2015年6月7日日曜日

「元気が出ない」

 おそらく安保法制のせいだろうと思います。これほどはっきり戦争がしたいという表明も珍しい。集団的自衛権や自衛隊の海外派遣が別次元に突入するにもかかわらず、首相は「米国の戦争に巻き込まれるという不安を持っている方もいるかもしれない。そのようなことは絶対ない。」と述べました。この人はとりあえず法案さえ通ればいいのです。東京オリンピック招致の時と同じです。あの時の「(福島第一原発の)状況は完全にコントロールされている。」という発言は決して忘れません。人の言葉に意味などないことを学びました。憲法審査会の参考人として呼ばれた憲法学者が三人とも「憲法違反である。」と述べても首相は意に介さないことでしょう。

 しかし気が重いのは彼のせいばかりではありません。実際彼一人でできるものではないのです。「ナチスの手口に学んだらどうかね。」という財務大臣がいて、経済さえそれなりに回っていればそれでよいという人たちがそれなりの数いて、政治家が何をしようと何を言おうと放置している国民がいるからできることなのです。駒場の立て看にもあったというヤセンスキーの『無関心な人々の共謀』の一節を思い出します。

 敵を恐れることはない……敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
 友を恐れることはない……友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
 無関心な人びとを恐れよ……かれらは殺しも裏切りもしない。
 だが、無関心な人びとの沈黙の同意があればこそ、
 地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。

 「…たったひとつお願い事をしたい。今年は豊年でございましょうか。凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、…コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように」

後の言葉も私の言葉ではありません。1937の年頭の新聞に野上弥生子が書いた文です。あれから80年、地震や津波や火山の噴火、エボラやマーズの攻撃にも耐えてなお、戦争を経験しなければならないのでしょうか。