モーセ五書の律法に関して、一読して面白かったという人はあまりいないだろうと思います。関係者にとっては非常に重要な規定なのでしょうが、なんだか似たような記述が多く、部外者にとっては退屈そのものでしょう。ところが最近『申命記』の或る記述に気づきひっくり返るほど驚きました。『レビ記』においてあれほど清いか清くないかに神経質で、その区別や汚れの清めについてあれほど執拗に書かれた規定があっさり変わっているのです。
「ただし、どの町においてもあなたの神、主が与える祝福に従って、欲しいだけ獣を屠り、その肉を食べることができる。かもしかや雄鹿を食べる場合のように汚れている者も清い者も食べることができる。」 (申命記12章 15節)
いったい何事が起きたのでしょうか。肉というのは彼らの主食、祭司のもとで正しい仕方で屠って焼かれなければならないはずで、家畜など捧げた人が口にできるのは、和解の献げ物などに限られていたのではなかったでしょうか。しかも汚れている者も食べてよいとはどうしたことでしょう。
このことについてずっと考えていたのですが、『列王記下』の17章にサマリヤを都とする北イスラエル王国の滅亡時の様子に行き当たりました。この時の描写によると、イスラエルの民がアッシリアによる最初の捕囚を経験したことがわかります。つまり祭司たちはサマリヤからいなくなったと推測でき、逆にアッシリアから移り住んだ人のせいでどうもその地が宗教的に荒れたらしく、そのため一人の祭司がアッシリアからベテルに移り住んで指導にあたった次第が書かれています。
「彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。」 (列王記下17章32節)
聖なる高台とは、その土地の古くからの礼拝の場所であり、本来イスラエルの信仰とは相容れないものです。しかしこの記述によると、彼らが主観的には主を敬っているつもりなのだということがわかります。なぜ勝手に祭司を立てたのか? それはずばり祭司がいないと肉を食べられないからだと考えられます。いい悪いの問題ではなく、きれい汚い以前の問題で、日ごとの糧を得るためにはそうするしかなかったのです。
ヤハウェ信仰が、少なくとも部分的には古来のカナン土着の信仰と分かち難く結びついていたのは確かでしょう。これがアッシリア人の目にどう映っていたかは、ヒゼキヤ王の時代にエルサレムを包囲したラブシャケの言葉に表れています。
「お前たちは、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。」 (:列王記下18章 22節)
つまり、ヒゼキヤはエルサレム神殿での正しい祭儀、正しいヤハウェ礼拝を目指していたのですが、ラブシャケにはなぜ高台の祭壇を破壊したのかがさっぱりわからない、それほど高台での祭儀が浸透していたということです。
サマリヤが陥落して百年後に、今度はユダ王国でヨシヤ王の律法改革が始まり、これも当然同じ問題を引き起こします。
「王はユダの諸王が立てて、ユダの町々やエルサレム周辺の聖なる高台で香をたかせてきた神官たち、またバアルや太陽、月、星座、天の万象に香をたく者たちを廃止した。」 (列王記下23章5節)
肉を口にできるような働き手を廃止したのでは、日々の糧を得られません。これに追い打ちをかけたのがバビロニアによるエルサレムの祭司たちの捕囚です。祭司がいない以上動物犠牲の宗教的祭祀と日常の食肉の規定を切り離すしかありません。また、我が身の汚れを清めてくれる祭司がいないからといって食べないわけにはいかない。すべて許容するしかないのです。身も蓋もない言い方ですが、おそらくこれが『申命記』に表された食肉規定変更の真相でしょう。
食の問題は人間にとって最も基本的で切実な問題です。日本に、米を食べる前に必ずお祓いが必要という規定があったとして、そのお祓いをしてくれる神官がいない、あるいは遠くまで行かないとそれをしてもらえない場合に直面する困った事態を想像するだけで十分です。肉の場合はもっと日持ちがしないのですからなおさらです。というわけで、『申命記』に書かれた食肉規定は、実に切羽詰った要請からでたものだとわかっただけでなく、その書かれた年代もある程度想定できると思うのですが、とうでしょうか。
2017年2月24日金曜日
2017年2月18日土曜日
「紅春 100」
東京にいる時ふと「りく、どうしてるかな。」と思うことがあります。心配なのは昼間ずっとひとりきりで頭がぼけないだろうかということです。人間はパソコンをはじめとする電子機器のおかげですることがたくさんありますが、これでパソコンがなくて家にいることが多ければ私などは絶対にボケる自信があります。りくのすごいところは、以前も書きましたが、おもちゃとそうでない物の区別がついているということです。茶色のくまちゃんはもう中綿をほとんど出されて時々あたりに飛び散っていますが、他の靴下や座布団などに同じことをすることはありません。人間でもおもちゃとそうでない物の区別がつかない人もいるのに、すごいな~といつも思います。
いつもは外につないだままゴミ出しや草むしりや雪かきをしているとかまってほしくて騒ぐのに、春と秋の町内会の清掃作業の時は他の方々と一緒の何か特別な日だとわかるらしく、とてもおとなしくしています。こういうハレとケの日の区別まで自然についていて振る舞い方を心得ているのですから、本当に恐ろしいほど利口な犬です。(人間でもできない人はたくさんいます。)おかげで皆様に「りくちゃん、かわいいねえ。」と褒められております。私が帰省している時はアドレナリン過剰状態ですが、いない時はきっとほとんど寝て過ごしているはずです。この落差はりくの脳の活性化にとってそんなに悪くないのかもしれません。
いつもは外につないだままゴミ出しや草むしりや雪かきをしているとかまってほしくて騒ぐのに、春と秋の町内会の清掃作業の時は他の方々と一緒の何か特別な日だとわかるらしく、とてもおとなしくしています。こういうハレとケの日の区別まで自然についていて振る舞い方を心得ているのですから、本当に恐ろしいほど利口な犬です。(人間でもできない人はたくさんいます。)おかげで皆様に「りくちゃん、かわいいねえ。」と褒められております。私が帰省している時はアドレナリン過剰状態ですが、いない時はきっとほとんど寝て過ごしているはずです。この落差はりくの脳の活性化にとってそんなに悪くないのかもしれません。
2017年2月14日火曜日
「王位継承問題と政体」
旧約聖書を読んで、大昔の政体についてあれこれ思うところがありました。『士師記』ではギデオンの息子でアビメレクという人が出てきて、武力的に強かったのかシケムの住人に王として押されるという話があります。この人は妾の子で、自分も含め兄弟が70人いたといいます。一人だけ逃げられますが兄弟を皆殺しにして・・・という話の詳細は『士師記』に譲るとして、気になるのは兄弟の人数です。姉妹もいたはずですから、ギデオンに相当な数の妻と妾がいたのは明らかです。とはいっても、おそらく10人~20人程度でしょう。この観点から見るとソロモンの後宮にはその50~100倍の王妃と側室がいたと言われるのが本当だとすると、それは世継ぎにまつわる要請というよりは周辺諸国との絆を強める目的の方が大きかったのではないかと思います。
或る地域の最高権力者の呼び名はいろいろあるのでしょうが、とりあえず王という呼び名で代表させて考えると、血統によりその地位が継承される場合、とても難しい問題が起こるはずです。その順番は厳格に決まっていることが多いと推測できますが、あまりきっちり決めておくと融通がきかずかえってうまくいかない状況もあるでしょう。たとえば、、長子が継承順の第一位と決まっていても、諸々の事情で状況が困難であればあるほど不都合が起き、末期のユダ王国のように弟が兄より先に王位に就くといったことも起きます。王にふさわしい資質が状況で変わるからです。いずれにしても、或る意味王以上に力を持つ決定機関があったことは確かです。しかしここまで来たら、傍系も含め一族の中で最もふさわしい者からその時々で選ぶ選抜方法へ移行するのは時間の問題です。ところがこれはこれで新たな問題を引き起こします。王位継承候補者が多すぎても血で血を洗う争いが発生するからです。こう考えると、絶対に血筋を絶やしてはならないという掟というのは、生物学的見地から見ると実は大変な負荷がかかる制度です。しかも、こういったことが一夫多妻制を前提にしており、女性の人権という概念が浸透すれば維持できないのは明らかです。すなわち、血筋による地位の継承は不可能になり、必然的に別な政体へと移行していくということです。立候補による選挙という今あたりまえになされている方法は、その候補者の範囲が一族からその支配領域に住む全員に拡大されただけです。もちろんこれは自由・平等という原理がなければあり得ませんが、その根本にあるのは生物学的適応という生き残りの手段だったのです。二世議員、三世議員という世襲制が見られるのはとても古い政体の変形であり、まずいことがあれば淘汰されていくことでしょう。
或る地域の最高権力者の呼び名はいろいろあるのでしょうが、とりあえず王という呼び名で代表させて考えると、血統によりその地位が継承される場合、とても難しい問題が起こるはずです。その順番は厳格に決まっていることが多いと推測できますが、あまりきっちり決めておくと融通がきかずかえってうまくいかない状況もあるでしょう。たとえば、、長子が継承順の第一位と決まっていても、諸々の事情で状況が困難であればあるほど不都合が起き、末期のユダ王国のように弟が兄より先に王位に就くといったことも起きます。王にふさわしい資質が状況で変わるからです。いずれにしても、或る意味王以上に力を持つ決定機関があったことは確かです。しかしここまで来たら、傍系も含め一族の中で最もふさわしい者からその時々で選ぶ選抜方法へ移行するのは時間の問題です。ところがこれはこれで新たな問題を引き起こします。王位継承候補者が多すぎても血で血を洗う争いが発生するからです。こう考えると、絶対に血筋を絶やしてはならないという掟というのは、生物学的見地から見ると実は大変な負荷がかかる制度です。しかも、こういったことが一夫多妻制を前提にしており、女性の人権という概念が浸透すれば維持できないのは明らかです。すなわち、血筋による地位の継承は不可能になり、必然的に別な政体へと移行していくということです。立候補による選挙という今あたりまえになされている方法は、その候補者の範囲が一族からその支配領域に住む全員に拡大されただけです。もちろんこれは自由・平等という原理がなければあり得ませんが、その根本にあるのは生物学的適応という生き残りの手段だったのです。二世議員、三世議員という世襲制が見られるのはとても古い政体の変形であり、まずいことがあれば淘汰されていくことでしょう。
2017年2月9日木曜日
「家族というものの寿命」
友人と話していて、彼女が「夫の家族は相当変わった家族だったのではないかと、つい最近気づいた」というのを聞きました。その義理のご両親はもう亡くなっているのですが、長年の生活の中で夫の言動を見てどうもそうでゃないかと思ったようです。或る言動の原因を本人ではなくその育った家庭に帰すことは普段あまりしませんが、環境によって人が作られることを思えばまさにその通りでしょう。しかし家庭というものはすべからく特殊なものだというのが私の考えです。普通の家庭などというものはないのです。 私のうちも相当変わっていたと思うのですが、それは両親が日本に1パーセントもいないクリスチャンであったことに由来するでしょう。しかし、日曜は礼拝に行く週間を除けば、そう変わったこともないと思っていましたが、どうもそうではないらしいとわかったのはもう十代も終わりの頃です。大学時代は中高の頃とは生活環境があまりに違う人々と出会う機会となりましたが、実に様々な家庭の話を漏れ聞いては、うちではあり得ないと思ったものでした。皆ほかの家庭のことは知らないのですからあたりまえですが、率直に言うと、「うちも独特だったがこれでよかった。みんな普通じゃない。」と思ったのです。
「ちびまるこちゃん」というアニメはもうテレビで二十年以上やっている長寿番組です。私もよく見ます。安心できるからだと思います。さくら家の構成員は常に、おじいちゃん、おばあちゃん、ひろし(頼りない一家の主)、お母さん、お姉ちゃん、そしてまるこの6人です。まるこは永遠の小学3年生、増えることも減ることもない永遠不滅の家族です。実際にはお姉ちゃんやまるこが巣立っていく日があるはずですが、そういうことは起こりません。現実の生活では祖父母、両親が亡くなって、どちらかがその家に残って家庭をもつということがあるかもしれませんが、それはまた別の家族の話です。おそらく二人はどちらかを失った時点で強烈な孤独を感じるはずです。もう家族は自分の中にしか残っておらず、自分が消えれば一つの家族が消滅するからです。
少し前、昭和の時代までは親から子、子から孫と代々受け継がれる家というはかなくも美しい幻想がありました。しかし今は、同じ両親から生まれたのではない兄弟姉妹で構成される家族も珍しくなく、かつてのような血統や家名を受け継ぐべきものとして持っている家がどれほどあるでしょう。或る人が自分の家族を思い浮かべる時、その構成員の境界がぼんやりしているとか、いくつかの全く異なる家族が思い浮かぶ場合もあるかもしれません。いずれにしても自分が子供時代を過ごした家庭というものは一代限りです。自分が最後の構成員となり家族の記憶をいつくしんでいる間、すなわち家族の寿命はその人の寿命と同じです。
2017年2月4日土曜日
「ささやかでもない楽しみ」
朝、ジョギング&ウォーキングに行くとき、胸ポケットにICレコーダーを入れて旧約聖書を聞きながら出かけます。精読ではなく流し読みなのですが、それだけに何か引っ掛かることが必ずあります。結構な量をまとめて聞くので少し前に読んだ部分とのつながりに気づいたり、何度か読むうち以前はさっぱり理解できなかったことが少しずつわかってきたりします。帰ってきて知らない言葉を検索すると、これは本当に驚きなのですが、どんな小さいことでも調べている人がいるのです。聖書の用語を騙ったアニメやゲーム等のサイトがありますが(そうすることによって何かそれらしい箔でもつくのでしょうか)、そういうものには近づかなければよいだけで、真面目な研究者の研究成果や牧師さんの説教はとても参考になります。「毎日ゆっくり聖書を読んでいます」といった感じの一般の方の投稿も好感がもて、思わず「お互いがんばりましょう」と心の中で応援したりします。
いつも不思議に思うのは、いつどこを読んでもなにかしら必ず初めて聞く話があることで、もっと不思議なのはよく知っている話のはずなのに、「えっ、これってそういう話だったの?」的な仰天話に変わることです。めったにありませんが、ときにいくつかの話がダイナミックにつながるという展開になる時は、しばらくそのビビビ感に打たれ、一瞬ですが何か見晴らしのよい山に登ったような気になります。こんなに不思議な本だとは思いませんでした。読むたびに違う発見があるので、この面白さに飽きるということはまずなさそうです。
いつも不思議に思うのは、いつどこを読んでもなにかしら必ず初めて聞く話があることで、もっと不思議なのはよく知っている話のはずなのに、「えっ、これってそういう話だったの?」的な仰天話に変わることです。めったにありませんが、ときにいくつかの話がダイナミックにつながるという展開になる時は、しばらくそのビビビ感に打たれ、一瞬ですが何か見晴らしのよい山に登ったような気になります。こんなに不思議な本だとは思いませんでした。読むたびに違う発見があるので、この面白さに飽きるということはまずなさそうです。
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