2025年5月21日水曜日

「青葉の頃」

  日が長くなって何とはなしに嬉しい季節である。庭には新緑が爆発し、ヤマボウシが窓辺でさわさわと木陰を作っている。ラジオによると仙台、東京の日の出は4時半前後、「マイあさ」が始まる頃にはもう明るくなっている。障子を開けるとまぶしいほどの光…。「りくがいたらいくらでも散歩してあげるのに」と思う。私がいない時には、りくは父の起床に合わせて6時過ぎ頃起きるのに、私が帰省している時は、いつも明るくなるとすぐやって来た。「姉ちゃん起きて!」と、手っこでふとんを掻くので、「おはよう」を言うと、りくはもうスタンバイ。うれしくてたまらない様子で、「早く、散歩」と急かしてきたっけ。こんないい季節、りくがいないのは本当に寂しい。

 日が出てじりじりと暑くなる前に草むしりをする。いっぺんにやるのは無理なので、まず道路に面したところの庭木、玄関前の雑草から始め、毎日少しずつ、ゴミ出しに行く小道、台所のある側面周辺の草をむしり、前庭の大きくなり過ぎたつつじを刈り込み、隣家との境、裏庭と片づけていく。蚊がいるといけないので、帽子の上に頭からすっぽりメッシュの上っ張りを被り、足は長靴履きの完全防備。むせかえるような草の匂いは悪くない。田舎でしか味わえない空気を土の匂いとともに胸いっぱい吸い込む。毎日1時間ほど仕事して、少しずつきれいになっていく敷地を見ると、やはり気持ちが良い。お腹が空いた頃、朝食となる。

 日曜は安息日、教会へ行く。5月18日はたまたま創立記念礼拝だった。福島教会は1886年5月23日に創立された。毎年その日に近い日曜を創立記念礼拝日として守る。ことしは創立後139年目に当たる。こんなに長い間、、この小さな群れをお守りくださったことを神様に感謝する。牧師がかわり、信徒がかわり、会堂がかわっても、変わらずに神の言葉は語られてきた。今もそれを求めて人々がここに集って来る。これほど過剰な言葉が横溢している世の中でも、教会でしか聴くことのできない言葉がある。

 この日の説教題は「あなたの重荷を主にゆだねよ」であり、これは詩編55編23節の前半部分の引用である。ちなみに23節全体は聖書協会共同訳では次のようになる。

「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」

 ここで重荷と言うと、何か思い煩いを伴う負荷のように感じるが、元来の意味は、カルヴァンによると、「くじ」、「賜物」といった趣きの言葉らしい。「くじ」や「ギフト」というのなら、人間の手の届かない事柄であるから神に任せるほかなかろう。なおかつ、今多くの人が押しつぶされそうなほど感じている思い煩いを神様に放り投げて、全て委ねることができたらどれほど樂であろうか。「一日の苦労は一日にて足れり(マタイ6章34節)」の御言葉通り、私たちの一日の苦労は神様がよくご存じで必ず嘉してくださる。神ご自身が私たちの苦労を知り、それを良しとしてくださるのである。次の日にはまた別の苦労があるが、決して変わることのない神の御言葉に聴き従いつつ、安心して140年目に向かっての歩みを始めるのである。


2025年5月15日木曜日

「工事の進展」

  先日は突然の「審判」というカフカ的不条理に見舞われた私であるが、工事の方は幸いなことに無事進んでいる。工事初日には玄関部分の天井板が剥がされ、屋根裏のスチールの骨組みや水道管や電気線等が見えた。以前東日本大震災で取り壊しとなった福島教会を再建する時、かなり建ち上ってきた礼拝堂の内部見学会に参加した時のことを思い出した。あの時は全て木造で木の香りが満ちていた。工事担当の方の案内でヘルメットを被っての見学だったが、上に向かって徐々にすぼんでいく大きな四角推の屋根を造るのに、何十という足場を組むのが大変だったというお話を聞いた記憶がある。

 私の自宅の解体工事では、屋根裏が水滴と水蒸気で満ちていた結果として、かび臭さと水による建材へのダメージが半端ないことを改めて目視できた。鉄骨が錆びておらず無事だったのが幸いだった。この日は玄関ホールのみならず、洗面所の壁紙も全部剝いてカビをこそげ落として終了となった。

 工事2日目からは造り付け家具の大規模な解体があった。玄関左手の下駄箱や物入れ、特にカビに侵された右手の物入れ、トイレ向かいの大きな物入れと、全ての収納庫の解体が始まり、家の様相が様変わりした。壁の石膏ボード等も必要に応じて解体され、ちょっと見には爆撃で破壊された戦闘地域の家屋のようである。壁にはボードを載せる高さの基準となる部分が各所に点在しているが、これは板を載せてから隙間に小さな穴をあけて断熱材を注入するとのことだった。こういうことも初めて知った。

 「大工さん、大変だったろうな」と今さら思うのは、住人が居住したままのリフォーム作業なので、一挙に解体という訳にはいかず、少しずつ解体したところへ適宜断熱材を貼っていく等の段取りが必要だったことであろう。これまで断熱材のなかった屋根裏部分にも相当厚い断熱材が張られるのを見て、本当に安心した。これだけ張れば真冬でも結露はほぼ生じまい。それにしても、天井に一分の隙もなく断熱材を貼るプロの手並みがすごい。簡単そうに見えるが、素人には絶対できない美しさである。上水管更新工事で水が使えなくなる前日まで、必要な水回りの箇所を残していただいたので、支障なく生活できて感謝であった。ほぼ室内だけの作業とはいえ、資材の運び込みには天候も作業の重要な要素で、また一戸建てなら資材の搬入はスペースさえあれば容易であるが、集合住宅の場合はオートロック解除、エレベーターでの上階までの運び上げ等、なにかと煩雑な手間が多いことであろう。

 このように工事が順調に進んでいくのは、もちろん全てを差配する人がいるからである。皆とこまめに連絡を取り合って指揮しているのは、そもそもの初めから施工を担当してくれている営業の方である。この方がいなければ何一つ始まってもいなかった。工事は最初にいただいた工程表に則って行われるが、時々刻々変化する様々な状況に応じて、臨機応変に手直ししながら進めることが必須である。据え置き家具の細部の確認があり、玄関ホール等の電灯の色味の確認があり、洗面所とトイレの床材の確認があり・・・と、サクサクと進んでいく。他にいくつもの案件を抱え、突発的事案にも対処し、それぞれの工程を同時並行で進めているのだから、この人の頭の中はどうなっているのだろうと思う。時間的制約の中で、必要な打ち合わせをしながら、それぞれの工事に関わる生身の人間の動きを全て勘案してスケジュールを日々組んでいくのは、列車のダイヤを組むくらい大変なのではないだろうか。大工さんにしてもこの方にしても、一つのお仕事に長年取り組んで来られた方は、到底他の人には到達しえない地平にあるようである。

 さて、給水・給湯管の交換で水道が使えない間は、さすがに田舎に退避せざるを得ない。水が使えないと、途端に人間の生活はまさにお手上げである。加えて浴室、洗面所、トイレの更新があるため、今回はいつになくロング・グッドバイである。帰省して「ああ、やはり」と思ったのは雑草の生い茂った庭である。明日から雑草との闘いが始まる。いつもあと少しのところで取り切れずに終わるが、今回は夏の繁茂期に向けて取り残しのないようにしたい。また、初夏を迎えるこの季節、とれたての野菜や果物を買いに農協の直売所に行くのが楽しみである。


2025年5月10日土曜日

「異議あり」

 保険調査の方との対面の後、保険についてつらつらと考えていた。考えてみれば、今まで入院時に生命保険の請求をしたことがあるが、建物に関する火災保険の請求は初めてである。手順に則って事実をありのままに報告し、復旧に必要な費用を請求する・・・あとはレッセ・フェール、為すに任せるほかはないと思っていた。

 ところが。どうも保険請求というものは、保険会社と被保険者の金額を巡る攻防を前提に成り立っているものらしいのである。保険屋は少しでも支払いを減額する材料をいつも探しているらしい。こういった世事に疎い私であるが、先日の保険鑑定人・調査員による聴き取りを受けて、嫌でも状況が分かってきた。もともと管理人さんから報告のあったマナー違反(無許可の写真撮影)については一言保険会社に言わねばなるまいと思ってはいたが、よくよく考えるとそんなのんきな事態ではなかった。聴き取りに同席してくれたリフォーム会社の担当者によると、今までの経験からしても「あの面談は異常、抗議すべき」という話だった。身分証の提示要求、重要な役割を果たした除湿器の現認、第三者による写真の日付の確認要求・・・どれをとっても、そして何度考えても、行き着く結論は「私は保険金詐欺の企図者と思われている」である。愕然とした。ショックであり、情けなかった。あろうことかニュースや推理小説でしか知らない保険金詐欺を行う輩と思われたのである。

 気持ちはず~んと沈み、丸一日そのことを考えていた。元来気が弱く、こういったことについて物言いをつけるのは私の最も苦手とするところである。しかし、事は私の人格に関わる。テレフォビア(電話恐怖症)の私は、意を決して震える手で受話器を持ち、保険会社に電話した。努めて抑制した口調でお話しする。私はクレーマーを忌み嫌っているのだが、正当な抗議はしておかなければならない。無事話し終え、担当の方は「不愉快な思いをされたのなら申し訳ありません。確認します」とのことだった。確かに、保険会社から保険調査員が派遣されたのには訳がある。事故と被害の間に時間があるからだが、それは建物の構造上そうなったのである。保険というものは思いがけない被害にあった人を助けるためにあるはずではないのか。もしその人の置かれた窮状を我が事として想像してみることができないのであれば、保険の社会的意義は著しく損なわれる。私のケースは保険会社の存在意義が問われる事例になるであろう。


わたしは二つのことをあなたに求めます、/わたしの死なないうちに、これをかなえてください。

うそ、偽りをわたしから遠ざけ、/貧しくもなく、また富みもせず、/ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。

飽き足りて、あなたを知らないといい、/「主とはだれか」と言うことのないため、/また貧しくて盗みをし、/わたしの神の名を汚すことのないためです。

(箴言30章7~9節 口語訳)


 私の願いも本当はただそれだけなのである。


2025年5月8日木曜日

「保険鑑定人、保険調査員」

  先日保険会社から電話があり、「1月以降の居室の被害が11月の水漏れ事故からのものとは、提出書類上からは判断できないので、現場調査をしたい」とのことだった。「5月の連休明けからもうリフォーム工事に入るのですが・・・」と告げると、相手は驚いて「調査員をすぐ手配できるかどうかやってみます」とのことで、結局工事初日にやって来ることになった。もちろん工事前の状態を調査するのが目的であるから、職人さんには申し訳ないが、午後からの作業を1時間余り待ってもらわねばならなかった。

 保険鑑定人と保険調査員の違いがよく分からなかったが、どうも前者は主に建物被害の鑑定、後者は保険申請者自身の調査という役割分担のようだった。まずはお二人と面談。これにはリフォーム工事施工担当者も同席していただいて、4人での顔合わせとなった。1時間程度で聴き取りをするには何か質問項目やレジュメのようなものが必要なはずだが、そういったものを出す気配がないので、私の方から自分が作っておいた、水漏れ事故後の半年間の経過を時系列にしたメモをお渡しした。それから、まず鑑定人が一つ一つの事項を辿る形で質問し、こちらはそれに答えていくというふうに進んでいった。専門的な問いには建物の構造をよく知る施工担当者が答えてくれた。問題の焦点である給湯管からの水が天井裏に水滴となって降り注いだメカニズムについては、特に鮮やかに解説してくださった。到底私一人では対処できない場面であり、本当にありがたかった。

 「なんか変だな」と思ったのは、屋根裏の水を家庭用除湿器で23ℓ輩出した話をした時であった。鑑定人が「その除湿器ありますか」と言う。私はすぐ持ってきて「2008年製、なんとナショナルの製品ですが、一週間連続で故障もせず頑張ってくれました。昔の日本の家電のすごさを改めて知りました」とお話しした。顔には出さないが、無論心はムッとしていた。鑑定人は、このような話さえ作り話の可能性があると考えているのである。私は少なくとも平然としていたつもりだが、隣の施工担当者は「最近の鑑定は裁判みたいだな」と、聞こえよがしにつぶやいていた。そして、続く質疑応答に業を煮やして、「実際に現場をご覧になった方がいいですよ」と、鑑定人を水回りの被害現場へと連れ出してくれた。浴室、洗面所、トイレ、玄関ホールと巡って、あれこれと説明している声が聞こえた。

 さて、私の方は調査員の聴き取りに応じることになったが、有り体に言ってあれは「事情聴取」もしくは「取り調べ」に近かったと思う。申請をした本人が住所に書いた自宅にいるのに、身分証明書の提示から始まったのである。そして仕事の有無、入居年数、これまでのリフォームの有無も訊かれた。私の場合給湯器交換のみだが、これはどういう質問なのだろう。メンテナンスをきちんとしてるかという趣旨なのか、それとも保険金を利用したリフォームマニアかどうかを知るためなのか謎である。それから先ほど話した内容の再確認と追加説明を求められた。これなどは「供述」内容の不審点の洗い出しなのだろうと思う。このように微に入り細を穿った聴き取り調査であった。

 あとは私のカメラとスマホの証拠写真(事故後の被害状況を収めた写真)を日付と共に何枚もご自分のスマホで撮っておられた。除湿器の写真さえ撮っていたのにはあきれを通り越して笑いが込み上げてきた。さらに仰天したのは、私が撮った証拠写真を「誰かに送っていないか」と尋ねられたことである。なぜそんなことを訊くかと言えば、もし私が誰かにその写真を送っていたら、その相手(第三者)に日付を確認できるからであろう。つまり本人が撮った写真はいくらでも日付を偽装工作できるとお考えなのである。自宅の被害写真を誰かに送る人などいるのだろうか。見ただけで憂鬱になる写真である。私など自宅被害のことは数か月友人にも話せなかったくらいだ。後で分かったことだが、調査員は管理人さん(第三者)からも写真を手に入れようとしていたことが判明した。第三者からの証拠によって当該者の証言の証拠固めをしなければならないことになっているに違いない。仕事とはいえ、ここまで疑われるとはさすがに腹に据えかねる。

 お二人がお帰りになってから、管理人さんからインターフォンで連絡があり、「保険屋の二人が、許可なく建物の写真を撮りまくっていた。エレベーター内の掲示物や掲示板の掲示物まで撮っていた。『どなたですか。いったい何ですか』と言ってやめてもらった。『保険屋です』と言っていたが、不動産屋かと思った」とひどくお怒りであった。もっともなことである。ちゃんとした会社の社員がこんなに態度が悪くてよいのだろうか。このことを施工担当者に伝えると、先ほど現場で話した鑑定人について、「あの人、何にも分かってなかった。『勉強になりました』と言って帰っていった」とのことだった。今回の体験から思うのはただ一つ、「二度とこんな不愉快な思いはしたくない」ということである。そのためにリフォームをするのである。これから長丁場になるが、今回の対応のような腹立たしさを経験した後では何ほどのことでもない。施工会社の方や職人さんは皆気持ちの良い方ばかりである。きっと言い訳の利かない実物と日々向かい合っているからだろう。


2025年5月1日木曜日

「まもなく工事開始」

  リフォーム準備の日々はまさに光陰矢の如し。決めることが多いのである。先日は請負会社の方とショールーム巡りをした。浴室関係はTOTO、洗面所関係はクリナップを訪れた。何しろリフォームなるものについてド素人の私のこと、ショールームでは浦島太郎状態。この数十年での設備の機能性の進化に、驚きと感嘆の連続であった。竜宮城ならぬショールームにいるうちにすっかり楽しくなってきたが、「いやいや分相応に!」と浮き立つ気持ちをセーブする。専門家の説明を聞きながら、自宅のサイズや自分の好みに合わせてカスタマイズしていく。あくまで「自宅がショールームのようである必要はない」と、自らを戒めつつ決めていくが、この楽しさは抑えがたい。

 話を聴いているうち、私のプランに一つだけまだ心配な点があることに気づく。それはトイレである。トイレは壊れていないので更新するつもりはなかったが、既に二十数年の年代品である。タンクが大きすぎるので、「もう少し節水仕様のものがいいな」と以前から気になってはいたが、盲点だったのは便器が置いてある床の強度である。長年のうちには床と便器の継ぎ目が破損して、重大事故になったケースが過去にあったという、恐ろしい話を聞いた。体重の重い男性の自宅での事例らしいが、この場合は下水事故なので、被害を与えた相手との揉めようは水道管破損の比ではないという。それはそうだろう。あらゆる水回りの事故の可能性を回避したい私は、トイレの更新も即決断。こういう時は迷ってはいけない。もう一度TOTOのショールームに連れて行ってもらい、必要十分の仕様を選んできた。リフォーム会社の方も「TOTOとクリナップを回って、またTOTOに戻るというのは初めてのケースです」と言っていたが、嫌な顔一つせずにつれて行ってくれた。一日がかりの製品選びだった。

 その後は何日かあけつつ、数日に分けて洗面所とトイレの床の選定、ドアの選定、壁紙の選定があった。壁紙の方はあまりに多種多様で、決めるのに半年かかった人もいると言う。担当の方は「10往復くらい見て選んでください」と、昔の電話帳2冊分くらいの厚さのカタログを置いて行かれた。それから毎日カタログをめくって決めようとするのだが、日によって付箋を付ける箇所が違う。素敵なデザインがいろいろとあるが、「機能性を重視して決定する」と心に決め、絞り込んでいく。機能性というのは、「抗カビ」「抗菌」「撥水」「表面強化」「消臭」「通気性」「ストレッチ」「吸放湿」「汚れ防止フィルム」「ウレタンコート」など様々あり、壁紙の進化も著しいようである。とにかく迷う。適材適所で用いればリフォームもし甲斐があるというものである。しばらくは壁紙のことが頭を去りそうにない。このように多忙ではあるが、楽しい忙しさである。一か月少し前には五里霧中の暗闇にいたことを思えばすべてが夢のように思える。


2025年4月24日木曜日

「2025年のイースター」

  このところ春は教会総会に合わせて帰省していたが、今年はカレンダーの関係でイースターに帰省することになった。その日、4月20日は光の春を迎えて、穏やかで良い気候に恵まれた日だった。兄に送ってもらい、早めに教会へ。静かな会堂でイースターの幸いをかみしめながら礼拝が始まるのを待つ。その日の聖書の箇所は「ヨハネによる福音書20章19~23節」で、説教題は『あなたがたに平和があるように』であった。ヨハネによる福音書20章はマグダラのマリアが早朝お墓で復活の主に出会う場面(1~18節)から始まる、私の特愛の箇所である。以前「信じる者とされるまで」に書いたが、ここまでヨハネ福音書をずっと読んで登場人物の足取りを追ってきた者にとって、人が神を信じるとはどういうことかが、一瞬の出来事としてこれほど見事に示される場面はないと思う。「私は主を見ました」と、復活のキリスト・イエスについて最初に告白したのはこの女性であった。

 説教の箇所はそのあとの、主イエスが弟子たちのところに現れた場面である。(ヨハネによる福音書20章19~23節)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエスが十字架刑で処刑された後、恐くてひとところに閉じこもっていた弟子たちに主イエスは現れる。そして真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われるのである。これは全くの、天から降ってきたような恵みである。主イエスの言葉は、「あなたがたに平和がある」とも解される言い方であり、「もう既にあなたがたには平安がある」と仰っていると言ってもよい。主の復活は全くの与えられた慈しみなのである。ここには喜びしかない。弟子たちは全ての罪赦されて、どれほど平安を感じたことだろう。

 さて、礼拝の後は、今回は祝会といった改まったものではなく、ミニバザー食事会。婦人会のお働きにより準備されたお食事をいただいてテーブルごとに懇談し、普段は話す機会がない方々といろいろなお話をした。とても貴重な楽しい時間となった。ミニバザーによる収益は会計の大事な一部となる。一昨年教会会計が大幅な赤字になったことから、この2年間皆で献金と倹約に励んできた。昨年は赤字幅が収縮した者のまだ赤字だった。「今年はどうかな」と思っていたら、その後牧師先生と言葉を交わした時、「次週の教会総会資料を見てください。わずかですが黒字に転じました」とおっしゃったので、思わず心の中で拍手。これも本当にうれしいことで、喜びが増したイースターであった。

 説教の中で牧師先生は23節の言葉が曲解されて用いられた不幸な歴史にも触れた後、その言葉が真に意味するところについて、「私たちがキリスト・イエスの十字架の死と復活を宣べ伝えずして、いったい誰が伝えるのですか」と言われた。その通りだと思う。


2025年4月18日金曜日

「リフォーム準備」

  ハードな日々が続いている。水濡れ事故の原状回復と今後の水漏れ事故予防を企図した全給水・給湯管工事のためである。先日は工事の契約書を交わした。このような大きめの契約は二十数年ぶり。どのような分野でもそうだと思うが、現代社会で一番難しいのは信頼できる人、信頼できる会社を見つけることだろう。ネットがこれだけ普及しても、これは年々一層難しくなっていると感じる。それさえ見つかれば後の苦労は報われる。今回、住宅関係の心配事を今後も相談できる相手が見つかったので、被った災い以上の収穫があった。神様のご加護としか言いようがない。

 いよいよ工期が決まり、ほぼ一か月にわたる大工事になることが分かった。始まるまでにそれほどの猶予はないこと、当初考えていた以上に大きな空間を空けねばならないことが判明し、結構焦っている。「要る」「要らない」を分ける時間がないものは、取り敢えず箱や透明な袋に入れて場所を移し、棚や引き出しを空にしていく。空いたスチール棚などは工事の及ばない場所に移動する。りくの手も借りたい状況である。実際にりくがいたら「遊べ、遊べ」と言って邪魔しに来るので、今以上に作業は遅れるのは目に見えているが・・・。それくらい時々気晴らししながらやらないともたない感じではある。

 何しろ水回りの工事なので、キッチンにある文明の利器は当面使えない。しかし、電子レンジと炊飯器、フライパンとやかん、あとは少しの食器類と水切り場さえあれば何とかなる。そう言えば、社会人になって初めて住んだ住宅の台所は狭くて、今のキッチンの三分の一もなかったなと思い出した。これでも避難生活をしている方々から見れば十分恵まれている。片づけをしていると、本当に必要な物はそんなに多くないと毎日気づく。これも神様の御恵みと思う。