東京で通っている教会では月に一度、一年以上にわたって「ダニエル書」の講解説教をお聴きしている。「ヨハネの黙示録」ほどではないにしても、「ダニエル書」も黙示文学であり、普通に読んでいても分からないことが多い。礼拝時の聖書個所として「ダニエル書」が選ばれることはまれで、一般にユダヤの信仰者についての不思議な話という印象を持つ人が大半だと思う。話の中身として、主人公は燃える炉の中や獅子の穴に投げ込まれても神に守られて無事だったとか、王様が見た夢を解き明かして重用されたとか、超自然的、戯画的な記述が続き、出てくる幻の訳の分からなさが終盤に向かっていや増していく。「ダニエル書」の礼拝説教は大詰めを迎えているが、まだ最後の11章、12章(ここはそれまでにも増して凄いヴィジョンのオンパレード。自分で読んだだけでは全く分からない)を残しているが、ここまでで感じたことを記す。
「ダニエル書」は紀元前6世紀のバビロン捕囚時代を描いているが、作者は紀元前2世紀にセレウコス朝のアンティオコス4世による圧政に苦しむユダヤ人である。国土喪失という民族最大の悲劇が起こって四百年たった当時でさえ、残ったユダヤ人にとって「バビロン捕囚」はいつもそこへと回帰する原風景なのである。国を失い土地からも切り離されてなお、自分たちの原点を忘却していないこと自体、私などからすると驚異的なことに思える。強国の狭間でもみくちゃになって生きてきた民が、まだ自らのアイデンティティを保っているとは信じがたいことである。
「ダニエル書」には超自然的な事柄やヴィジョンが次々と出てくるが、これはかなり緻密に構成されているのが分かる。第1章から第6章まで読むと、徐々に困難さを増す状況に対し、ダニエル他ユダヤの残された者たちが何に依って立っていたかが鮮明に描かれている。
「ダニエル書」の第1章は、バビロン王ネブカドネザルがイスラエルの有能な若者を選別し、宮廷で重用したこと、そしてこれらの4人の若者が生殺与奪の権を握られた立場でも神の戒め(この場合は食物禁忌)を守ったことが記されている。
「ダニエル書」2章は、ネブカドネザル王が何度か見て不安で眠れなくなった夢の話である。王は夢の解き明かしどころか、「夢そのものも言い当てよ」という無理難題を課し、それをダニエルが言い当てる。山から切り出された石が、金、銀、青銅、鉄、陶土でできた一つの巨大な像を打ち壊す夢は、これから起こる国々の勃興や消滅について王に知らせるものだった。ここではダニエルがひたすら祈ったため神が彼に秘密を明かしたこと、この功績によりダニエルは王宮に仕える者となり、他3名はバビロン州の行政官になったことが記されている。
「ダニエル書」3章はダニエルではなく他の3人の行政官が不敬罪のターゲットになった事件である。彼らはネブカドネザルの建てた金の像の除幕式にその像を拝まなかったことにより、燃え盛る炉に投げ込まれることになった。3人は縛られたまま炉に投げ込まれるが、何の害も受けなかったばかりでなく、ネブカドネザルは炉の中に神の子のような姿をした4人目の者を目撃してしまう。彼らの神による救いを目の当たりにした王は「彼らの神をたたえよ。人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と言う。
3人に明白な身の危険が迫った場面で、彼らは自分たちの神が必ず救ってくださると公言し、さらに「たとえそうでなくとも」、王の神々に仕えたり、王の建てた金の像を拝んだりしないという命知らずの宣言をする。ご利益主義信仰の全否定である。神への信仰のためには恐れを知らない人たちであり、彼らには飴も鞭も通用しない。この厳しさは豊饒な神々との間で持ちつ持たれつの関係にあった周辺の民族の宗教にはない、突出した特徴だろう。
ネブカドネザルがユダヤの神を賛美したことを含め、これがどれくらい史実を反映した話なのか分からない。しかし、続く第4章を読むと、ネブカドネザルは支配する王国の統治に関して柔軟な考え方ができる王だったのかもしれないと思えてくる。
「ダニエル書」4章はさらに進んだ段階の夢とその説き明かしの話である。この時ネブカドネザルの見た夢は、鳥や獣を養っていた大きく立派な木が切り倒されるという夢である。ただし、切り株と根は地中に残され、鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置かれる。切り倒された木から次第に人の心が失われ、獣の心が与えられ、七つの時が過ぎるという。
ダニエルによる解き明かしはこうである。これはネブカドネザルの身に起こる幻で、全地を治め豊かに養っている大木は彼自身であるが、やがてそれは倒されて人間社会から追放される。獣と共に住んで七つの時を過ごすうち、ついに彼は人間の王国を支配するのは神であり、御旨のままに誰にでもそれを与えるのだということを知る。そのことを悟れば、切り株と根が残された木(王国)は彼に返される。それから、理性が戻って来たネブカドネザルが、「いと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた」こと、そして、彼が再び王国に復帰したことが記されている。
独裁者であろうはずのネブカドネザルにこのような回心があったとにわかには信じがたいが、「ダニエル書」の作者にそう書かせるだけの何かがあったのであろう。しかしこの時代の他の独裁者から見れば、ユダヤの神をほめたたえるようになったバビロニア王のこの話は見過ごせないリスクがあるに違いない。なにしろ古代イスラエルは強国の間で踏みにじられて右往左往しながら生きてきた弱小民族である。大帝国の王が自民族の神ではなく、被支配者の神を称えるようなことがあってはならないはずである。そう考えると、「ダニエル書」はここまでで十分危険な書と見なされ得るだろう。
「ダニエル書」第5章は、レンブラントの絵画『ベルシャザルの饗宴』(ナショナル・ギャラリー―・ロンドンNational Gallery London)で有名な壁に文字を書く指が現れる不思議な話である。三十年以上まえ、母と英国旅行をしたとき母はこの絵の前で、「ああっ、この絵は…」と大興奮だったのを思い出す。私はと言えば、聖書の話なのは分かったが、どの書に書かれた話であるか分かっていなかった。長い年月が経ったものである。
この章では王はネブカドネザルから息子ベルシャツァルに代わっている(正式に即位した王ではないらしい)。エルサレム神殿からの分捕り品の金銀その他の祭具で酒を飲んでいた大宴会中に、壁に文字を書く人の指が現れるというぎょっとする場面が印象的である。この文字を読み、解釈する者に王国の第三の位を授けるというベルシャツァルの命にダニエルが召し出された。
強権的で横暴な王に比べて、これくらいの飽満な振る舞いなら害がないように思えるが、それは浅はかな人間の考えであろう。ダニエルは神殿の祭具を弄ぶ享楽的な王に対し、「あなたは命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない」との言葉を突きつけ、謎の解き明かしをする。すなわち、文字は「メネ、メネ、テケル、そして、パルシン」、意味は「神はあなたの治世を数えて(メネ)それを終わらせ、あなたを秤にかけて計って(テケル)不足と見なした。あなたの王国は二つに分け(パルシン)られて、メディアとペルシアに与えられる」ことを示した。
この解き明かしにより、ベルシャツァルは約束通り、ダニエルに王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出したが、まさにその夜ベルシャツァルは殺されたと「ダニエル書」は記している。まことに厳しい結末である。暴虐の限りを尽くす王も享楽に浸る王も、「神を畏れ敬う」心がないという点で何の違いもないのである。父王ネブカドネザルに王国が返されたのは、ひとえに彼がいと高き永遠の神を拝し、称える者になったからだということが一層浮き彫りになる。
「ダニエル書」第6章に出てくる王はメディア人ダレイオスに代わっており、王国におけるダニエルの地位はさらに上がっている。ダニエルは各地の総督から報告を受ける3人の大臣の一人であったが、王がダニエルに王国全体を治めさせようとしたところから他の高官の奸計の標的になってしまう。彼らは神に対するダニエルの信仰に狙いを定め、彼を陥れるために王を計略にかける。すなわち、王をして「向こう三十日間、他の人間や神に願い事をする者は誰でも獅子の洞窟に投げ込まれる」という法律に署名させることに成功したのである。国の制度や法律が整備されると、王といえどもその制約を受けるようになる。しかしどのような体制、どのような法であろうとも、それが良い方向に作用するかどうかはそれを運用する人間によるということは、現在我々が日々見聞きする事象により明らかであろう。
さて、ダニエルはいつも通りに振る舞い、エルサレムに向かってひざまずいて、神への三度の祈りと賛美をささげたため、獅子の穴に淹れられることになる。この時王はダニエルを何とか救いたいと思いながら、自分の発した命令を反故にできずどうすることもできない。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と言うばかりである。
翌朝、獅子の洞穴に無傷でいるダニエルを見て、王はダニエルを救った神の不思議な御業を賛美し、「この王国全域において全ての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない」と定める。
ここまでは「ダニエル書」の中で比較的分かりやすい部分であり、ダニエルと彼が仕える王との間での出来事である。このあと以降はダニエル自身が見た夢の内容が語られ、それが一段と黙示的な絵巻物、壮大なスペクタクルといった様相を呈する。一般的に、黙示文学はその時代を取り巻く環境の中では憚りがあって書けないことを記すための常套手段であろう。大枠だけ区切ると、7章はバビロンの王ベルシャツァルの治世元年に眠っているダニエルに現れた夢、8章はベルシャツァル王の治世第三年にダニエルが見た幻、9章はダレイオスの治世第一年に文書を読んでエレミヤの預言を知り、イスラエルの罪の告白の祈りをするダニエルに現れた幻、10章はペルシアの王キュロスの治世第三年に嘆きの祈りをしているダニエルに与えられた啓示である。
すなわちこれらは全てダニエルの見たヴィジョンであり、その説き明かしをするためダニエルは深く自分の内部に沈潜しなければならない。次々と生じては消える王国の盛衰を見て、リバイアサンが荒れ狂う現状に生きる中で彼らが行き着く先にあったのは何であろうか。後半部分はまだ整理できないが、ダニエルが自らと自らの民族の中にはっきりと「罪」を認めたことは確かだと思う。それこそがユダヤの民の出発の原点となったのである。