6月下旬、ようやくりくを予防接種につれていくことができました。毎年これが終わらないと1年安心できません。その前の準備が結構大変で、毛が抜け替わった頃でないといけないし、風呂にも入れないと獣医さんに失礼だし・・・・と、準備が整った兄の休みの日、いざ出発。この日は空いていて、すぐ診察してもらえました。うれしかったのは体重が増えていたこと。昨年はギリギリ9キロを切ってしまい「これ以上減らないようにしてください」と言われましたが、今年は9.3キロで、なんと300グラム増えていました。りくは涼しい顔ですが、こちらは努力の甲斐があったと大喜びです。心音も問題なし、体温は38.6で平熱、元気そのものです。フィラリアの検査で一回「キャン」と鳴きましたが、こちらも陰性。9種混合ワクチンは今メーカーが生産しておらず、5種混合ワクチンになりましたが、これで十分なのでしょう。いつもと違う環境だとりくはすぐそわそわしてしまうので、お会計終了次第、即退散。家でゆっくり寝かせました。また来年まで、元気でいてね。
2018年6月27日水曜日
「紅春 123」
先日帰省した時、扉を開けてもりくが出てきませんでした。いつもならがさごそしていると駆けてきて大騒ぎになるのですが、その日は音沙汰無し。「上で寝てるのかな」と思いながら茶の間に行くと、ぼーっとした顔のりくが立っていました。その後はいつものような歓待の嵐でしたが、私が帰ってきた時点で気づかなかったのは初めてのことです。きっと和室で昼寝していたのでしょう。りくも歳を取ったなと思うのはこんな時です。
私の帰省中は夕方兄が帰宅してもお迎えに出ない、私が買い物から帰ってもお迎えに来ない・・・。いずれ皆茶の間に顔を出すのはわかりきっているので、「ちょっと端折りました」という感じなのです。だんだん面倒くさくなってきてるんだなあと思うと、これは我が身と重なります。いろいろなことが面倒になるのは明らかに老化の証拠で、私も特に理由はないのに、毎日やってきたことがなんだか億劫になっています。ああ、りくと一緒に歳を取っていくんだなあと実感します。一つ今のところ安心なのは、りくが散歩に対しては極めて積極的なことです。犬川柳に、
「もう朝だ どうして散歩を ねだらない?」
というのがありましたが、こうなったら本当に一大事です。また、
「リード引く 力ないのが 寂しくて」
というのもありましたが、今のところこれもりくとは無縁です。力強くぐいぐい引いていきながら、ちゃんと歩調は合わせているから、りくは「散歩力」はまだまだ健在です。だから、散歩だけは「また行くの? 疲れるな~」と思っても、喜んで付き合ってやっています。
私の帰省中は夕方兄が帰宅してもお迎えに出ない、私が買い物から帰ってもお迎えに来ない・・・。いずれ皆茶の間に顔を出すのはわかりきっているので、「ちょっと端折りました」という感じなのです。だんだん面倒くさくなってきてるんだなあと思うと、これは我が身と重なります。いろいろなことが面倒になるのは明らかに老化の証拠で、私も特に理由はないのに、毎日やってきたことがなんだか億劫になっています。ああ、りくと一緒に歳を取っていくんだなあと実感します。一つ今のところ安心なのは、りくが散歩に対しては極めて積極的なことです。犬川柳に、
「もう朝だ どうして散歩を ねだらない?」
というのがありましたが、こうなったら本当に一大事です。また、
「リード引く 力ないのが 寂しくて」
というのもありましたが、今のところこれもりくとは無縁です。力強くぐいぐい引いていきながら、ちゃんと歩調は合わせているから、りくは「散歩力」はまだまだ健在です。だから、散歩だけは「また行くの? 疲れるな~」と思っても、喜んで付き合ってやっています。
2018年6月13日水曜日
「長期修繕計画」
今年ももう一年の半分近くが過ぎたのかと時の流れの速さに驚いています。一年半前に集合住宅の理事が廻ってきた時は、「今の生活スタイルでは到底できない。いやだいやだ」と思っていたのに、「あと6回理事会に出ればお役御免だ」に変わり、気が楽になりました。今年まず着手したのは、次期輪番制候補者決定の手順を明確化し、月ごとにやるべき申し合わせ事項を文書の形で確認したことです。次の理事会を成立させるのは、前理事会の責任と思っており、丁寧さが必要なのです。今年は流会を心配することなく理事会が開けるだけでも心の負担が違います。まもなく20年という時間の経過の中で、保管すべき書類でいっぱいになった書庫をもう一台購入し、次への準備もできました。
今年の理事会の大きな仕事としては、インターホン改修計画の立案と長期修繕計画の見直しです。前者は、そろそろ更新の時期に当たるため、その機種や施工業者の選定等を行って、通常総会に上程するため、メーカーや業者にお会いして話を伺ったり見積もりを詰めていったりしなければなりません。値の張る工事なので、大規模修繕委員ほか、多くの方々のお知恵を借りて進めていく予定です。後者は、大規模修繕の翌年に立てた長期修繕計画が妥当かどうかを設計事務所に見てもらい、修繕積立金の増額など必要な見直しをするのです。先般の理事会でその中間報告があったのですが、初めて見る表でもあり、私は話についていけませんでした。これではまずいと思い、その後少し調べてみたところ、書庫の会計報告の中から行っていないものと思われていた工事の領収書を発見し、次の工事時期を遅らせることができ、少しだけ今後の出費の削減に貢献できました。任期2年で代わっていく輪番制の理事会では、これまでの工事履歴は管理会社が持っているだけで、理事の意識にあまり上らないことなので、理事会としてもこういった資料を作成して代々更新していく必要があるなと思いました。新理事会の発足時に最初から検討すべき工事内容が念頭にあれば、総会の間際になってあたふたすることはなくなるだろうと期待しています。理事の任期が1年だったらどんなにいいかと思ったことでしたが、2年目になってようやく見えてくることもたくさんあるとわかりました。いずれにしても、時期が来れば必ず終わるものはいいですね。何にしても長くやってはいけません。そのことも過去の様々な資料を調べてよくわかったことです。今なお、本理事会は「長期修繕中」なのです。
2018年6月7日木曜日
「大学敷地の変遷」
先日御茶ノ水に行った時、用事が済んだのがお昼頃だったので、久しぶりに大学に寄ることにしました。長いこと改修で閉鎖された中央食堂は昼時でごった返しており、まず思ったのは「みんな授業に出てるんだな」ということでした。三十年前は、授業に出ない学び方や、そもそも大学に来ない生き方が許容されており、授業の時間に合わせてこれほど学食が混むということはなかったように思います。何より。以前提供される食事のメニューがガラスケースに陳列されているだけだった中二階に、某コーヒー店のカフェが入っており、大学食堂がこれでいいのだろうかとちょっと疑問を感じました。新入生を迎えてまだ2か月、大食堂に反響する声の騒々しさに嫌気がさし、結局、そそくさといつもの第二食堂移動して昼食をとりました。ふと思い出したのですが、三十年前は龍岡門の手前は畑になっていて、そこで草を食んでいるヤギを見に行ったものでした。なぜ覚えていたかというと、ヤギを見ているうちヤギの目が横長の見事な長方形であることに気づいたからです。以前は構内になんだかわからない場所がたくさんあったのですが、もうそういう場所はすっかりなくなってしまいました。敷地は全て名前のある建物で埋め尽くされ、言ってみればアメリカ西海岸のような雰囲気なのです。これも時代の流れなのでしょう。
帰ろうとしてふとと総合図書館のまえを通ると、人が正面玄関から出入りしているではありませんか。この光景を見るのは数年ぶりです。思わず近寄ってみると、「新しくなった総合図書館を見に来てください」との貼り紙・・・。誰に対する呼びかけ化と考えると、やはり第一に学生や職員でしょうが、きっとあまりに長期間改修工事をしていたのでここを利用する人がめっきり減ったからではないでしょうか。さっそく入ってみると、途端に強烈な既視感に打たれて動けなくなりました。すでに喪失したと思っていた景色がそこにありました。三階まで続くあの赤絨毯も、三階のだだっ広い読書室の古い机と椅子も、二階のパソコンを使える読書室の場所や席数もほぼ昔通りに配置されており、各階の書架は昔のものに加えて新しく増えたものもきれいに格納してありました。最近は大事なものが消えていくばかりでしたので、まるで幻を見るような気分でボーっと立ち尽くしてしまいました。総合図書館は見事によみがえったのです。「今まで散々文句を言って悪かった。改修工事をしながらもなんとか開館で来ていたことの方が奇跡的だったのだ」と大いに反省し、この夏通えそうだなとうれしくなりました。この日は家に帰って寝るまで、なんだかふわっと幸せな気持ちに包まれていました。
帰ろうとしてふとと総合図書館のまえを通ると、人が正面玄関から出入りしているではありませんか。この光景を見るのは数年ぶりです。思わず近寄ってみると、「新しくなった総合図書館を見に来てください」との貼り紙・・・。誰に対する呼びかけ化と考えると、やはり第一に学生や職員でしょうが、きっとあまりに長期間改修工事をしていたのでここを利用する人がめっきり減ったからではないでしょうか。さっそく入ってみると、途端に強烈な既視感に打たれて動けなくなりました。すでに喪失したと思っていた景色がそこにありました。三階まで続くあの赤絨毯も、三階のだだっ広い読書室の古い机と椅子も、二階のパソコンを使える読書室の場所や席数もほぼ昔通りに配置されており、各階の書架は昔のものに加えて新しく増えたものもきれいに格納してありました。最近は大事なものが消えていくばかりでしたので、まるで幻を見るような気分でボーっと立ち尽くしてしまいました。総合図書館は見事によみがえったのです。「今まで散々文句を言って悪かった。改修工事をしながらもなんとか開館で来ていたことの方が奇跡的だったのだ」と大いに反省し、この夏通えそうだなとうれしくなりました。この日は家に帰って寝るまで、なんだかふわっと幸せな気持ちに包まれていました。
2018年6月1日金曜日
「悪質タックル問題」
アメリカン・フットボールにこれほど注目が集まったのはかつてなかったことでしょう。少し前なら報道されることなく、行き過ぎたラフプレーとして処理されていた事件だったかもしれません。しかし今回の件が国民的議論を引き起こしたのは、選手の行為が一線を越えていたことと、現代のテクノロジーにより、画像や音声データ、および関係者の証言等がいわばビッグデータとなって集積し、あっという間に拡散したことによります。
加えて、顔と名前を出して謝罪会見をした加害選手の人となりや置かれた状況がはっきりするにつれ、世間の人々は事態の悪質さに目が覚めたのです。あれはまれに見る立派な会見でした。追い込まれてひどいことをした後、はっと我に返り深く後悔している二十歳の学生を前に、「この若者を救えないのなら、私たちの社会は救われない」という思いを、多くの人が持ったことでしょう。
謝罪の言葉や行為に至るまでの経緯を一通り述べたのち、詰めかけた報道陣の質問に一つ一つ丁寧に答えていましたが、指導者への批判の言葉を誘導しようとする質問に乗ることなく、事実だけを繰り返したこと、「ちょっと考えれば悪いことだとわかることだった。誰に言われようと、自分で考えて行動しないといけなかった」という趣旨の発言をしていたことが印象に残りました。遅れて行われた監督・コーチの記者会見は耳を疑うようなものであり、「ああ、悪い人っているんだな」と思ってため息をつくしかありませんでした。このような誠実な青年を地獄に導いた悪辣な人々は、人としても許されませんが、とりわけ指導者という立場に立ってはいけなかったのです。「どうしても謝りたい」という本人の気持ちをかなえようとご両親が動いたことで道が開けたこと、被害者側もこの驚くべき事件の不幸な事態を理解し、加害者への深い惻隠の情もった方だったこと等は、一連の出来事のなかでは本当に幸運なことでした。
記憶が定かではないのですが、謝罪会見での質問の中に、「もし今、同じ状況で支持が出たとしたらどうしますか」というのがありましたが、その質問には10秒ほど無言でした。じっと考えているようでしたが答えが出ず、同席の弁護士が「その質問は家庭のものなので・・・」と質問を打ち切りました。なんと酷な質問でしょう。その質問に答えられるくらいなら、この人はこんな事件を起こしていなかったと、誰だってわかるはずなのに。これは罪についての本質的な問いであり、今後その問いに答えを出すことが、彼にとって贖罪の行為の重要な部分を占めるのではないかと思います。
加えて、顔と名前を出して謝罪会見をした加害選手の人となりや置かれた状況がはっきりするにつれ、世間の人々は事態の悪質さに目が覚めたのです。あれはまれに見る立派な会見でした。追い込まれてひどいことをした後、はっと我に返り深く後悔している二十歳の学生を前に、「この若者を救えないのなら、私たちの社会は救われない」という思いを、多くの人が持ったことでしょう。
謝罪の言葉や行為に至るまでの経緯を一通り述べたのち、詰めかけた報道陣の質問に一つ一つ丁寧に答えていましたが、指導者への批判の言葉を誘導しようとする質問に乗ることなく、事実だけを繰り返したこと、「ちょっと考えれば悪いことだとわかることだった。誰に言われようと、自分で考えて行動しないといけなかった」という趣旨の発言をしていたことが印象に残りました。遅れて行われた監督・コーチの記者会見は耳を疑うようなものであり、「ああ、悪い人っているんだな」と思ってため息をつくしかありませんでした。このような誠実な青年を地獄に導いた悪辣な人々は、人としても許されませんが、とりわけ指導者という立場に立ってはいけなかったのです。「どうしても謝りたい」という本人の気持ちをかなえようとご両親が動いたことで道が開けたこと、被害者側もこの驚くべき事件の不幸な事態を理解し、加害者への深い惻隠の情もった方だったこと等は、一連の出来事のなかでは本当に幸運なことでした。
記憶が定かではないのですが、謝罪会見での質問の中に、「もし今、同じ状況で支持が出たとしたらどうしますか」というのがありましたが、その質問には10秒ほど無言でした。じっと考えているようでしたが答えが出ず、同席の弁護士が「その質問は家庭のものなので・・・」と質問を打ち切りました。なんと酷な質問でしょう。その質問に答えられるくらいなら、この人はこんな事件を起こしていなかったと、誰だってわかるはずなのに。これは罪についての本質的な問いであり、今後その問いに答えを出すことが、彼にとって贖罪の行為の重要な部分を占めるのではないかと思います。
登録:
投稿 (Atom)