預言者と聞いて明確なイメージがわくと言う人はどのくらいいるでしょう。預言者を予言者と思っていた子供の頃から今に至るまで、私の中のイメージは物語の域を出ない或る種謎の人々です。彼らがどんな風貌をしており、どんな生活をしていたのかといった通俗的な興味もありますが、まずわかっていることというと、漢字の表す通り「神からその言葉を預かって、民に知らせる任務を負う人」であることです。「召命」という言葉がありますが、その任務のために神から呼ばれるという意味のキリスト教用語なのでパソコン入力ですぐに漢字変換される単語ではありませんし、一般の方にあまり知られていない言葉でしょう。喜んで預言者としての任に就く人はおそらく少数で、多くはいやいやながら引き受けざるを得なかったのだということです。ヨナのように逃げ出しても連れ戻されるのは比喩的にその務めのあり方を示していますが、これに関しては人々のそしりと無理解の中で神の言葉を取り次ぎ続けたエレミヤが心の葛藤を語ってくれています。
エレミヤ書20章9節
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。
イスラエル民族が他の民族と異なっているのは、この預言者という存在が最高権力者にもものが言えたことでしょう。王と言えども自分にとって都合の悪いことを語る預言者を簡単には殺せないのです。悪逆非道な王として描かれるヘロデ王でさえヨハネの教えに「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けて」(マルコによる福音書6章20節)いたりするのです。
預言者と言えばイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言者がまず頭に浮かびますが、これは語ったことが記述文書として残っている預言者であって、それ以前に史書に出てくるおとぎ話の人物のような預言者たちが大勢います。列王記のエリヤやエリシャはインパクトがあります。エリヤはバアル神を信じる預言者450人およびアシラ神を信じる400人を相手に、たった一人でスペクタキュラ―な預言者対決を演じていますし、エリシャに関してはベテルに上るとき町の子供たちが「「はげ頭、上って行け。」とはやし立て災いを招いたショッキングな話がありました。申命記には「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」(申命記34:10」とありますが、これはモーセの権威づけのためでしょうか。神の言葉を預かるという意味では確かにモーセも預言者ですが、後代の人間にとってモーセが別格なのは周知のことですから、申命記が成立した時期への関心をよびおこします。列王記には神の人を欺いて一緒に食事し彼に死をもたらしたとんでもない預言者も出てきたっけ。にせ預言者というのももちろんいるのです。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった、預言書としてその言葉が記された預言者は他の預言者とどう違うのかなどわからないことが多いですが、はっきりしているのは神からの召命のみがその人を預言者として立たせるのだということ、それ以外の外的属性はその働きに何の影響もおよぼさないということです。エリシャは十二くびきの牛に引かせて畑を耕せるほど裕福な家の出身でしたし、エジプトとクシャによる反アッシリア同盟に加わることの愚かさを説いていたイザヤは三年間裸、はだしという異様な出で立ちでした。幼い時からシロ神殿で祭司職の修業をしていたサムエルは、いつのまにか預言者となって、サウルとダビデの即位に関して、キング・メーカー的働きをしています。彼はその後生まれ故郷のラマに帰り、ギルガル、ベテル、ミツパの聖所等を巡回指導していたようですが、シロ神殿に立ち寄った形跡がないのは不思議です。「「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネによる福音書4章44節ということでしょうか。