連休は図書館で本を借り、ほとんどの時間を家での読書に費やしましたが、どこへも行かず、ニュース報道も最低限しか聞かなかったため、大変気分よく平静に過ごせました。余計な情報が人の心を騒がせるのだとよくわかる経験でした。読んだのは、スペシャリストでありながらジェネラリストでもあり、従って自分の研究成果を非常にわかりやすく他の人に伝えられる方々(典型は磯田道史や福岡伸一)の本です。前者は日本初の学術的忍者研究者とも言ってよい方で、忍者の末裔に伝わった秘伝書から、忍者の実態やお仕事について知り得たことを書いています。「小男が猿の皮をまとって猿に変装し家屋に浸入する」忍術があったことやら、「大名行列時の過酷な任務で過労死した忍者がいた」ことやら、「七十代の忍者の間では共有されていた全国ネットワークが若い忍者世代になるとなくなってしまっていた」ことやらを読み、時には抱腹絶倒しながら一つの組織の盛衰を垣間見ることができました。また、後者からは著名な「動的平衡」理論により、生命とは何か、生きているとはどういうことかを生化学的立場から示され、その精妙な不思議さに感銘を受けました。とりわけ生物の細胞は作ること(合成)より壊すこと(分解)を熱心に行いながら微妙なバランスを保っており、それこそが生命体の維持に必須であるというのは逆説的な深い真実だと思わされ、老化や死という現象が起こるプロセスも納得できました。両者とも共通してそれぞれ自分の研究分野が面白くて面白くてたまらないといった様子がひしひしと伝わってくる方で、「こういう人を学者というのだ」と思わされました。とにかく学問への愛がどの本でも全編にあふれています。
毛色の違うものでは、『フランケンシュタイン』を読んだのですが、これは少し前に日本でも再評価されているような話を訊いたからで、著作権が切れているのでデータで入手できました。 つらつら考えると、今から30年ほども前に日本で英国映画が突如一世を風靡した時代が存在したと思うのですが、当時ブリティッシュ・カウンシルでは無料の映画上映がありました。或る日行ってみると入りきれないほどの人数になっておりやむなく帰ったことがあり、私の記憶が正しければ、それは「幻の城」というタイトルの映画でした。人が殺到したのは、美形のそしておそらく異常に日本人受けした俳優さんが出る映画だったためで、中身はシェリーとバイロンを軸に展開する映画でした。メアリー・シェリーとその妹と他にも誰か、訳がわからん芸術家にありがちの入り乱れた人間関係が実際史実でも有名な話でしたし、フランケンシュタインの誕生についても描かれているはずでした。結局この映画を見ることなく時が過ぎ、メアリー・シェリーの小説だけは読んでおこうかという気になったのです。フランケンシュタインはおそらく、ガリバー以来描かれた人間嫌いの産物でしょう。人間の悪は旧約聖書の時代から綿々と書かれていますが、誠に陰鬱、陰惨な人間像が克明に描かれていくのは、政治批判を内包する風刺作品『ガリバー旅行記』に始まると私は思っています。『フランケンシュタイン』は紛れもなく、この「ガリバーの系譜」に連なる作品であり、おそらくこの作品はポーの『モルグ街の殺人』やR.L.スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に影響を与えているでしょう。
結局のところ、私は『フランケンシュタイン』には全く感情移入できませんでしたが、その理由は博士の怪物に対する愛を少しも感じられなかったためです。人造人間を造り出そうというからには或る意味、『創世記』のパロディに違いなく、それは疎外され孤独を感じた怪物が博士に、「連れ合いを造ってほしい」と頼むところからもわかります。しかし、最初から最後まで博士にとって怪物は自分が生み出したものであるにもかかわらず、敵対者なのです。人間は『創世記』で描かれる創造主なる神には決してなれないのに、造物主になろうとして逆にとんでもない化け物を出現させてしまい、その被造物なる怪物は深い孤独と疎外感から悪事を行ってしまう・・・。この物語に関心が注がれるようなら、やはりかなり行き詰った社会になっているのです。さらに、人間疎外を淡々と描いた作家と言えばなんといってもフランツ・カフカですが、彼らが書くものは皆、悪が人間の文明自体に組み込まれていることを示しています。