2018年1月27日土曜日

「紅春 117」

りくに茶の間で少し早い夕飯をあげてから台所に立っていた時のことです。二杯目のごはんをあげて、「たぶん食べきれずに残すだろうな」と思っていると、しばらくしてりくが茶の間から台所へやって来ました。しかしそのまますうっと茶の間に戻って行ったので、なんとなくいつもと違うと気になり、茶の間に見に行きました。すると、いつもは食べ残しているお皿がすっかりきれいになっていました。

 普通の犬には何でもないことなのでしょうが、りくは食が細い犬で食べさせることにいつも苦労しているのです。すうっとやって来たのは、「ちょっと来て見て」だったのであり、「全部食べたよ」だったのです。もちろん褒めてあげましたが、ごはんを食べて「エライ、エライ」と褒められる犬ってどうなんでしょう。





2018年1月22日月曜日

『スター・ウォーズ』と『テルマエ・ロマエ』

 昨年の終わりごろ、映画のプロモーションに関連して『スターウォーズ』三作が放映されました。それまで一度も見たことがなかったのでちょっと興味がわき、TVも入るラジオで聞いてみました。その後、年が明けてから、日本の風呂文化を世界に知らしめたと言われる『テルマエ・ロマエ』の放映があり、こちらも同様に聞いてみました。結論から言うと、後者はそれなりに楽しむことができましたが、前者はどうしても最後まで聞くことができませんでした。

 この理由を考えてみると、第一に、前者はスペース・オペラという壮大すぎる物語で、オペラの素養がない者にはついていけなかったのに対し、後者は古代ローマと現代の日本を行き来する物語で、どちらもわりと身近で、自分の想像力でもついていけたためではないかと思います。特に前者はSFファンタジーにしてアクションが多用された映画なので、テレビではなくラジオで効果音を聞くだけではその部分の楽しみが大いに削がれたのは無理からぬことです。それに対して後者は、言葉による説明でそれなりに場の理解ができ、日常生活の中に普通に存在する事物が取り扱われていたため楽しめたのでしょう。

 第二の理由として、前者はおそらく最初から映画化する目的で作られた作品であり、独特なキャラクター等も映像がなくては楽しめないのに対し、後者は元々マンガが映画化された物であり、要所要所になるほどと思わせる掴みがあるためではないかと思います。言うまでもなく、マンガという劇画と台詞のハイブリットの読み物の市場は世界的に見ても日本の独壇場です。マンガという媒体は、少しでも手抜きやつまらない緩みがあったりすると連載打ち切りという真剣勝負にさらされています。後者はそれを乗り越えて生まれてきたものが、さらに多面的に評価されて映画化されたものであるだけに、話の展開は次々と馬鹿馬鹿しいが面白い要素がこれでもかと繰り出されてくる感じで、途中でやめてもいいけどもう少し聞いてみるかという気にさせるのです。

 第三に、前者は「正義」や「父と子」といったシリアスなテーマをもったいかにもアメリカ的な作品であるのに対し、後者は底抜けに明るいコメディでありながら、どこかほろりとさせる非常に日本的な作品であるためではないかと思います。これは好みの問題で、前者が世界的にヒットし莫大な興行収入をあげたことからもわかるように、人間性についての普遍的なテーマを持った作品です。それに対して後者は、日本の文化を風呂という観点から古代ローマのそれと比較し、極めて娯楽的な作品にしあげたもので、例えば主人公の悩みにしても「善悪」ではなく、せいぜい他人のまねをしてしまった劣等感といった具合なのです。その時の気分にもよりますが、後者は心理的負荷が少なく軽い気持ちで楽しめます。もっと言えば、タイトルからして前者は戦争映画なのに対して、後者は風呂賛歌の映画ですから、戦争を憎み、平和を愛する平たい顔族の一員が後者を好むのは理の当然なのでしょう。

2018年1月15日月曜日

「若い方へのエール」

 正月明けは忙しく、予約していた病院の待合室は、私が終わる頃にはベンチに空きがないほど混んでいました。当然ご高齢の方が多く、世にはこれほど病に苦しむ人がいるのかと思わされました。帰りのバスで途中から会社員と思われる若者三人が乗り込んできて、そのうちの一人が後部座席に向かうステップのところに立ちました。あとの二人はステップを上りきった場所で、かつ肩掛けバッグだったからよかったのですが、ステップのところの人はリュックを背負っているので、さほど混んだ車内でもないのに人が通るたびにぶつかっています。自分の立っている位置のまずさに普通気づくだろうと思うのですが、そんな気配はありません。だんだん気鬱になったのは、「この人、仕事上でもたいへんだろうな」と思ったからです。これほど自分の立ち位置がマッピングできていないとすると、悪気はなくとも万事うまくいかないだろうと思います。世の中に揉まれて経験を重ねないとわからない部分もありましょうが、ほんの少し観点を変えてみるだけで大きく開けてくる視野もあるはずです。

 それから数日後のことですが、提出書類が揃ったので確定申告に行って来ました。二月になると混むのでいつもこの時期に済ませているのです。自宅のパソコンからでもできるはずですが、わからないことがあった時すぐ訊けるようにいつも税務署に出向いています。今回の担当者は若い方でしたが、「源泉徴収票がないので還付はありませんが・・・」と怪訝そうな顔をしています。そんなことを言われたのは初めてでしたが、それはわかりきったことです。還付を求めて来ているわけではなく、これをしておかないと来年度の医療関係の書類が取れないのです。しかし考えてみれば、若くて健康な方には課税証明書がないと治療に必要な書類が整わないなどということは頭に浮かばないのでしょう。普通の人ならそれでよいのですが、税金のプロたる税務署の職員がこれでは困ります。国税という観点からだけでもよいので全体を見渡す力を培っていただきたいと思います。

 若い方に対する私の印象は一般的にすこぶる良いのですが、時々普段身を置いている仲間や組織の外側にも意識を及ぼして、その中で自分を俯瞰できるともっと良いだろうなと感じます。たまにでよいので試してみてください。期待しています。何といっても日本の将来はあなた方にかかっているのですから。

2018年1月8日月曜日

「頭の体操」

 年が明け一週間が過ぎました。東京へ戻って、今年の事始めにパソコンに向かいました。数年前に作って放置してあったサイトのコンテンツの全面改装に手をつけることにしたのです。私の知る限り、簡単に使える無料のホームページのサイトは3つあり、これはその3つ目のものです。以前、会堂建築の支援品を扱っていた時のサイトですが、それも終了して空いていたので、昨年書いた物語を載せることにしました。ご報告が遅れましたが、昨年十月に会堂再建のための教団借入金を完済することができました。ほっとしています。これも全国の皆様から祈りによって支えていただいたおかげと、心より感謝いたします。ありがとうございました。

 久しぶりにそのサイトのファイルマネジャーを開いてみて、作成の仕方が全く分からなくなっていることに気づきました。このところまいとしやっている教養学部時代の忘年会で、昨年話題になっていたのは老親の問題でした。何かおかしいと認知症を疑い同居するようになったものの、去年出来ていたことが今年はできなくなっている・・・というような話をききましたが、これは80代の老親ではなく私の身に起きていることなのだと愕然としました。何日かかけて、少しずつ記憶を手繰り寄せるようにして思い出して行きましたが、もはや「少し前に出来ていたことが今はできない」というより、「できるはずのないことをどうして少し前にはできていたのだろう」と不思議に思えるほどの理解の遠さでした。

 「これではいけない、私の世代には介護の手は回ってこないのだ、自立して生きていかねばならぬ、足腰を鍛え、頭を鍛え、認知症だけは避けなければ・・・」と、少々焦りながら多くの時間をパソコンに向かって過ごしたので、ウォーキングと最低限の家事以外、他のことは何もする時間がありませんでした。一番困ったのはトップページの右列の表に入れる文字を上揃えにできなかったことで、いろいろ調べてこれでいいはずだというタグを入れても駄目という膠着状態が三日ほど続きました。どうも出来ない理由は、表が別な表の上に重なっているためではないかと思うのですが、修正方法がわからず、ふとトップページの右列に文字を入れるのをあきらめ、表が重なっていないサブページで試してみたらすんなり出来たのです。かけた時間が長ければ長いほど、ついそれまでのやり方に拘泥して切り替えられないものですが、或る程度のところで見切るのも大事だなと知らされました。

 これであとは簡単に進むかと思いきや、サブページに載せることにした中央列の本文と右列の引照がずれていることがわかりました。これはプレヴューと実際の見え方に差異があるため、プレヴューを見ながら作成しても実際にはうまく揃わないのが原因のようで、これではプレヴューの意味がないではないかとがっくりきました。これはこまめに実際の見え方をチェックしながら、適切に空行タグを入れて中央列と右列の段差を解消していくしかなく、気が遠くなるような話です。とはいえ、見通しは立ったのであとは根気の問題で、こつこつやれば必ずできることです。ウェブ上にいつ完成版が公開できるのかわかりませんが、とりあえず第1章だけできましたので、興味のある方は下記からどうぞ。正月早々どっと疲れました。






2018年1月3日水曜日

「酉トリから戌イヌへ」

昨年は年末になって雪が降りました。少し前から裏の川に白鳥が来ているとの報があり、ひょっとしたら散歩の時会えるかもと楽しみにしていました。土手の上からは見えない安全な場所にいるらしく、りくが土手を降りて河原の道を行くのにも喜んで付き合いました。すると、枯れすすきが途切れて視界が開けたすぐ脇の川の中に、まとまった白鳥の群れがいるではありませんか。慌てふためいて家に戻り、りくを置いてカメラを取って戻ってきました。ごめんね、りく。ありがたいことにまだそこにおり、カメラのズームで見ると、明らかに大きい親鳥が2羽、まだ灰色がかった小さ目の子が5羽いることがわかり、写真に納めることができました。縁起を担ぐわけではありませんが、なんとなくよい年の瀬でした。

 それにしても最低気温がマイナス5度になることもある寒さの中で大丈夫なのか、また魚がいるような川ではないので食べ物はあるのかと、心配になってきます。その後、もっと下流の橋のところには大群がいると聞き、元日にりくと行って確かめてきました。写真を撮っていたら、どんどんこっちに寄ってきて、下流からも別な大群が集まって来ます。どうも餌をあげている人がいるようだとわかりほっとしました。間違われて期待を持たせてはいけないので、すぐ退散しましたが、これだけいると全員に食べ物が行き渡るのかと別の心配も頭をもたげます。まだ子供の鳥もいるのにと心配し出すときりがありませんが、考えてみれば人間より鳥の方が賢いに決まっています。それにいつだって神様がこれらの小さな者たちを養ってくださるのですから安心していてよいのです。干支の引き継ぎ式ではありませんが、今年はイヌ年、家にいる手のかかる子には今年こそしっかりしてほしいものです。この子については神様に遣わされて家に来たので、ちゃんと養ってやらなくてはなりません。