2016年11月25日金曜日

「緊急連絡先」

 先日福島県沖を震源とする結構大きな地震がありました。発生から間もなく沿岸部では避難する車の渋滞が起きたり、原発の冷却装置が一時停止したりと、いくつか懸念材料が報道されましたが、福島市内はほとんど何も地震に伴う影響はありませんでした。そんなわけで私は通常の務めに没頭して半日過ごし、津波が広範囲で起きたことや揺れによる影響が都心で出ていたことを知ったのは昼頃でした。その間、実家の電話やパソコンにメールで安否確認をくださった方々がいて、深く感謝するとともに思った以上の災害なのかも知れないと感じました。

 離れたところにある携帯電話に友達から留守電メッセージやメールが来ていることに気づき、おもむろに連絡してみるとずいぶん心配をかけていたことを知りました。
「考えてみたら携帯電話以外に連絡先を知らないと気づいた。実家にいるかどうかもわからないが、前にいただいたお母様の短歌集に実家の電話番号があったはず。ここにかけてみてつながらなくても二日は待とうと思った。ブログの更新は前回いつだったか・・・」等々、何かとても切迫した様子がうかがえびっくりしました。申し訳なし。実は本の奥付の電話番号は微妙に間違っていることを発見し、ここにかけていたらさらに事態がこじれていただろうと思った次第でした。友達には連絡方法をつながりやすい順にお知らせしましたが、最終的確認方法はやはり家族に頼むしかありません。

 そういえば、以前逆の立場で同じようなことがありました。いつもすぐ返信をくれる友人から返信が来ないので、携帯電話を落としたのではないかと想像し、運悪く自宅の留守電にかかった電話番号にかけ直すと、「おめでとうございます。ご当選です。」という録音を聞くはめになったことがあったのです。ちょうど彼女が引越したばかりで自宅の電話番号を知らないということが重なった出来事でしたが、携帯電話以外に急ぎの連絡方法がないというのも確かです。これもいよいよという時にはお互い家族の助けを借りなければならないでしょう。先日、親しくしていただいていた方が思いがけず亡くなるということがあり、とてもお元気だっただけにわからないものだと思いました。こればっかりは年齢にかかわらずいつどうなるかはわかりません。連絡方法だけははっきりさせておいた方がよいでしょう。それにしてもブログの更新が安心材料になるということなので、やはり週に一度は更新しなければなりませんね。

2016年11月20日日曜日

「紅春 96」

9月28日の「柴犬とオランダ人と」に出張から5日ぶりに帰ってきたご主人を迎える犬たちの様子が動画で載っていました。飛びつく、立ち上がる、ぬいぐるみを振り回す・・・「そうそう、この通り。うちもおんなじ」と思って堪能しました。私が「ただいま」と言って久しぶりに帰省すると、いつもまず狂喜乱舞して足踏みします。茶の間では私と畳に頭をつけるという不思議なポーズをして後ろ足でピョンピョン跳ねたり、立ち上がって前足でボクシングしてきたりという激しい動きをするのが、子供の頃からりくの定番です。その後、あまりに激しく動いたので喉が渇くのでしょう、お水をカプカプ飲んでやっと落ち着きを取り戻します。「りく、落ち着いたか。」と声を掛ける頃には、隣にひっついて身づくろいをしています。よい季節には家に着いてすぐに散歩に連れ出し、おやつの時間であればおやつをあげ、しばらく一緒に過ごします。それから荷解きや家事などをするのですが、りくは私の行くところどこでもついてきます。 一日目はそんな感じで、眠る時も時々茶の間から私の部屋に来て、足もとあたりで寝ていたりします。

 しかし、犬も人間と同様、次第に毎日の生活に慣れてきます。私がいるのが普通の生活になるので、だんだん態度がでかくなるのです。台所に立っている時は「仕事中」とわかっているので邪魔しに来ることはありませんが、りくが仕事と認めているのは台所仕事だけのようです。それ以外は、机に向かっていようと、パソコンに向かっていようと、作業をしていようと、「姉ちゃん、遊ぼ。」とやってきます。お座り攻撃です。「今忙しいからあとでね。」と言うと、またしばらくして「あとっていつですか。」と、同じことをします。「もうちょっとで終わるから待っててね。」と言うと、「遊ぼ、遊ぼ。」と手っこを出して邪魔してきます。りくもだんだん老犬の域に入ってきたとはいえ、知能は人間の子供でいえば2才くらいでしょうから遊びたいのは無理もないのです。生来気立てのいい利口な犬なので、私も犬としてのしつけをきっちりしようという気にはどうしてもなれません。こうしてりくは滞在中にどんどん増長していきます。

2016年11月16日水曜日

「最近の日々」

 朝起きる、気分がよければ走りに行く、あるいは24時間営業のスーパーに買い物に行く。朝5時、まだ暗い。帰ってきて朝食をとる。パソコンをつける。これがなくてはもう何もできない。メールチェックをする。例のお方から大量のメールが来ている。一回ごとにメールアドレスを変えているようなので処置なしである。昨夜は4時間がんばったのか・・・、「誰か神様を止めてください」という題名が一か所だけ「僕じゃなくて神様を止めてください」となっている・・・、誰かが「神様じゃなくてあなたが迷惑メールをやめなさい」と返信したに違いない。あ~、刺激しちゃダメじゃんと思う。大事なメールに返信する。来月号会報の原稿も届いている、そろそろ編集作業を始めなければ・・・。やりながらサイフォンでコーヒーを入れ始める。出来上がるまで15分位かかる。コポコポと音がして部屋いっぱいに何とも言えないいい香りが広がる。上からサイフォンを覗きこんで、湯気の香ばしい匂いを楽しむ。傍から見たら怪しい光景だな。コーヒーが落ちたところで休憩にする。この時は必ずパソコンをスリープ状態にする。ふたを閉めるのが私のオンとオフのスイッチでもある。美術館に移動(自分のリビングだが)。コーヒーカップを片手にフェルメールの絵の前に立つ。うっとりする。6枚の絵の前を移動して眺める。何という静謐。幸せな気分になって、パソコンに戻ってふたを開ける。「待機状態から復帰しました」の音声が聞こえる。「休んでたのにごめんね。」と返事する。気晴らしに本でも読むかと図書館で借りてきた本をプリンターにセットする。これがないと読書もできない。文字を認識してデータ化してくれるのだ。若い作者の本を読む。某文芸誌の新人賞をとった本だが、言葉の過剰さに驚く。ここまで言語化しないと駄目なのか・・・。ちょっと疲れて気晴らしにならず、自分の仕事に戻る。調べものをして資料を作ったり、考えたことをまとめたりする。脳が糖を消費しているのを感じる。次第に消耗する。エネルギーを補わなければと思う。食事や休憩を適宜とる。睡魔が襲ってきたら昼寝もする。寝た後はいつもながら頭がすっきりして今後することが整理されている。睡眠の力はすごい。パソコンに向かい同じことを繰り返しているうちあっと言う間に夜になる。ぐったりするので床につく。そして、また朝が来る・・・。

 家にいる時はこんな感じでとても忙しく疲れますが、至福を感じる時でもあります。


2016年11月12日土曜日

「預言者とは」

 預言者と聞いて明確なイメージがわくと言う人はどのくらいいるでしょう。預言者を予言者と思っていた子供の頃から今に至るまで、私の中のイメージは物語の域を出ない或る種謎の人々です。彼らがどんな風貌をしており、どんな生活をしていたのかといった通俗的な興味もありますが、まずわかっていることというと、漢字の表す通り「神からその言葉を預かって、民に知らせる任務を負う人」であることです。「召命」という言葉がありますが、その任務のために神から呼ばれるという意味のキリスト教用語なのでパソコン入力ですぐに漢字変換される単語ではありませんし、一般の方にあまり知られていない言葉でしょう。喜んで預言者としての任に就く人はおそらく少数で、多くはいやいやながら引き受けざるを得なかったのだということです。ヨナのように逃げ出しても連れ戻されるのは比喩的にその務めのあり方を示していますが、これに関しては人々のそしりと無理解の中で神の言葉を取り次ぎ続けたエレミヤが心の葛藤を語ってくれています。

エレミヤ書20章9節
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。

 イスラエル民族が他の民族と異なっているのは、この預言者という存在が最高権力者にもものが言えたことでしょう。王と言えども自分にとって都合の悪いことを語る預言者を簡単には殺せないのです。悪逆非道な王として描かれるヘロデ王でさえヨハネの教えに「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けて」(マルコによる福音書6章20節)いたりするのです。

 預言者と言えばイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言者がまず頭に浮かびますが、これは語ったことが記述文書として残っている預言者であって、それ以前に史書に出てくるおとぎ話の人物のような預言者たちが大勢います。列王記のエリヤやエリシャはインパクトがあります。エリヤはバアル神を信じる預言者450人およびアシラ神を信じる400人を相手に、たった一人でスペクタキュラ―な預言者対決を演じていますし、エリシャに関してはベテルに上るとき町の子供たちが「「はげ頭、上って行け。」とはやし立て災いを招いたショッキングな話がありました。申命記には「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」(申命記34:10」とありますが、これはモーセの権威づけのためでしょうか。神の言葉を預かるという意味では確かにモーセも預言者ですが、後代の人間にとってモーセが別格なのは周知のことですから、申命記が成立した時期への関心をよびおこします。列王記には神の人を欺いて一緒に食事し彼に死をもたらしたとんでもない預言者も出てきたっけ。にせ預言者というのももちろんいるのです。

 イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった、預言書としてその言葉が記された預言者は他の預言者とどう違うのかなどわからないことが多いですが、はっきりしているのは神からの召命のみがその人を預言者として立たせるのだということ、それ以外の外的属性はその働きに何の影響もおよぼさないということです。エリシャは十二くびきの牛に引かせて畑を耕せるほど裕福な家の出身でしたし、エジプトとクシャによる反アッシリア同盟に加わることの愚かさを説いていたイザヤは三年間裸、はだしという異様な出で立ちでした。幼い時からシロ神殿で祭司職の修業をしていたサムエルは、いつのまにか預言者となって、サウルとダビデの即位に関して、キング・メーカー的働きをしています。彼はその後生まれ故郷のラマに帰り、ギルガル、ベテル、ミツパの聖所等を巡回指導していたようですが、シロ神殿に立ち寄った形跡がないのは不思議です。「「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネによる福音書4章44節ということでしょうか。


2016年11月6日日曜日

「不全感による不善」

 ホームページの管理人をしていて便りがあることはほとんどありませんが、特定の方から時々メールが届きます。日本と韓国にある夥しい数の境界に送信しているとのことで、最初のものは数年前にきましたが、意味不明の上五万字にも及ぶものだったことからその時もそれ以後もほとんど読んでいません。ご本人の言葉では事件を起こして服役されたそうで、印象からするとどうも神に対する逆恨みが強いようです。不幸な生い立ちであったのか、社会的いじめのようなものにあったのか、何があったのかはわかりませんが、神様が自分を不当に苦しめている、自分のすることを妨害しているとの思い込みがあるようです。こういう陰謀論に傾いてしまうと、その観点から解釈できない現状は何一つなくなるので手の付けようがありません。

 そのようなことを続けているうちに、一連の行動を考えるとおそらく心を病まれたのでしょう、最近は一日に百通くらいメールが来るようになりました。初めて迷惑メール対策の機能を使えてなるほどと思いました。自動分類してくれるのでフォルダごと空にするだけのことです。こちらの手間はそれだけですが、、推測するに送信者は家にいる間数分ごとに送信しているらしくお気の毒でなりません。思わず、「サムエル記」でサウル王に神からの悪霊が激しく降る場面を思い起こしてしまいました。あの時はダビデに対する嫉妬、あるいは王の座から追い落されるのではないかとの恐れからダビデを殺そうとするのですが、この方の場合は深い孤独に原因があるのではないかと思います。ただ同じような境遇であっても皆がこのような身の処し方を選択するわけではありません。「小人孤独にして不善をなす」ということです。

 唯一の救いは送信が止む時間があることで、身体をもつ人間には限界があることのよい点です。脳の活動は時空の誓約を越えて可能ですが、生身の人間は食べたり眠ったりしなければなりませんし、仕事やその他の用事をする必要もあるからです。悪霊に支配された何の意味もない行為から解放されるその時間は恵みの時と言うべきです。そういう時間が少しずつ長くとれ、平安を感じる時間が長くなることを願わずにはいられません。まことの神と出会い、深い闇の中に一条の光が差し込む時が与えられますように。