しかし気が重いのは彼のせいばかりではありません。実際彼一人でできるものではないのです。「ナチスの手口に学んだらどうかね。」という財務大臣がいて、経済さえそれなりに回っていればそれでよいという人たちがそれなりの数いて、政治家が何をしようと何を言おうと放置している国民がいるからできることなのです。駒場の立て看にもあったというヤセンスキーの『無関心な人々の共謀』の一節を思い出します。
敵を恐れることはない……敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
友を恐れることはない……友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
無関心な人びとを恐れよ……かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、無関心な人びとの沈黙の同意があればこそ、
地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。
「…たったひとつお願い事をしたい。今年は豊年でございましょうか。凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、…コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように」
後の言葉も私の言葉ではありません。1937の年頭の新聞に野上弥生子が書いた文です。あれから80年、地震や津波や火山の噴火、エボラやマーズの攻撃にも耐えてなお、戦争を経験しなければならないのでしょうか。