先日、音楽プロデューサーK氏の記者会見が物議をを呼びました。不倫釈明会見のはずが、引退会見になってしまい、騒動というか議論に発展しました。音楽に疎い私はK氏にも関心はなく、彼が音楽界で一時代を作った天才という程度の知識はありましたが、金銭問題で裁判になったことも、妻がくも膜下出血で一命を取り留めたが障害が残ったことも知りませんでした。記者会見では相当長い独白をしていましたが、聴いているうち複雑な気持ちになりました。
議論になったのは、「仕事をやめる必要はない、妻の病状をあそこまで話してよいのか」という点に集中していたようですが、私も全体として詳細すぎると思いました。それが悪いというのではなくて、或る種、病的なこだわりを感じたのです。小説家が私小説を書くならともかく、音楽家であればそこまで話すことは求められない、もっとお座なりに済ませてよかったはずですが、「一定のけじめとして仕事を辞める」のと同様のレベルで、話さずにはいられないというふうでした。それは、すっぱ抜いた写真週刊誌に対しても、以前裁判官の声を聞いたのと同じレベルで、その暴露の所業をとらえていたことに端的に表れています。全般的に大変正直に話されていて、事の経緯や心の動きはよくわかりました。もう一つはっきりわかったのは、K氏が「贖罪」とか「罪」という言葉を使ったことからして、何らかの罪責感に深くとらわれていたということです。仕事に関しては体調不良や介護にまつわる様々な疲れから、ずっと引退を考えてもいたようですし、「やめさせてやれよ」としか言えません。それを贖罪と結び付けて考えるのは本人の感じ方ではあるでしょうが、あの場で理解してもらえるとは到底思えない内容ですし、公の場で話すことでもない気がします。「介護で悩んでいたとは知らなかった」と述べる知人のコメントがありましたが、周囲に親しい友人等で話せる人はいなかったのでしょうか。ご本人の決断は尊重しますが、いきなり全部をマスコミの前で話す前に、「誰かに相談できるとよかったのにな、有名人だとそれは難しいのかな」と、妙に寂しい気持ちになりました。一人で悩まずに教会に来ればいいのに。