2018年10月22日月曜日

「或る教会の百年」

 東京で通っている教会の「百年史」を頂きました。今は百一年目ですが、諸事情で今年発行となりました。例によって1ページごとプリンターで読み取っているので読み切るのに時間がかかりましたが、この教会の道筋はなんといっても初代牧師がつけたと言ってよいでしょう。森明は初代文部大臣森有礼の三男であり、母は岩倉具視の五女という家系に生まれましたが、生後8カ月で父は暗殺され、またひどい喘息のため、八歳になってようやく入れた学習院初等科もその夏には退学となるほどの病状で、正式な学問はほとんどしていません。まさに、「病床は私の教場であった」と言うほかない人でした。しかし、母や幾人かの優れた家庭教師の指導の下、独学で様々な学問分野を学び、ついに青山学院を宿舎としていたミュラー夫妻を通し、キリストと出会います。明が母と共に植村正久から洗礼を受けたのは十六歳の時でしたが、父有礼が暗殺された経緯から、森家にとってキリスト教は「最大の禁忌」と言うべきものであり、特に次兄(のちに信仰告白をすることになる)の大反対により、家族には内密に行われたということでした。

 生涯病苦に苦しみながら亡くなるまでの、森の牧師在任期間は10年ほどですが、そのわずかな間に大きな足跡を残しました。一つは、礼拝への姿勢で、特に関東大震災の時のエピソードが有名です。のちに、このことを或る長老が述懐しています。

 「・・・・この暗黒と混乱と不安の中にあって、すべての人は常の心を失った。私もその中の一人である。当時の麻布三聯隊に逃れて、多くの人々の中に混じってすわっていた。教会の礼拝も友人の事も、一時脳裏から遠ざかり、〈このような非常時に礼拝を欠席する事は常識的に当然の事〉として片づけておいた。九月の二日は地震後最初の聖日であった。その午後突然森先生の訪問を受けた。先生は病身のため、常には人力車を利用して会員訪問をなされていたが、その時は人力車もないので、酷暑の中を単衣のすそをはしょり、雪駄(現今の草履のようなもの)をはきステッキをついて、徒歩で渋谷から麻布まで来られたのである。先生には恐怖はもちろん、驚きとか、周章狼狽の色は少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情が表れていた。そして一言〈天地が崩れるような事があっても礼拝はやめません〉との僅かな言葉を残して立ち去られた。・・・・・・・(中略)・・・・・・・先生の一言と、巷の人々の中に見いだされない厳然たる態度とは、現実の中に埋没しきっていた私を神の言の世界に引きもどした。私はしばらく夢からさめた人のごとく動く事ができなかった・・・・」

 もう一つよく知られたことは、「森先生は伝道狂気だ」と言われるほどの宣教の使命感であり、その熱意により「帝国大学基督教共助会」の結成に至ったことです。この会は、「キリストのほか自由独立」という標語に示されるように、主にある友情を重んじつつ、教派を超えてキリストを諸友に紹介せんとするものでした。この会は次第に学生の枠が撤廃されて「基督教共助会」となりますが、近年までその事務所は当教会に置かれており、牧師、長老、会員の多くが共助会員だったのです。

 今はそのようなことはありませんが、その創成期が学者の多い教会だったためでしょう、この教会では以後80年ほど教会内部から召命を受けた方が教師になるという伝統を受け継いで来ており、外からの牧師招聘の経験がなかったのです。20年ほど前に初めて外部から牧師を招聘することになった時、そのための手続きの検討から始めなければならなかったというのは驚きです。創立が百年前ということは、まさしく第一次世界大戦、すなわち帝国主義時代真っ只中のころであり、戦争に覆われた二十世紀前半の状況(戦時中の資料はほとんどないながら、宮城遥拝、国歌演奏、必勝祈願を伴う「国民儀礼」が執行されたことがわかる)も記されています。無牧の時代も二度経験し、時代の大波小波に揺られながら、それでも今日まで一日も聖日礼拝を欠かすことなく来たのです。「第一部の歴史」と「第二部の諸滑動」の記述には、多くの信仰者の途方もない努力と人間の営みを超えて働く神の経綸が示されています。この記録を読んで初めて、この教会に連なるものとして今自分がどの時点にいるのかわかったことは誠に感謝でした。