2020年3月20日金曜日

「疫病の時代」

  今のところ毎月の往復生活を続けていますが、そのことをよく知る或る方からのお便りに、「この騒ぎで福島にお帰りなのではないか、とも思っております」との言葉がありました。福島の状況をフォローしていなかったので帰省して兄に聞いてみると、「現在、県内の感染者は2名、一人はクルーズ船、一人はエジプト旅行」との簡潔な答えが返ってきました。この限りではウィルスは外から到来したものであり、しかも地域はいわきと郡山とのことで、福島市の感染は一応まだありません。毎日のりくの散歩も心なしか空気がうまい。最初の感染者になってはいけないというプレッシャーはありましょうが、東京よりフクシマが安全ということもあるという日が来るとは思ってもみませんでした。

 財務大臣が「呪われたオリンピック」と発言して物議を醸していますが、湿原が多い人ながら、これに関しては、皆が口にしてはいけないと自制していたことを「とうとう行っちゃったか」という感じです。そこまで言うなら、TOKYOについては別に40年ごとの呪いではなく、はっきり「原発事故の呪い」と言うべきです。

 今回、人が集まることで成り立っている活動や商売がいかに多いかをあらためて知らされましたが、新型コロナウィルスに限らず、悪疫というものは或る意味、文明世界に対する否定を人間に突きつけるものです。人間の社会は集住すること、共同して働くこと、人・物・金が動くことによって発展し、大きな力を得てきましたが、悪疫はこれを真っ向から否定し、人間の営みを嘲笑うかのように猛威を振るいます。ペストの歴史を紐解けば、比較的大きな町が疫病の流行に伴い町ごとそっくり滅亡し、人里離れた小さな村落が手つかずで生き残った例はたくさんあります。

 欧米のメディアは、ウィルスとの闘いを「見えない敵との戦争」になぞらえていることを伝えていますが、これには違和感を禁じ得ず、何かを敵に見立てないと非常事態という意識が高まらないのか、そこまで戦争を内面化してしまった人たちなのかと、そのことの方に問題を感じます。「戦争」という言葉で日本のこととして思い出すのは、だいぶ前ですが、或る雑誌に「希望は戦争」という投稿をした青年のことです。しがないフリーターとしての自分が社会的上昇を遂げられるとしたら、戦争しかない、少なくともそこでは社会の秩序がひっくり返る可能性がある・・・という内容だったと記憶していますが、これは別の意味で、能天気な困った事態です。私も含め、日本人のほとんどは戦争の過酷さ、悲惨さを知りません。想像もできないといってもよいでしょう。だから気軽に「戦争」という言葉を持ち出す人は、試しに新型ウィルスの流行を小さな戦争とみなしてみればよいのです。確かに、感染が万人を襲うという意味では平等かもしれませんが、概観すれば、にっちもさっちもいかず窮状に陥れられるのは社会の上・中層にいる人ではありません。一番困窮するのはやっと手にしていたものさえ取り上げられてしまい、あとはもう何も無いというもたざるものであることは明らかです。

 今回のようなことが起こることに意味があるとしたら、人間の文明を振り返り、考え直すためなのでしょう。これは一種の警告として受け止めるべきなのでしょう。これを軽視してやり過ごした場合、次があるかどうかわからない時代に、私たちは差し掛かっているように思います。