日が長くなって何とはなしに嬉しい季節である。庭には新緑が爆発し、ヤマボウシが窓辺でさわさわと木陰を作っている。ラジオによると仙台、東京の日の出は4時半前後、「マイあさ」が始まる頃にはもう明るくなっている。障子を開けるとまぶしいほどの光…。「りくがいたらいくらでも散歩してあげるのに」と思う。私がいない時には、りくは父の起床に合わせて6時過ぎ頃起きるのに、私が帰省している時は、いつも明るくなるとすぐやって来た。「姉ちゃん起きて!」と、手っこでふとんを掻くので、「おはよう」を言うと、りくはもうスタンバイ。うれしくてたまらない様子で、「早く、散歩」と急かしてきたっけ。こんないい季節、りくがいないのは本当に寂しい。
日が出てじりじりと暑くなる前に草むしりをする。いっぺんにやるのは無理なので、まず道路に面したところの庭木、玄関前の雑草から始め、毎日少しずつ、ゴミ出しに行く小道、台所のある側面周辺の草をむしり、前庭の大きくなり過ぎたつつじを刈り込み、隣家との境、裏庭と片づけていく。蚊がいるといけないので、帽子の上に頭からすっぽりメッシュの上っ張りを被り、足は長靴履きの完全防備。むせかえるような草の匂いは悪くない。田舎でしか味わえない空気を土の匂いとともに胸いっぱい吸い込む。毎日1時間ほど仕事して、少しずつきれいになっていく敷地を見ると、やはり気持ちが良い。お腹が空いた頃、朝食となる。
日曜は安息日、教会へ行く。5月18日はたまたま創立記念礼拝だった。福島教会は1886年5月23日に創立された。毎年その日に近い日曜を創立記念礼拝日として守る。ことしは創立後139年目に当たる。こんなに長い間、、この小さな群れをお守りくださったことを神様に感謝する。牧師がかわり、信徒がかわり、会堂がかわっても、変わらずに神の言葉は語られてきた。今もそれを求めて人々がここに集って来る。これほど過剰な言葉が横溢している世の中でも、教会でしか聴くことのできない言葉がある。
この日の説教題は「あなたの重荷を主にゆだねよ」であり、これは詩編55編23節の前半部分の引用である。ちなみに23節全体は聖書協会共同訳では次のようになる。
「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」
ここで重荷と言うと、何か思い煩いを伴う負荷のように感じるが、元来の意味は、カルヴァンによると、「くじ」、「賜物」といった趣きの言葉らしい。「くじ」や「ギフト」というのなら、人間の手の届かない事柄であるから神に任せるほかなかろう。なおかつ、今多くの人が押しつぶされそうなほど感じている思い煩いを神様に放り投げて、全て委ねることができたらどれほど樂であろうか。「一日の苦労は一日にて足れり(マタイ6章34節)」の御言葉通り、私たちの一日の苦労は神様がよくご存じで必ず嘉してくださる。神ご自身が私たちの苦労を知り、それを良しとしてくださるのである。次の日にはまた別の苦労があるが、決して変わることのない神の御言葉に聴き従いつつ、安心して140年目に向かっての歩みを始めるのである。