2018年10月28日日曜日

「インターネット接続の修復」

 私がいつもパソコンを2台使っているのは、どちらかが不調でももう一台が用をなしてくれるからで、これは管理組合の議事録署名人であること、また教会の会報委員であることと無縁ではありません。自分の楽しみのためだけなら、修理が終わるまで待てばよいだけですが、半ば公的な ものではそうもいかず、メールが送受信できない日が一日でもあれば困ります。

 その日は、パソコンAを開いてメールチェックをした時点で、嫌な予感がしました。パソコンBには届いている今日のメールが来ていない。画面のアイコンを見ると、インターネット接続ができていない。パソコンBは正常に機能していることから、これは明らかにパソコンA独自の問題です。この手のトラブルはいつもそうですが、こうなった原因も、修復にどれくらい時間がかかるかもわからず、気が重くなりました。

 それから、設定を調べてトラブルシューティングを行ったり、何年か前に変更したプロバイダー契約を取り出してユーザーIDやらパスワードやらを調べたりしましたが、お手上げでした。本当は天気も良いしちょっと買い物身でもと思っていたのですが、それどころではありません。そのうち、「そういえば・・・」と、このノートパソコンはケーブルの挿入口もあったことを思い出し、器具庫からゴソゴソとケーブルを取り出し(何でも取っておくものですね)ルーターと繋いでみたら、インターネットに繋がりました。「いざとなったらこれで繋がる」と思ったらかなり安心し、すでに何時間もたっていたので、ここでちょっとうたた寝してしまいました。

「ああ、やっと解決できた」という夢を見て目覚めましたが、無論事態は何も変わっていません。徒労感に苛まれながら「もうひと頑張り!」と自分を叱咤しました。ともかくパソコンAが無線を捉えられていないというところまではわかりました。もう一つ、トラブルシューティングにかけても「予期しないトラブルが発生しました」と表示されること、これもヒントと言えばヒントです。そこで、グーグルに「無線がつながらない 予期しないトラブルが発生しました」と入力してみました。すると、たくさん似たような項目が検索され、その一つによれば「レジストリが壊れている」らしいとのこと。載っていた解決方法は、[スタート] ボタンから[ファイル名を指定して実行] をクリックし、名前ボックスに「regsvr32 %systemroot%\system32\netshell.dllと入力せよ」というものでした。造作もない作業なので試しにやってみる(入力はもちろんコピペです)と、何と言うことでしょう。瞬時に無線ランに繋がったのです。こんなのわかるはずがありません。ともかくも解決できてほっとしました。今後も、どういう原因で突如起こるかわからない不具合と終わりなき闘いがあると思いますが、しばらくはやめてほしいです。

2018年10月22日月曜日

「或る教会の百年」

 東京で通っている教会の「百年史」を頂きました。今は百一年目ですが、諸事情で今年発行となりました。例によって1ページごとプリンターで読み取っているので読み切るのに時間がかかりましたが、この教会の道筋はなんといっても初代牧師がつけたと言ってよいでしょう。森明は初代文部大臣森有礼の三男であり、母は岩倉具視の五女という家系に生まれましたが、生後8カ月で父は暗殺され、またひどい喘息のため、八歳になってようやく入れた学習院初等科もその夏には退学となるほどの病状で、正式な学問はほとんどしていません。まさに、「病床は私の教場であった」と言うほかない人でした。しかし、母や幾人かの優れた家庭教師の指導の下、独学で様々な学問分野を学び、ついに青山学院を宿舎としていたミュラー夫妻を通し、キリストと出会います。明が母と共に植村正久から洗礼を受けたのは十六歳の時でしたが、父有礼が暗殺された経緯から、森家にとってキリスト教は「最大の禁忌」と言うべきものであり、特に次兄(のちに信仰告白をすることになる)の大反対により、家族には内密に行われたということでした。

 生涯病苦に苦しみながら亡くなるまでの、森の牧師在任期間は10年ほどですが、そのわずかな間に大きな足跡を残しました。一つは、礼拝への姿勢で、特に関東大震災の時のエピソードが有名です。のちに、このことを或る長老が述懐しています。

 「・・・・この暗黒と混乱と不安の中にあって、すべての人は常の心を失った。私もその中の一人である。当時の麻布三聯隊に逃れて、多くの人々の中に混じってすわっていた。教会の礼拝も友人の事も、一時脳裏から遠ざかり、〈このような非常時に礼拝を欠席する事は常識的に当然の事〉として片づけておいた。九月の二日は地震後最初の聖日であった。その午後突然森先生の訪問を受けた。先生は病身のため、常には人力車を利用して会員訪問をなされていたが、その時は人力車もないので、酷暑の中を単衣のすそをはしょり、雪駄(現今の草履のようなもの)をはきステッキをついて、徒歩で渋谷から麻布まで来られたのである。先生には恐怖はもちろん、驚きとか、周章狼狽の色は少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情が表れていた。そして一言〈天地が崩れるような事があっても礼拝はやめません〉との僅かな言葉を残して立ち去られた。・・・・・・・(中略)・・・・・・・先生の一言と、巷の人々の中に見いだされない厳然たる態度とは、現実の中に埋没しきっていた私を神の言の世界に引きもどした。私はしばらく夢からさめた人のごとく動く事ができなかった・・・・」

 もう一つよく知られたことは、「森先生は伝道狂気だ」と言われるほどの宣教の使命感であり、その熱意により「帝国大学基督教共助会」の結成に至ったことです。この会は、「キリストのほか自由独立」という標語に示されるように、主にある友情を重んじつつ、教派を超えてキリストを諸友に紹介せんとするものでした。この会は次第に学生の枠が撤廃されて「基督教共助会」となりますが、近年までその事務所は当教会に置かれており、牧師、長老、会員の多くが共助会員だったのです。

 今はそのようなことはありませんが、その創成期が学者の多い教会だったためでしょう、この教会では以後80年ほど教会内部から召命を受けた方が教師になるという伝統を受け継いで来ており、外からの牧師招聘の経験がなかったのです。20年ほど前に初めて外部から牧師を招聘することになった時、そのための手続きの検討から始めなければならなかったというのは驚きです。創立が百年前ということは、まさしく第一次世界大戦、すなわち帝国主義時代真っ只中のころであり、戦争に覆われた二十世紀前半の状況(戦時中の資料はほとんどないながら、宮城遥拝、国歌演奏、必勝祈願を伴う「国民儀礼」が執行されたことがわかる)も記されています。無牧の時代も二度経験し、時代の大波小波に揺られながら、それでも今日まで一日も聖日礼拝を欠かすことなく来たのです。「第一部の歴史」と「第二部の諸滑動」の記述には、多くの信仰者の途方もない努力と人間の営みを超えて働く神の経綸が示されています。この記録を読んで初めて、この教会に連なるものとして今自分がどの時点にいるのかわかったことは誠に感謝でした。


2018年10月15日月曜日

「理事会の十年ヴィジョン」

 「邯鄲の夢」もしくは「一炊の夢」と言われる話がありますが、粟粥が煮える間ではなく本当に一睡の間に見た夢について書いておこうと思います。話は十年後のことです。

 二度目の理事が回って来た。集合住宅のメンバーも少しずつ入れ代わり、若い方々、働き盛りの方々は目まぐるしい日々の生活を送っているご様子で、一方高齢化は一層進んだがお仕事をお持ちの方も多く、また、皆お孫さんの世話や老親の介護を担っておられるので、暇な人など一人もいない。十年前のやり方で理事会を運営していたら今頃破綻していたことだろう。ぎりぎりのところで運営方法を切り替えて本当によかった。最初の時の理事会の大変さを思い出すとめまいがする。理事会には集合住宅に関するあらゆる事柄が集中しており、それを全部こなさなければならなかったからだ。自分の生活を犠牲にし、睡眠時間を削り、体調不良にも耐えながらなんとか理事会の運営に携わっていたのである。こういうやり方は誰にとってもよくないし、だからこそ理事会の仕事は敬遠され忌み嫌われてきたのである。

 自分が最初の理事として2年間の在任期間に多少とも携わった仕事は、毎月の集合住宅の生活の維持に関する通常業務を別にすれば、議事録作成のための確認作業、駐輪場で起きた事故対応に端を発する駐輪場調査とその問題の把握、大規模修繕5年目のアフター点検、アフター点検に発する小規模な修繕工事対応、輪番制確立のための協力依頼と手順の作成、宅配ボックスの適正な管理、居住者の緊急連絡先資料の作成と保管、民泊禁止議案関係、書類及び文書データの整理、書庫の購入、深夜発報の火災報知器関係の事後対応、引っ越し時の居住戸からの水漏れ疑惑問題への対応、長期修繕計画策定のための工事履歴の把握及び長期的視野に基づく工事簡易表の作成、半年以上にわたった設備改修工事に関わる議案上程のための諸事項、駐輪場問題と粗大ごみ問題への緊急対応、といったところである。要するに何でもかんでも理事会の仕事なのである。

 そしてついに、ガーデニングクラブの解散が “the Last Straw” になったのである。環七に面した花壇、中庭の花壇、駐輪場側の花壇の手入れや定期的な草取りと水やり、各階プランターの手入れや定期的な水やり、中庭のトネリコの3年ごとの土の入れ替え・…たとえエントランスの植栽は管理人さんに頼み、他の部分に時折シルバー人材を入れるとしても、こういったこと全てを理事会できちんとこなし、引き継いでいけるとは到底思えなかった。理事会として担当者を決めるにしても生き物相手では荷が重すぎるだろう。ガーデニングクラブにはギリギリまで頑張っていただいたが、結局ボランティアだったため続けることが出来なかった。であれば、これを理事会の仕事として位置づけ、アウトソースするまでである。こうして、まず理事会の下部組織として植栽委員会を作り若干名の人員を募った。理事会の仕事としてやるのだから当然特典はある。大規模修繕委員会がその大変さから理事を辞退することができることに倣い、植栽委員会の仕事を2年以上やった人は輪番制の理事が回ってきた時に、本人が希望すれば1年で次の方へパスできることとした。ただし、何年やっても理事をパスできる年数は1年のみである。皆で全体のことを知り共に居住環境について考えていくという輪番制の理念を保つためである。こうして現在では園芸好きが何人か集まり、話し合いながら自分たちのペースで植栽の世話をしてくれている。

 最初は細々と始まった小委員会だったが、今ではずいぶん数が増えた。アフター点検委員会(大規模修繕工事後2年目と5年目の点検を請け負う)、長期修繕計画委員会(大規模修繕工事の翌年と5年目点検の翌年に修繕積立金の見直しをする)、設備更新委員会は分野別に2つあるが、大規模な工事を伴う仕事は交互に担当し負担を減らしている。忘れてならないのは駐輪場委員会である。この委員会は毎年の駐輪場の契約更新にかかわる業務を請け負ってくれ、また駐輪場に関する問題を解決してくれている。駐輪場委員会は数年前に結成され、自転車の使い方に関するアンケート結果から、「自転車にはたまにしか乗らないが必要になる時があるため駐輪場を確保している人」や「自転車はほぼ毎日使うがほとんどが買い物で長時間は使用しない人」がかなりの人数いることを把握し、シェアサイクルの試みを実験的に行った。自転車を処分すれば駐輪場料金と同額で一回3時間以内なら使い放題という料金設定から始め、十数名から申し込みがあったとのことだった。初期費用はかかったが実情に合わせていくつかの料金設定プランができ、今年は後部カゴ付き自転車3台分の予算請求があった。徐々に貸し出しや修理に関するルールが整備されている。駐輪場委員会は現在6名の人員を擁しているが、メンテナンスを行うとなると増員が必要かもしれない。小さなところでは毎年の消防訓練を取り仕切っている防災委員会、宅配ボックス・落とし物・ゴミ置場に関わる諸問題を扱う生活委員会もある。

 現在では組合員の半分ほどが何らかの委員会に属しており、それぞれ自分の経験や得意なことが生かせる分野で各自の力量に合わせ、またその年の自分の状況に合わせて、できる範囲で管理組合の仕事をしている。以前はなんでも理事会が抱え込んで、やったことのない仕事、やり方がわからない仕事を押し付けられていたため憂鬱だったが、現在ではそれぞれの委員会に必要な知識やデータが蓄積され保管されているので本当に仕事が楽になった。今では、理事会の仕事はほぼ、記録を残すこと、会計に関すること、各委員会の統括、あれば住民トラブルへの対応等だけである。2か月ごとに顔を合わせる各委員会からの報告を入れても、理事会は1時間以内で終了する。報告は文書またはデータでいただいているので議事録の作成もすぐできる。理事が回ってくる時には原則として委員会は抜けることになっているが、「輪番制で回ってくる理事会が一番楽だね」と皆で話している。副次的なことでよかったのは、役員活動費を廃止できたことで、これは長い目で見れば駐輪場の整備費用を補って余りあり、組合費の有効利用につながっている。社会環境の変化に伴い新たな委員会の設置を求める声が上がることもあり、希望者が何人か集まって申し出て理事会で認められれば小委員会となる。管理組合の成員全員が何らかの委員会に属するようになり、理事会が理事長、副理事長、書記、会計、監事の5名で構成される1年交代の会となる日もそう遠くないだろう。

 「ああ、よかった。十年かかってここまできたのか」と思ったら、目が覚めてしまいました。こんな夢を見たのは、頭の中でこの2年間の振り返りが進んでいるからに違いありません。やけにリアルな夢でしたが、こんなふうになれば理想的です。臨機応変で豪放磊落な方が失敗を恐れず大鉈を振るわないと無理なんでしょうね。それより何よりまだ1回目の在任期間は3か月あり、最後まで気を抜かずにやらなければならないことがあるのを思い出し、気持ちがしゃきっとしました。いい夢を見ました。


2018年10月11日木曜日

「紅春  128」

「やはりそうか・・・」と思ったのは、陸の耳のことです。兄がりくと遊びながら、「りくは耳が遠くなったのな」と話しかけていたので、私も認めざるを得ませんでした。帰っても挨拶に来ないのは年を取ったせいだと思っていたのですが、試しに、後ろからそおっと近くまで寄って、「りく」と呼んだら、明らかにビクッとしていたのでやはり聞こえていなかったのです。

 りくはまもなく12歳、人間でいえば後期高齢者になろうかというところでしょうから、加齢による体の不具合がどこかに出てくるのは仕方ありません。これがもし野生の狼だったら生きてはいけないのでしょうが、りくは生まれつき優しい子だからそうでなくてもここまで生き延びることはできなかったでしょう。まだまだ足腰がしっかりしているのは有難いことです。

「りくはもう、番犬引退ね。12歳になったら、定年退職です」
と、りくに言い渡しました。「もう好きなことしてすごしていいよ」と言いましたが、今までとどう違うのか、私もわかりません。ただ、耳が遠くなって、外の猫の鳴き声や郵便・宅配の音が聞こえなくなったのは、むしろ恵みかもしれないということです。きっと昼も夜も安心して眠れることでしょう。夜は早いうちからコテンと横になっているりくをさすりながら、「ねんねだよ~」と言っていたら、薄目を開けたりくに、「姉ちゃん、うるさい」と言われてしまいました。

2018年10月5日金曜日

「中休み」

 今年は秋バテがひどいらしいと聞きましたが、もしかするとそれかも知れません。なんとなく体調がすぐれない、体がだるい、夜熟睡できない・・・というのが主たる症状のようです。夏の暑さとそれゆえの冷房の多用による自律神経の乱れが原因とのことですが、私にはそれ以外にも思い当たる原因があります。一つはずっと理事会の仕事に忙殺されていたため、バイオリズムがここ何カ月も乱れていること、もう一つは一般社会的にも自分の周辺的にも最近あまりよくないニュースが多いので、自分自身は何不足なく暮らしているものの、気が沈みがちだということです。友人ほか幾人かの人のことは、いつも祈ってはいるのですが。

 ラジオから流れていた医者のアドバイスによると、夜は白湯を飲んで早く休み、運動はちょっとだけ体に負荷をかけるようにして、徐々に元の生活に戻していくのがよいとのこと。まず起床時間を固定するため、以前は同じ時間に起きられていたので必要なかった目覚ましをかけるようにしました。運動と言っても朝のウォーキング程度ですから、せいぜい早歩きか一歩を大きくとりながら公園を一周半し、ラジオ体操をする。帰りは、必要があれば少し大回りして24時間営業のスーパーに寄って帰ってくる・・・・を続けていたら、体はだいぶ戻ってきた気がします。

 問題はやる気が出なくて何もできないことですが、こちらはなかなか元に戻りません。こんな時は作業に限ります。家事では精神統一のごとき掃除やアイロンがけをし、またそれなりに楽しく時間を無駄遣いできる料理をする。こういったものは、やる気が充実している時はつまらなく思えて疎かになるので、こんな場合は気が晴れる作業です。片付けなどはよく精神科医が患者の治療に用いると言いますが、よくわかる気がします。材料がいろいろな変化を見せる料理も興味深く思えます。それと、家事ではないのですが、私にとってはなくてはならないこととして、紙ベースでしか手に入らない読み物を文字データにするという作業は、こんな時にうってつけの作業です。機械的な作業ですし、やる気がない割には集中できるのです。

 もう人口減少社会は始まっており、これからさらに全てのことが収縮していくと思ってよいでしょう。こういう時こそ広々とした開かれた心持を持つ必要があるのですが、なかなか現実には難しい。せめて、よいことはまず起きないと覚悟して、小さな幸せを喜ぶしかないのでしょう。ああ、忘れていました。今年は日本人科学者のノーベル生理学・医学賞受賞がありました。あれは大きな幸いですね。でも、それも何十年も前の基礎研究に与えられたもの。日本の教育環境がこのままなら、いつか「最後の日本人受賞者は〇〇だった」と語られる日が来るでしょう。「目先の利益しか頭になく、将来に対しては無為無策な人たちに国を任せて、みんなよく平気でいられるな」と思うと、中休みの期間はどんどん延びそうです。