2018年2月17日土曜日

「公共心の育成 市民としての成熟について」

 今、最も厄介な事柄は、「みんなの仕事」の責任者を決めることではないかと思います。すなわち、大切な役目ではあるが、なにも自分がやる必要はないと思われる仕事、いやむしろできるだけ敬遠したい仕事のことで、例えばPTAやマンションの管理組合を思い浮かべてもらえば誰もが即座に理解できるのではないでしょうか。

 友人の話によると、小学校のPTAでは進んで役員をやる人がいないので、詳細なルールが決められているそうです。いわく、子供一人につき6年間のうちに一回は必ず○○委員をやる、いわく、××委員は特に大変な仕事なので子供が何人であっても在学中に一回やればよいが、これができるのは子供が三人以上の人に限られる等々です。メンバーにとっては合理的なルールでも、傍から関係者以外の人が見れば奇妙きてれつとしか言いようのないルールというものがこの世にはありますが、これなどもその一つでしょう。私の友人は補欠の5番なので回ってこないと思っていたら、代わってほしいと懇願されあまりに気の毒なので引き受けたら、△△という最も忌み嫌われる役職をくじで引いてしまい地獄だったとのことでした。△△委員は翌年の候補者を立てねばならず、同じ立場の役員が夜集合して、候補者のお宅を一軒一軒お願いに回ったそうですが、聞くも涙語るも涙の物語でした。一番ショックだったのは前年懇願され代わってあげた人からけんもほろろの扱いを受けたことだったと嘆いていました。このように公共のことに関わる仕事の役職決めは、情け無用の嵐が吹き荒れているのです。

 マンションの理事会の多くは輪番制で運営されているようですが、これもまたできれば避けたい仕事です。どうしても無理という人は自分で次の人に話をつける、即ちできない旨を話して引き受けてもらうというやり方で会が維持されているケースが多いことから、理事会自体もこの件にタッチしたくないという意図が如実に見て取れます。しかし、ルールに則って次の方に事情を説明しに行ったとしても、今どき事情を抱えていない人などおりませんし、自分が正当と考える理由を他人がそう認めるとは限りません。皆が事情を述べだしたら理事をやる人はいなくなってしまいます。こういった手続きを踏んだ末に辞退される方はまだいいとして、もっと困るのは、居住しているのに連絡が取れない、次の方への依頼もせず理事会を欠席し続ける等の場合です。せめてできない理由があれば理事会に来て説明するなら考えようもあるでしょうが、梨のつぶてではどうすることもできません。このような身の処し方をする方が心安く居住できているのかどうかはともかくとして、理事会の運営に支障をきたすのは必定でしょうから、どうしたって波風は立つでしょう。難しいのは、どこにでも善意の方々がいて、規則をきちんと履行させるために違反者に何らかの強い働きかけをすることがかえって問題をこじらせてしまうことがあるということです。このようなことで居住者同士でいがみあいやいざこざが起きたのでは、何のために理事会があるのか、本末転倒です。

 こういった現象の理由を考えると、一つには高齢化と世の中の急速な「電通化」で、人々が経済的にも時間的にも心理的にも余裕を失ってきたことが考えられます。一方で自己利益の追求や自らの生活を第一とする生き方があまりに身に沁みついてしまい、公共心が薄れていることも大いに関係しているでしょう。これはご本人が、「損なことはしたくない」という或る種自己防衛的な心理規制によって、そのような行動に駆り立てられているようであることからもわかります。問題はその種のタイプの人が増えすぎてしまうと、まともな社会を維持することはできないという点にあります。経験上、自己利益だけを追求する人が1割程度ならなんとかなりますが、それが2割に近づく辺りがその共同体を維持できるかどうかの分岐点ではないかと思います。人は自分の関わる環境からメリットだけを得て、責任は果たさないという訳にはいきません。しばらくはよくても、不正や不平等による不全感がまともな構成員の心を蝕み、やがてそのような共同体は必ず滅ぶのです。

 さらに、今の日本でもう一つ考えに入れなければならない要素は、人口減少および人口ピラミッドの年齢構成の変化です。どう見てもこれまであった数々の共同体をすべて維持できるとは思われず、それらを担う意思と余力のある人が相当数いない共同体はどんどん消滅していくでしょう。人口減少に伴う事態はこれまで経験のないことであるため、年配の人であればあるほどつい「そんなはずはない、できるはずだ」と焦りが出るようなことも起こり得ます。受け渡す相手に気持ちがうまく伝わるかどうかが決め手です。だからここでは、年配者の忍耐と知恵が求められるのです。社会にとってどうしても必要なものなら、皆が少しずつでも自分のできることを持ち寄り、それぞれができることをして次の世代にバトンをつないでいくしかありません。近代市民社会が存続できるかどうかは、その構成員一人一人が成熟し、後継を担う人材をどれだけ育成していけるかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。