作り上げた賢明な社会だけが生き残れるのです。この国もそうとう足腰が弱っているので、そのような国家を作っていけるのか私には自信が持てません。不本意ながら老人はせめて邪魔をせぬよう退場致します。若い方々に大きな期待を寄せています。今から十年後、二十年後に日本が存続できている、いや存続すべきものであるなら、若い方々に立ち上がっていただくしかありません。「こんな世界にしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」と、まっとうな大人は皆、若い方々に謝らなければならないのではないでしょうか。
感染症の流行が起きてから、経済について、とりわけ何故こんな世界になってしまったのかについて知らなければならない気がして、資本、貨幣、市場、賃金等について自分なりに調べてみました。全く関心のなかった分野についてわずかでも学べたのはまさしくコロナウイルスのおかげです。素人の感性で辿り着いた感触としてわかったのは、「感染症は、もうとっくに終わっている資本主義に最後の引導を渡すために到来した」ということです。資本は常に拡大する性質を有するものですが、もう拡大する外界がないところまで来ているにもかかわらず、無理やり内部に拡張先を創出したため、世界各地で悲劇が起きました。日本の非正規雇用の出現、米国のサブ・プライムローン破綻、それに端を発し世界中に打撃を与えたリーマン・ショックはその一例です。資本拡大の最後の形態は実物を伴わない金融の分野に行きつきます。現在はこの段階の最終章です。各国の資本が際限なく国境を越えて世界中に移動できるようになったため、国民国家経済は全く統制が効かない状態になりました。株価に関与しているのはどの国でもほんの一握りのグローバリストたちであり、グローバリストには所属する国は必要ないのです。必死に延命措置を施して生き残りを図ろうとしているグローバリストに対して、「資本主義はもう死んでるんだよ」とコロナウイルスは語りかけているのです。彼らはきっと耳を塞いで聞かないようにしていることでしょうが・・・・。
とはいえ、資本主義の後に何が来るのか、まだ誰にもわかりません。これから繰り返し起こるであろう感染症が、まさに人と人との関係を遮断することに狙いを定めているのなら、社会という概念を根底から考え直さなければならないのです。大前提として人が生きるためまず第一義的に必要なのは、食糧の地産地消および医療や日用品といった必需品の可能な限りの自給自足と、一地域でまかないきれない物を運搬する物流でしょう。そしてもちろん医療、教育・文化、国民のための政治が続きます。旧態依然たる硬直した社会では太刀打ちできない時代になったと感じている人も多いことでしょう。とにかく愚かな政治、国民をごまかして頭越しに権力をほしいままにする政府は、百害あって一利なし。これからは国民のための国家を作り上げた賢明な社会だけが生き残れるのです。この国もそうとう足腰が弱っているので、そのような国家を作っていけるのか私には自信が持てません。不本意ながら老人はせめて邪魔をせぬよう退場致します。若い方々に大きな期待を寄せています。今から十年後、二十年後に日本が存続できている、いや存続すべきものであるなら、若い方々に立ち上がっていただくしかありません。「こんな世界にしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」と、まっとうな大人は皆、若い方々に謝らなければならないのではないでしょうか。
2020年5月17日日曜日
「紅春157」
毎年の定期健診および混合ワクチン接種に行ってきました。緊急事態宣言解除の直後だったせいか、午前のクリニックの開院に少し遅れたらもう駐車場が満車、やむなく午後に出直し、今度は15分前に着き、一番に診てもらいました。
三密を避けるためか「付き添いの家族は一人に願います」とのことで、私は診察室のドアの外で待っていました。兄の話をまとめると以下の通り。
「体重は0.2kg減って8.2kgになったが、元気そうであり老齢なので特に大きな問題はない。柴犬には縄文柴と新柴があるが、りくのような狐顔は縄文柴。縄文柴は長生きで、最長で24歳という例があった。目から涙が出ているのは加齢により眼球が縮んで隙間ができたせいで致し方ない。目薬等は必要なく、目やにが出るようなら取ってきれいにしておけばよい。フィラリアは陰性、引き続き月一回のお薬を与える。(骨の形をした薬で、おいしいのかりくは一口でパクっと食べる。) 保健所の手が回らず、延期になっている狂犬病の注射はクリニックでもできるので、延期が長引くようならしたほうがよい。市役所からのハガキがあれば、予約なしでできる。
兄の話ではりくはとてもおとなしく診察を受けたようで、やはり兄に行ってもらってよかったと思いました。私がいると甘えて騒いだりしたかもしれない。ともかくも、年に一度の大事業を終えてこちらはぐったり。やれやれ、帰ってりくと一緒に少し横になりました。それにしてもりくがあと10年も生きるとなると、マジでこっちの体力いや寿命がもつだろうかと一抹の不安も感じます。
2020年5月11日月曜日
「感染症に強い国づくり」
今のところ感染拡大をなんとか食い止められているのは、事実上の独裁国かIT機器を駆使して情報を効果的に利用できた国だけです。そのどちらでもない日本と米国を例にとって、感染症対策を意識したこれからの国づくりを考えてみます。厚生労働省の公表資料では5月9日現在、米国の死亡者は77,178人、日本の死亡者は601人です。資料上では米国の感染者数は日本の82倍ほどですが、この比較は日本の検査数が低すぎるため意味をなしません。死亡者総数を比較するにあたって人口比を考慮すると、米国の人口は日本の2.6倍なので、人口当たりに換算して米国の死亡者は日本の約50倍ということになります。この時点で私などはいくらジョンズ&ホプキンズ大学がコロナ対策研究の権威であっても、国民を救えないのではどうしようもないじゃないかと思ってしまいます。しかし、もちろん大学が悪いわけではなく、医療制度の問題なのです。
第一の理由は、これに尽きると言ってもいいのですが、「日本には国民皆保険がある」ということです。感染症は皆が罹る病気なので、医療格差のある国においては、平時では想像できないほどの災厄をもたらしてしまいます。米国市民に一時は希望の光に思えたオバマケアは日本の国民皆保険とは全く別物でした。人々は入っている保険、支払える費用によってピンからキリまでの治療方法があるものの、保険会社や製薬会社の利益を最大化させるシステムが強固に整えられているので、この制度の下では、中間層でもあまりに高額な医療費が雪だるま式に積み上がり、医療破産に追い込まれる人が急増しています。また、貧困層の医療をカバーしていた保険では赤字になるため診てくれる病院が減少し、病気になっても診てくれる医者が見つからないのです。無保険者が5千万人ともいわれる国の医療制度は、その方々がいないものとして制度設計がなされています。平時でも多くの人が医療機関にかかれないことが常態化しているのですから、非常事態においてはひとたまりもありません。皆が罹りうる病という点で、感染症ほど平等・公平な病はありません。貧者だけでなく富者をも巻き込んで社会全体に広がり、医療崩壊を起こし、医療が機能しないのは必定です。
もう一つ、感染者とその死亡者に関しては、その国がどれだけグローバル化しているかということも大事な指標だと思います。感染症は国の内外を問わず経済活動をも停止させるため、グローバル化が進み、外国人誘致が盛んな国ほど当然被害が大きくなります。この点、日本においても「今の悲劇の一端は誰かの旗振りに従ってこのようなリスクを顧みずその誘いに乗ってしまったことにある」と真摯に反省し、これを高い授業料として今後に役立てなければならないでしょう。この世は邪悪に満ちています。巧妙な罠に引っかかった結末はやはり個人に帰すほかないのです。悲しいことですが、米国も日本もグローバリストが政府と結託して、自己利益の最大化を常に求めています。「感染症に強い国づくり」をするには、自らが常に国の言うことに疑問を持ち、その真意をはかり、時には「国のために」国のやろうとすることに全力で反対するという逆説を生きることが含まれます。特にグローバリストは国民皆保険を突き崩し、米国流の民間委託によって莫大な利益を得ようと狙っていますから、まことに危険です。そして日本各地に作られた「特区」は規制緩和で外資を呼び込む地ならしを整える場ですから、すでに地獄への道はすぐそこに迫っているのです。「政府の言うことと反対のことをしていれば間違いない」と断言する人もいるほどです。
さらに、SF的仮説として、小麦文化圏は死亡者が多く、米文化圏は比較的死亡者が少ないということがあります。才覚はあるが道徳心のないグローバリストたちがまず目を付けたのは穀物でした。人の命を顧みず、それを金に換えることが彼らの至上命題です。穀物には非常に大きな市場が開けているので、それは笑いが止まらないほど儲かるビジネスモデルとなりました。遺伝子組み換え食物、とりわけ穀物(小麦、とうもろこし、大豆など)を作り出し、強力な除草剤とともに販売したのですから、遺伝子レベルで人体に影響しても不思議はないでしょう。ちなみに、ボーリング場と発毛剤を足して二で割ったような名前のお手軽除草剤(散布すれば根本から植物を枯らす)が、日本のCMにも現れて私は青ざめました。これはどう考えてもベトナムで使われた枯葉剤じゃなかろうか。どれほど自然生態系に悪影響を与え、生物にとって危険な物かと思ったら、恐ろしくなりました。米国の貧困層に配られるフードスタンプで手に入るのは有名なハンバーガーやピザを売るグローバル企業の商品です。危険な除草剤をふんだんにかけて育てられた農産物に、これまた危険な食品添加物を加えて製造されたものを構造的・恒常的に食べさせられているのです。また、想像をたくましくすれば、コロナウイルスによる感染者で、貧困層ではない40代、50代の男性で持病もない方がたくさん亡くなっているのは、肉食の影響とも考えられます。危険な穀物を食べて育った家畜を食べれば、本来口にすべきでないものが濃縮された状態で体内に取り込まれるからです。こういったことの積み重なりがヒトの遺伝子を損傷することは十分あり得ると思います。
日本にとっての不幸は、日本政府が米国(そのトップはアメリカ・ファーストの億万長者)の意思を忖度することを無上の使命としていることです。ですから、アメリカのグローバリストを全力で支えている日本政府が元来エボラの治療薬として開発され、アフリカでの治験を拒否されて実用化されない薬(即ち開発費を回収できていない薬剤)を、日本において新型コロナの治療薬として3日で承認したのもむべなるかななのです。21世紀の世界はグローバル経済によって行きつくところまで行きついた感があり、本当に気が滅入ります。今回分かったのは、グローバリズムが浸透した国ほど感染症には弱いということでしょう。本当にっ自国を守りたいと思ったら、それこそ鎖国をするしかない。えっ、それは出入国を止めている現在の状況ではありませんか。そうなると、コロナウイルスはまさにグローバリズムを粉砕するために登場したと言わざるを得ない。神様がグローバリストを懲らしめるために用いた方法がこれだと思えるほどに・・・。これは熟慮すべきことです。
・・・・・・・・・
主は来られる、地を裁くために。
主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
(詩編98章9節)
第一の理由は、これに尽きると言ってもいいのですが、「日本には国民皆保険がある」ということです。感染症は皆が罹る病気なので、医療格差のある国においては、平時では想像できないほどの災厄をもたらしてしまいます。米国市民に一時は希望の光に思えたオバマケアは日本の国民皆保険とは全く別物でした。人々は入っている保険、支払える費用によってピンからキリまでの治療方法があるものの、保険会社や製薬会社の利益を最大化させるシステムが強固に整えられているので、この制度の下では、中間層でもあまりに高額な医療費が雪だるま式に積み上がり、医療破産に追い込まれる人が急増しています。また、貧困層の医療をカバーしていた保険では赤字になるため診てくれる病院が減少し、病気になっても診てくれる医者が見つからないのです。無保険者が5千万人ともいわれる国の医療制度は、その方々がいないものとして制度設計がなされています。平時でも多くの人が医療機関にかかれないことが常態化しているのですから、非常事態においてはひとたまりもありません。皆が罹りうる病という点で、感染症ほど平等・公平な病はありません。貧者だけでなく富者をも巻き込んで社会全体に広がり、医療崩壊を起こし、医療が機能しないのは必定です。
もう一つ、感染者とその死亡者に関しては、その国がどれだけグローバル化しているかということも大事な指標だと思います。感染症は国の内外を問わず経済活動をも停止させるため、グローバル化が進み、外国人誘致が盛んな国ほど当然被害が大きくなります。この点、日本においても「今の悲劇の一端は誰かの旗振りに従ってこのようなリスクを顧みずその誘いに乗ってしまったことにある」と真摯に反省し、これを高い授業料として今後に役立てなければならないでしょう。この世は邪悪に満ちています。巧妙な罠に引っかかった結末はやはり個人に帰すほかないのです。悲しいことですが、米国も日本もグローバリストが政府と結託して、自己利益の最大化を常に求めています。「感染症に強い国づくり」をするには、自らが常に国の言うことに疑問を持ち、その真意をはかり、時には「国のために」国のやろうとすることに全力で反対するという逆説を生きることが含まれます。特にグローバリストは国民皆保険を突き崩し、米国流の民間委託によって莫大な利益を得ようと狙っていますから、まことに危険です。そして日本各地に作られた「特区」は規制緩和で外資を呼び込む地ならしを整える場ですから、すでに地獄への道はすぐそこに迫っているのです。「政府の言うことと反対のことをしていれば間違いない」と断言する人もいるほどです。
さらに、SF的仮説として、小麦文化圏は死亡者が多く、米文化圏は比較的死亡者が少ないということがあります。才覚はあるが道徳心のないグローバリストたちがまず目を付けたのは穀物でした。人の命を顧みず、それを金に換えることが彼らの至上命題です。穀物には非常に大きな市場が開けているので、それは笑いが止まらないほど儲かるビジネスモデルとなりました。遺伝子組み換え食物、とりわけ穀物(小麦、とうもろこし、大豆など)を作り出し、強力な除草剤とともに販売したのですから、遺伝子レベルで人体に影響しても不思議はないでしょう。ちなみに、ボーリング場と発毛剤を足して二で割ったような名前のお手軽除草剤(散布すれば根本から植物を枯らす)が、日本のCMにも現れて私は青ざめました。これはどう考えてもベトナムで使われた枯葉剤じゃなかろうか。どれほど自然生態系に悪影響を与え、生物にとって危険な物かと思ったら、恐ろしくなりました。米国の貧困層に配られるフードスタンプで手に入るのは有名なハンバーガーやピザを売るグローバル企業の商品です。危険な除草剤をふんだんにかけて育てられた農産物に、これまた危険な食品添加物を加えて製造されたものを構造的・恒常的に食べさせられているのです。また、想像をたくましくすれば、コロナウイルスによる感染者で、貧困層ではない40代、50代の男性で持病もない方がたくさん亡くなっているのは、肉食の影響とも考えられます。危険な穀物を食べて育った家畜を食べれば、本来口にすべきでないものが濃縮された状態で体内に取り込まれるからです。こういったことの積み重なりがヒトの遺伝子を損傷することは十分あり得ると思います。
日本にとっての不幸は、日本政府が米国(そのトップはアメリカ・ファーストの億万長者)の意思を忖度することを無上の使命としていることです。ですから、アメリカのグローバリストを全力で支えている日本政府が元来エボラの治療薬として開発され、アフリカでの治験を拒否されて実用化されない薬(即ち開発費を回収できていない薬剤)を、日本において新型コロナの治療薬として3日で承認したのもむべなるかななのです。21世紀の世界はグローバル経済によって行きつくところまで行きついた感があり、本当に気が滅入ります。今回分かったのは、グローバリズムが浸透した国ほど感染症には弱いということでしょう。本当にっ自国を守りたいと思ったら、それこそ鎖国をするしかない。えっ、それは出入国を止めている現在の状況ではありませんか。そうなると、コロナウイルスはまさにグローバリズムを粉砕するために登場したと言わざるを得ない。神様がグローバリストを懲らしめるために用いた方法がこれだと思えるほどに・・・。これは熟慮すべきことです。
・・・・・・・・・
主は来られる、地を裁くために。
主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
(詩編98章9節)
2020年5月5日火曜日
「緊急事態に慣れました」
緊急事態宣言が延長され、今一番考えるべきは子どもたちのことです。最も心身を鍛え、社会活動の基盤を育むべき時期にもかかわらず、それが許されない状況です。かといって、私が9月入学制に軽々に賛成できないのは、多くの方がこの状況をこれきり起きないと考えているからです。感染症について知れば知るほど、これからはコロナウイルスに限らず様々な感染症の流行がいつ何時起こってもおかしくないということに慄然とします。今はとにかく、入学月を変えるという、いきなり社会制度全体に波及する拙速な制度変更より、次善の策としてオンライン授業の環境を整えるべきでしょう。というより、なぜ今だにそれが遂行されていないのか不思議でなりません。
不思議といえば、新型コロナウイルスは何か掴みどころのない得体の知れないウイルスだという気がします。8割くらいの人には軽傷もしくは無症状の症状しか現れないが、2割くらいの人は重篤になり得る、どういう人が重篤化するかはまだわかっていない。高齢者、持病のある人のみならず、持病のない40代、50代の男性もたくさん亡くなっているのです。わかっているのは「免疫力が低いと重症化する」ということですが、これは同語反復にすぎない言い方で、その詳しい中身や「免疫力」以外の要因はないのかが解明されるべきでしょう。発表される各国の感染者数、死亡者数には何かカラクリがあるのかもしれませんが、厚生労働省の公表資料では5月4日の死者は韓国253人、日本510人となっています。SARSやMERSを経験した韓国の対応はさすがでこの結果も納得ですが、ヨーロッパでは唯一対応に成功している医療制度の優等生ドイツでも、イタリアや英国の四分の一とはいえ6866人も亡くなっています。台湾やニュージーランドの対応の見事さはその通りとしても、一般論としてアジアはどの国も明らかに死者が少ない。これはなぜなのでしょう。このウイルスによる死亡率を全部各国政府の対応方法や社会の在り方に帰するのは難しい気がします。感染しても無症状の人がいる一方で、急速に重症化して亡くなる人もいるという発症状態の大きな落差をも考慮すると、この病の結末は「一人の人間が生物としてこのウイルスに対し何らかの抵抗力となる要因をもっているかどうかに左右される」ように思われてなりません。
最近はPCR検査と共に抗体検査も取り沙汰されています。これは私も受けてみたいと思う検査です。自分の生活からすると、「私が感染しているなら都民は全員感染しているはず」と言えるほど注意して過ごしてはいるのですが、無症状のまま感染していてもう抗体もあるのならそれはそれでひとまず安心です。こう言うと疑惑の目を向けられるのですが、私はこれまでインフルエンザにも罹患したことがなく、一度だけ予防注射を受けてかえって具合が悪くなってから、予防注射も一切していません。ウイルスがうようよいると思われる職場に勤めていた時にそれでもインフルエンザになったことがないのですから、ひょっとしたら何か特殊な免疫力をもっていやしないだろうかとお気楽に思っているのです。スウェーデンが集団免疫を目指して市民生活には一切制限なく過ごしているとのことですが、人口比当たりの死者数は日本の8倍とのこと。平時でも寝たきり老人のいない北欧ならではの対応なのでしょう。寝たきり老人がいないというのは延命措置をしないということなのですから、これは日本では考えられない強烈な死生観を基盤にしているでしょう。もちろんもっと死亡率の高い感染症が起きた時には何らかの措置をとるのでしょうが、今この現状に対し「放置しているだけじゃないか」と私は違和感を禁じ得ません。私としては感染しても亡くなる人がいなければ良いと考えるので、重症化因子が解明され、重症化リスクのある人を事前に知ることができれば、事態を収束する方策も明らかになると思います。
とりあえず外出できない日がまだまだ続きそうです。今まで感染流行の時期が暑い時期でなかったのは本当にありがたかったなと思います。体力だけは落とさないようにして、少しでも楽しいことを探しながら過ごすことにします。持病があるので休み休みですが、読書や調べものをしているといくら時間があっても足りず、本当に楽しいですし、緊急事態宣言のおかげで車も人も少なく安全なので、公共交通機関に頼らずともかなり遠くまで行けることがわかりました。そこにしかないものを買いに行くとか、ICカードのチャージをするとか、何か実用的な小さな目標を決めておくと達成感もあり、体力もついてきた気がします。とはいえ、自分の命がいつどうなるかは神様の思し召し次第ということがいっそう身に染み、一日一日が愛おしくなるのです。家では朝晩、区の防災無線からアナウンスが聞こえてきます。
「一人一人の責任ある行動が社会全体を守ります。ご協力をお願いいたします。」
真剣に聞いてみると、自分が妙に感動していることに気づきます。これは誰も抗えない、なんと立派なカント的明察でしょうか。
不思議といえば、新型コロナウイルスは何か掴みどころのない得体の知れないウイルスだという気がします。8割くらいの人には軽傷もしくは無症状の症状しか現れないが、2割くらいの人は重篤になり得る、どういう人が重篤化するかはまだわかっていない。高齢者、持病のある人のみならず、持病のない40代、50代の男性もたくさん亡くなっているのです。わかっているのは「免疫力が低いと重症化する」ということですが、これは同語反復にすぎない言い方で、その詳しい中身や「免疫力」以外の要因はないのかが解明されるべきでしょう。発表される各国の感染者数、死亡者数には何かカラクリがあるのかもしれませんが、厚生労働省の公表資料では5月4日の死者は韓国253人、日本510人となっています。SARSやMERSを経験した韓国の対応はさすがでこの結果も納得ですが、ヨーロッパでは唯一対応に成功している医療制度の優等生ドイツでも、イタリアや英国の四分の一とはいえ6866人も亡くなっています。台湾やニュージーランドの対応の見事さはその通りとしても、一般論としてアジアはどの国も明らかに死者が少ない。これはなぜなのでしょう。このウイルスによる死亡率を全部各国政府の対応方法や社会の在り方に帰するのは難しい気がします。感染しても無症状の人がいる一方で、急速に重症化して亡くなる人もいるという発症状態の大きな落差をも考慮すると、この病の結末は「一人の人間が生物としてこのウイルスに対し何らかの抵抗力となる要因をもっているかどうかに左右される」ように思われてなりません。
最近はPCR検査と共に抗体検査も取り沙汰されています。これは私も受けてみたいと思う検査です。自分の生活からすると、「私が感染しているなら都民は全員感染しているはず」と言えるほど注意して過ごしてはいるのですが、無症状のまま感染していてもう抗体もあるのならそれはそれでひとまず安心です。こう言うと疑惑の目を向けられるのですが、私はこれまでインフルエンザにも罹患したことがなく、一度だけ予防注射を受けてかえって具合が悪くなってから、予防注射も一切していません。ウイルスがうようよいると思われる職場に勤めていた時にそれでもインフルエンザになったことがないのですから、ひょっとしたら何か特殊な免疫力をもっていやしないだろうかとお気楽に思っているのです。スウェーデンが集団免疫を目指して市民生活には一切制限なく過ごしているとのことですが、人口比当たりの死者数は日本の8倍とのこと。平時でも寝たきり老人のいない北欧ならではの対応なのでしょう。寝たきり老人がいないというのは延命措置をしないということなのですから、これは日本では考えられない強烈な死生観を基盤にしているでしょう。もちろんもっと死亡率の高い感染症が起きた時には何らかの措置をとるのでしょうが、今この現状に対し「放置しているだけじゃないか」と私は違和感を禁じ得ません。私としては感染しても亡くなる人がいなければ良いと考えるので、重症化因子が解明され、重症化リスクのある人を事前に知ることができれば、事態を収束する方策も明らかになると思います。
とりあえず外出できない日がまだまだ続きそうです。今まで感染流行の時期が暑い時期でなかったのは本当にありがたかったなと思います。体力だけは落とさないようにして、少しでも楽しいことを探しながら過ごすことにします。持病があるので休み休みですが、読書や調べものをしているといくら時間があっても足りず、本当に楽しいですし、緊急事態宣言のおかげで車も人も少なく安全なので、公共交通機関に頼らずともかなり遠くまで行けることがわかりました。そこにしかないものを買いに行くとか、ICカードのチャージをするとか、何か実用的な小さな目標を決めておくと達成感もあり、体力もついてきた気がします。とはいえ、自分の命がいつどうなるかは神様の思し召し次第ということがいっそう身に染み、一日一日が愛おしくなるのです。家では朝晩、区の防災無線からアナウンスが聞こえてきます。
「一人一人の責任ある行動が社会全体を守ります。ご協力をお願いいたします。」
真剣に聞いてみると、自分が妙に感動していることに気づきます。これは誰も抗えない、なんと立派なカント的明察でしょうか。
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